フレッド・ヘインズ『荒野の狼』をめぐって

SteppenWolf 1974 Fred haines
SteppenWolf 1974 Fred haines

荒野の狼はやがて夢見るアウトサイダーの泡となる

ベルイマンの映画と切っても切り離せない
スウェーデン出身の俳優マックス・フォン・シドーのことを
何気なく考えていた。
ベルイマン作品が好きだからというのもあるが、
このマックス・フォン・シドーが同じぐらい気になり、好きなのである。
なぜだろうか?
それはいわゆる、ハリウッド的な俳優から隔たっているのは明白で、
自分自身に、立ち返る問いを、その存在と配役によって
しばし、なげかけてきたのを知っているからなのだと思う。
要するに、スクリーンを離れてさえも、どこか信用がおける俳優なのである。

確かに、大部分をそのベルイマンを通して観てきたわけだが、
ホラーの代名詞ともいうべきは
『エクソシスト』のメリン神父の印象の方が強い、
そんな映画ファンもいるであろうことは推測できる。
それゆえに、国際的な名優に数えられているわけだが、
では、その最高傑作、代表作は何かと考えあぐねていたら、
実はベイルマンの作品でもなく、『エクソシスト』でもなく、
『荒野の狼』というカルト的な映画に行き着くのだ。
再確認のため、何十年ぶりに見返したのであるが、
映画自体、トリッキーな映像があまりに強烈すぎて、
これをマックス・フォン・シドーの最高傑作だと言ってしまって
果たしていいのかどうかさえ、
実のところ、よくわからなくってきたところではある。

だが、この映画が衝撃的であるということの前に、
まず原作『荒野の狼』がヘルマン・ヘッセの代表作でもあり
映画の中身はそのヘッセ的アウトサイダーハリー・ハラーを
忠実に描こうとしていることはよくわかる。
まさにハリーはヘッセ自身、分身である。
そして、自分は最初にこの映画を見たときと
さして違わない一つの感慨を持つに至ったものである。
すなわち、この世界観が今尚、自分を支えているものなのだと。
それがまたヘッセ文学のコアであり、
同時に自身のアウトサイダーとしての資質を呼び覚ます上で、
このハリー役を重ね合わせた時の
見事なまでの収まり用がこの映画への偏愛を高め
どうしてもマックス・フォン・シドーでなければならなかったこと、
それ以外の俳優を全く想起できないこと、
仮に、違うキャスティングならば、これほどまでに
思い入れを持てなかったこと、
などが次々に思い返されたのである。

『荒野の狼』は現代文明に対する皮肉であり、
その洞察力はハリー・ハラーを通じてこの物語を支配し、
他の作品以上に、色濃く反映されているように思われる。
だが、フレッド・ヘインズのよるこの映画化は、
単に文学からの映画化というのでもなく、
また、精神的世界を映像化すると言ったものではなく
実験的でありながらも、どこかユーモアや諧謔精神のようなものをうまく取り込んで、
ヘッセの世界観をうまく抽出した映像化に成功している。

マックス・フォン・シドーも素晴らしいが、
ハリーの分身ヘルミーネ役ドミニク・サンダはうっとりするほど魅力的だし
パブロ役ピエール・クレマンティの特異で妖しげな気配も
実に見事に華を添えている。
まさに自分好みの個性的なキャスティングも手伝って、
小説とは違った意味で、実に興味深いヘッセワールドに
ひたすら安心して惹き込まれてゆく作品である。

50歳になり、死でもってこの虚無の病いと決別しようとするハリーは、
ヘッセ自身が抱えていた精神の彷徨ぶりを描いたものだが
そこで主人公は、三人の投影者
世界の多面性を解くヘルミーネ、
「魔術劇場」を通し、ユーモアの必要性を説くサキソフォン奏者パブロ。
肉体の享楽を共にするマリアを通して、
自らの人生に一つの答えを出そうというのであるが
人生はそう単純なものではない。
苦悩は続いても、割り切れるものはなにもない。

映画そのものは、終始、このハリーの
自問自答のような内的風景が幻覚を伴って吹き荒れる。
シュワンクマイエルばりのアニメーションによって挿入される
「老いぼれ狼の論文」ではこんな風に自己を定義する。
「喜びを知りながら、息苦しい憎しみの喜びや自己嫌悪と同様に、
いうまでもなく、中流階級にとらわれてそこから逃れられずにいる」のだと。
まさにアウトサイダーはこの中流階級の意識に潜む
慢性の病いのようなものかもしれない。
言葉で表現する以上に狂った世界を際立たせる映像のマジックによって
アウトサイダーは幻想のなかを彷徨い続ける。

そうして終始現れる「狂人のみ入場可」という名目の
「魔術劇場」でみる幻想を利用した廉で
この現実社会不適応者は最後は裁判にかけられる始末。
絶えずハリーの前に現れてはなにやら示唆に富んだ言葉を発するのが
よりにもよってかのゲーテである。
「より遠い罪に踏み込んでゆくのだ。人生により深く」と突きつける。
とどのつまり、生きてゆくという究極の苦しみによって
人生を享受することを余儀なくされるだけなのだ。
ひとえにユーモアの欠如は大罪であり、
真面目で知識を抱える人間が陥る罠に争うには、
まずは現前の人生を素直に受け入れることしかないのだと。
裁判にかけられ嘲笑を浴びるハリーは
ようやくそれがわかりかけてきたと自虐的な境地に至って映画は終わる。

結局のところ、ユーモアや楽観主義に依存することしか
究極の救いはないのだとも聞こえる。
それがひいてはヒッピー思想やサイケデリックな精神世界へと
継承されて行っただけなのだ。
ちなみに、60年代後半から70年にかけ
熱狂的支持を得たカナダのロックバンド、
ステッペンウルフはこの小説から生まれた。
ヒッピームーブメントの走りとして、『荒野の狼』は
そうした時代の迷い、迷走をはらみながら生きる若者たちにとって
生の符号として位置付けられる作品でもある。

マックス・フォン・シドー、ヘッセのことばかりを書いてきたが
フレッド・ヘインズという監督のことにも少し触れておきたいのだが、
残念ながら、ほとんど資料らしきものが手元にはない。
『ユリシーズ』の脚本を手がけてはいるが
フィルモグラフィーは本作のみ。
本作が実にユニークなものだっただけに、
その後の活躍の場が見られなかったことがなお一層惜しまれるところである。

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