未来〜過去への往来さえも万事オーライ放蕩ロマンということで
年の瀬も迫り、カウントダウンも残すところ2日。
そんな際に何を書き残して置くべきか?
過去を振り返るのか?
未来を夢みるのか?
はたまた現実を率直に語るべきなのか?
という問いをなんとなく模索していて、
フランスの映画作家クリス・マルケルの『ラ・ジュテ』
という映画に思い当たった。
つまり記憶の逆行である。
令和時代へ突入して時も流れ、
誰もが一度その意識下に置いてしまったものに
さして騒ぐものもいないだろう。
むしろ、平成やそのまた過去に
多大な価値を見出すかもしれないし
憧憬のようなものさえ抱き始めるかもしれない。
そんな中で、今、ぼくはこの現実を見渡しながら
なんとなく落ち着かない挙動不審の人間の一人だ。
人類はこのままたおやかに未来へと歩みを進めるのか?
人類滅亡後の未来から過去へのタイムトラベルをし
その原因をさぐるために男は記憶をたどり
あるひとりの女と出会う。
それは幼少のころの記憶なのか?
それは再会なのか?
それとも「時」の終焉なのか?
これはクリス・マルケルによる映像(映画)なのだが、
すべてスチール写真で構成された実験的なフィルムだ。
といってもスチールじゃなく映像のコマ送りで再生され
途中一カ所動画が挿入されるだけの斬新なものだ。
ラストシーンのコマ送りスローモーション、
そしてカットバック・・・・
みごとな弁証法的作品というべきか。
もっとこういうスタイルの映画があってもいいと思う。
この三年後ゴダールは『ラ・ジュテ』に触発され
『アルファヴィル』を撮っていたりもするが
以後なかなかそういうハッとするものには出くわしてはいない。
もっともインターネットの普及に伴い
画像のスライドなんかは見飽きるほどに
溢れかえっているわけだが・・・
ただテリー・ギリアム監督が『12モンキーズ』で
『ラ・ジュテ』をリメイクしていたりもするが、
大好きなこの作品、そして作家クリス・マルケルを
個人的には大いにリスペクトしての、
かねがね写真でこういう「フォトロマン」作品を
作って見たいなあと思って久しいが
なかなか実現するに至らない、言い訳だけが先行する。
実は、昔、愛着あるネズミの縫いぐるみを
いろんな場所に置いて
そういう流れを想定して
ランダムに写真を撮りだめていたのであるが、
こいつらを構成してシークエンスの物語を構築すれば
面白いかなと思っていたのが
最近、ちょっとその手の情熱が失せていた。
なにかのきっかけで再開しようと思う。
さて、話を「ラ・ジュテ」に戻そう。
核兵器の使用がもたらした人類の不幸から
すなわち、これ以上地上に住めなくなった人間たちを
地下へと隠蔽する中、
未来から必要な物資を調達しようと時間を遡行する。
が、それには苦痛を伴い、
廃人を生むか死が待っているだけである。
そこには夢も希望もない。
だが、主人公の男は記憶のなかの女との逢瀬に夢を見る。
記憶を、時間を、そして女を所有することは
彼の唯一の世界となる。
まさにSFでありフォトロマンでもある。
その意味では厭世的自意識が産み落とした
閉鎖的な地下人間である
ドストエフスキーの『地下生活者の手記』や
刹那的な快楽に溺れる地下街の人びとを描いた
ケルアックの『地下街の人びと』とは根本的に違っている。
むしろ同じくビートニクスの影響下にあった
ボブ・ディランの「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」の方が
感覚的には近いのかもしれない。
ディランはスティル写真ではなく、
言葉を銃のように羅列して、感情を吐露してゆく。
ディランがメッセージボードを持って
好きな言葉を紙芝居のようにめくっていくという
なんとも洒落たスタイルを取っているのが面白い。
まさに「ラ・ジュテ」言語バージョンとも読み取れる。
ただし、僕の解釈では、
ケルアックの『地下街の人びと』に影響を受けて
『サブタレニアンズ』というインストの曲を書いたボウイが、
その以前に『Aladine Sane』のアルバムで書いた
「TIME」という曲の中で歌った歌詞の方に、
よりクリス・マルケル的ロマンを感じている。
Breaking up is hard, but keeping dark is hateful
I had so many dreams, I had so many breakthroughs
But you, my love, were kind, but love has left you dreamless
The door to dreams was closed. Your park was real and greenless
Perhaps you’re smiling now, smiling through this darkness
But all I had to give was the guilt for dreaming別れるのは辛いんだけど、このまま暗闇にとじこもっているのも忌々しい
僕は数々の夢を見てきたし、困難にも打ち勝ってきた。
でも愛しい君ときたらやさしさと引き換えに、愛のおかげで君は夢を失ってしまった。
夢への扉は閉ざされ、君の庭園は苔も蒸さないほど無味乾燥なものだった。
おそらく君は微笑んでいるだろうね、この暗闇越しにも。
けれど僕が与えるられるべきものは夢見ることへの罪悪感だけだったんだな。『TIME』David Bowie
まあ、言葉でうまく説明するのは容易ではないが
感性のレベルで、なんとなく感じ取っていることと重なってくる。
過去は過去で、記憶を紐解いているけど
自分でありながら自分でも覚えちゃいないことが多いし
ほっておくとどんどん蒸発してしまう。
未来は未来で、勝手に夢見るだけで
これまた、思った通りになんて行った試しがない。
なんとなく、波動を受け取るが、
それがそっくり再生されるなんてことは未だかつて一度もない。
現実はその板挟みで、夢見ることさえ
罪深いような気になるほどに、緊張をはらみながら
日々混迷のなか酩酊して誤魔化して生きているのかもしれない・・・
とまあなんだか、支離滅裂になってきたかもしれないけど、
つまりは時間の概念には終局ってものがないってことだ。
思考や夢や記憶のようなものでさえ、
単なる物質のように消えてどこかに行ってしまうんだからね。
だからこそ、一瞬一瞬を他人の視点ではなく
ちゃんと自分の感覚で切り取って、咀嚼し捉え直してみて
それを後生大事に抱えながらも、
決して時間に囚われることなく絶え間なく刷新しながら
未来永劫に向かって歩いて行きたい、ってとこかな。
うーん、なんだか話があらぬ方向へ向かいだしそうだ。
そんなところで、ひとまずキーをおこう。
2020よ、さようなら、そしてありがとう。
色々あっても全てに意味はあるのだからね。
僕はこの一年、自分の感性だけを頼りに生き延びてきたきたけど
これから先のことは全くもってよくわからない。
それでも生きていく希望のようなものは
そこかしこに、うん、確かにあるんだよ。
来年はきっともっといい一年になりそうだ。
今からワクワクしているよ。
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