オレたち不器用族、カプリコーンズの魂にメリークリスマスを
大島渚の、微塵もクリスマスらしさを感じさせない問題作
『戦場のメリークリスマス』を、映画館で観たのは随分と昔の話で、
いま頭に残っている内容の方はというと、
こころもとなく曖昧なところだが、
なんとなく、大島渚らしくない映画だったような気がしている。
というのも、この映画のメインの俳優たち三人は、
いわゆる職業俳優ではないし、
そもそもが演技力を期待されてのキャスティングではないというのが、
明らかだったからである。
テレビでも随所に片鱗を見せつけていた、
あの現場で激情し、辺り構わず怒鳴り散らす、
いわば怖いイメージがつきまとう“某君オオシマ”に、
はたして、ニワカ俳優たちは耐えうるのかしら?
素直にそう思ったものである。
大島組と呼ばれる常連俳優も出演はしているが、
基本、非職業俳優たちがメインを占める作品である。
そのなかで、主役に抜擢された三人をどう解釈するかで、
映画の見方は随分違って来るはずだ。
いかんせん、デヴィッド・ボウイに、坂本龍一、ビートたけし
という三人の共演というのは、
改めて、いかにも豪華すぎるきらいがある。
そう思うと、これは奇跡的な映画ではないだろうか、とさえ思えてくる。
ボウイに関しては、言わずと知れたロックスターでありながらも、
すでに『地球に落ちてきた男』や『ハンガー』などで
スクリーンデヴューを飾っていたから、
セミプロと見なしても良いかもしれない。
実際にセリアズ役に、見事に対応していたと思う。
牢獄のような場所で見せたパントマイムや、
土に埋められ生き耐える姿だけを思い返しても、
役者としても天賦の才があるように思えてくる。
とはいえ、坂本にしても、たけしにしても、
いくら本職での知名度があるからといって、
いきなり、この三人での組み合わせで
映画を撮ってしまった大島の度胸には、
恐れ入ったものだった。
確かにこれ以上のインパクトはないだろう。
いくら男しか出てこない戦争映画だとはいえ、
いったい大島はあの頃、何を思って、
この奇跡のようなキャスティングに打ってでたのか?
自分のなかでは、大島の作品は、
死刑場の模様をリアルにスクリーンに持ち込んだ『絞死刑』にせよ、
ハードコアポルノとして物議を醸した『愛のコリーダ』や
チンパンジーとの愛を描いた『マックス・モナムール』にせよ、
いずれも社会通念を問い直すような
革新的視点を絶えず持ち込み、
たとえ過激と言われている作品でさえ、
期待を裏切られたことは一度もなく、
それぞれ一定の水準を確保した上で、
野心的な作品を撮り続ける、
信頼に足る映画作家としてみなしてきたわけだから、
この『戦メリ』だけを、単なる話題づくりの興業にすぎない失敗作だ、
などとは思わない。
たとえば、ボウイと坂本の同性愛的な視線の交差には、
最初からいろんなところでその伏線が敷かれてはいるが、
二人が名の通ったミュージシャン同士ゆえの、
妙に生温い温度感を感じたものだし、
逆に、思いもかけず、
ハラ軍曹演じるビートたけしの俳優としての資質に対して、
新鮮な発見があった。
軍曹としてのイメージは、少なくとも、
ヨノイ大尉の作られたイメージよりは明らかに自然で無理がない。
ラストでは、立場が逆転したなかで、
人柄を滲ませる、あのテレビでは見せないはにかみを携えながら
「メリークリスマス、ミスターローレンス!」
と叫ぶたけしのクローズアップで幕がおり、
サカモトのタイトルチューンが被ってきて、
そのままエンドロールへと向かうあの瞬間に、
ビートたけしが北野武へと脱皮を図る萌芽を見たような気がした。
あれを最後に見せられた時に、
やっぱりオオシマは凄い、と思ったものである。
いくらお笑いやコント、ちょっとしたテレビドラマで、
演じることには慣れていたとはいえ、
これは映画であり勝手が違う。
少なくとも、当人は相当な労力を消費したはずだ。
坂本によれば、ホテルでのたけしは、
床から天井まで本を積み上げ、
撮影期間にも決して勉強をおこたらなかったという。
案の定、たけしは、この映画を境に、
国内での役者稼業も板につくようになり、
監督業にまで本格的に精を出し、
“世界のキタノ”として羽ばたいていくのだから、
大島の慧眼とたけしの努力には拍手を贈りたいと思う。
ただし、ボウイにしても、坂本にしても、あるいはビートたけしにしても、
各々持ち場に戻れば、天才の名を欲しいままに君臨してきた、
ある種のカリスマであるとはいえ、
当初から、表向きとは違った、
本質的にあ不器用な一面を持ち合わせていた人たちである。
ボウイは、絶えずカメレオンのように
時代の空気を吸い上げながら変化を繰り返し、
ロックスターとして常に時代の寵児ともてはやされはしたが、
内心そのギャップと闘いながらも常に自己を律しながら、
あくなき探究心を失わずに己の道を切り開いてきた、
真のイノベーターであった。
坂本龍一にしたところで、元々は教授と呼ばれるほど、
博学で卓越した音楽理論を兼ね備えてはいたが、
YMOの一員として、世界のサカモトとして花開くまでは、
バックミュージシャンとしての地道な活動で、
日本の音楽業界の裏方で、いわば下積みの生活をこなしながら、
多忙な日々を送っていたのである。
その上、俳優と作曲家という二足のわらじを、
初めての舞台でいきなり履かされて期待に応えろというのだから、
やはり並大抵ではない。
さすがに、他の二人とは違い、
俳優の道にこそ目覚めはしなかったが、
『戦メリ』以降は、その甲斐あってか、
映画スコアのオファーが急増し、
ベルトリッチの後期には、坂本龍一なしでは成立しないほど、
良好なる共犯関係を築いてゆく。
この三人に共通するのは、華々しいイメージとは別に、
そうした地盤にしっかりと根を下ろし、
芯の通った一本の木のような強さを持って
みずからの確信を持った世界を継続し、
絶え間なく邁進することのできたアーティストたちであることだ。
それこそは、偶然にも、山羊座の星のもとに生まれた、
どこか父権的な強度を持ったスターたちの軌跡なのである。
そんなことが、頭をよぎったのは、
自分自身が他ならぬカプリコーンの一員であるという、
事実に基づいており、偏見ながらも、
遠からぬ気配を嗅ぎ分けるからに他ならない。
この山羊座三賢人、カプリコーンスターたちが
一同に顔を揃えたこの映画が、
自分には何か特別な映画として刻まれているのは、そのためだ。
大概の占い関連の本、ならびに記事を読み漁っても、
どちらかといえば、地味で堅実、現実的で忍耐強くかつ努力家、
どちらというと大器晩成型。
悪くいえば、ネガディブで、それでいて頑固で融通がきかないが、
支配的、享楽的でありながらも社交ベタなどと言う、
これら断片的イメージが、一般的山羊座のイメージとして、
多かれ少なかれ強調されているのではないだろうか。
むろん十波一絡げにはできないし、個人差もあるだろう。
まるまる鵜呑みにはできないにせよ、
占星術(星の動きによる影響)というものは、
ある種の統計学でもあるのだから、
確かに、それは、自分を含めて、周りのカプリコーンたちにも、
どことなく当てはまるフシがあっての話だ。
山羊座生まれとしては、必然的にそのあたり、おのずと気になってしまうのだ。
では、最後に山羊座のイメージで、
もっとも強力かつインターナショナルな人物は誰?
恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救世主がお生まれになった。このかたこそ、主なるイエス・キリストである。
— ルカによる福音書より
最大のカプリコーンスターというと、
これは間違いなくイエス・キリストということになるのだろう。
そう、なんたって、ファーザークリスマスは理解できなくても、
クリスマスを知らないひとがいること自体が不思議なのだから。
磔刑に処されても復活するあの、タフさ?
とにかくひたすら耐えるイメージは筋金入り。
なんたって聖人だ。地上の誰よりも父権的で、
大いなる愛をもって、人類史上、
最大にして最高の伝説を有する偶像。
そして誰よも深い精神性と信仰の対象。
こういう人を同じ星座の一員だと
一括りにしてよいものかどうかはさておき、
その血をわかつ者としては、
そんな資質の同志たちとは、不思議とウマがあうことも多いのが
なんとも不思議なところである。
だから、というわけではないが、
この不器用ながらも着実な歩みとともに
頂点に達した、我らが誇り、
カプリコーンズをこのクリスマスに乗じて讃えるとしよう。
『戦メリ』を今こそ再考察する
これを書いた後、何十年かぶりに、
この映画をDVDを借りてまで、じっくり観直してみた。
すると、驚いたことに、自分のこの映画に対する考察の甘さに、
いろいろ気付かされてしまった。
大島渚が、そんな甘っちょろい監督であるはずはなかったのだ・・・
ボウイは、下手な俳優より俳優然としているし、
ロレンス役トム・コンティがいなければ、
この映画は成立しなかったのも良くわかった。
坂本龍一は、音楽は抜きにして、いわば、この映画の主題、
戦争や同性愛と言った表面的な話ではなくして、
人間の尊厳とは? というほどのテーマにおいて、
演技の上手下手では表現しえない無常観といったものに、
ある意味ジョーカーような役を担っていたのかもしれない、などと思えてきた。
大島はもちろん確信犯であるが、
ボウイ演じるセリアズに惹かれることを導線として、
人間としての尊厳を取り戻すのが、あの場合、ヨノイ大尉の運命であり、
それはロレンスとたけしのハラ軍曹との関係にも当てはまるだろう。
それにしても、坂本龍一のあのメイクは少々やりすぎな気がしている。
あるいは、言葉の問題はあるにせよ、
あの感情表現のシンコペーションの激しさに、
一考の余地はなかったのだろうか。
映画全体を通して見れば、やはり気になるところだ。
確かに野心作であるのは間違いないのだが・・・
しいて言うなら、ヨノイはもう少しクールで
冷徹さがあった方が映えると思う。
美意識を極限にまで戯曲化したような坂本の演技スタイルは、
あまりにもベタすぎて、
個としての尊厳を冷静に投げ返すセリアズとの温度差に、
違和感があったのは否めない。
そこは、非俳優坂本龍一に望むべきことではないのだろうが、
あれが雷蔵ぐらいニヒルさに徹することのできる俳優がやれば、
また違ったものになっていたはずで、
どうせ非職業俳優を使いたかったのなら、
究極に無名の役者を抜擢することなら出来ただろう。
せめて、対ボウイには非ミュージシャンであっても良かった
という思いはある。
改めて思うことは、ここでは、西洋人(ここではイギリス人)は、
たとえ戦下であれ、論理的かつ人道的に行動することを
人間の尊厳だと考えているように見えるが、
日本人は、国家の名の下に、
武士道なり封建的倫理観を他者にまで振りかざし、
建前として個人を捨て、それを使命と称して遂行することに
重きを置く国民性だという比較が描かれている点は興味深い。
その結果、同性愛的な視点や暴力が正当化されてはいるが、
大島自身は、ことの良し悪しを問うているわけでもあるまい。
結果としてみれば、日本の不条理なまでの精神主義を
批判しているのかもしれないが、
そこにある美意識の主体が、個にあるのか、
はたまた国家そのものに宿っているものなのかを、
観衆に問い掛けている映画でもあるのかもしれない。
そのためには、演技を度外視したキャスティングから初めて、
ギリギリの誇張のなかで、人間の本質を暴き出そうとしたというなら
わからないわけでもないが、やはりキャスティングが露骨すぎる。
仮に、三島由紀夫が生きていたら、と思うとちょっと面白いのだが、
きっとヨノイの役を嬉々としてやりたがったんじゃなかろうか。
そんなことがふと頭をよぎる。
少なくとも、坂本龍一よりは、
もう少し本質的でまっとうな武士道精神を表現しようと、
それなりの素人演技でも奮闘ぶりを見せてくれたかもしれない。
頭デッカチなのは共通しているが、その点の肝の座りは
三島に軍配を上げておく。
その三島もまた我らがカプリコーン族だ。
なんとヘビーで豪華なカップリングだろうか。
このボウイと三島の夢の邂逅を、
ささやかなクリスマスのプレゼントとして、頭の片隅に刻んでおこう。
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