元祖芸能界最強の無鉄砲男、ここにあり
自分の中に一気に渡瀬恒彦ブームがなだれ込んできている。
なんということだ。
今までほとんど気にもとめたことのなかった存在への関心が
嵐のごとくやってきたのである。
それはまず、和製ボニー&クライド
『ジーンズブルース 明日なき無頼派』でみせた
梶芽衣子とのタッグのかっこよさによって
吹き込まれたのであるが、それは単に序章にすぎなかったのである。
なんといっても、やくざ、任侠、時代劇といった
大衆活劇の宝庫であった東宝時代の渡瀬恒彦が凄まじい。
とりわけ中島貞夫と組んだ一連のアクションものにやられてしまったのだ。
『鉄砲玉の美学』『狂った野獣』を立て続けにみるにつけ、
なんだか率直に感動を覚えてしまったわけである。
その勢いが尋常ではない、いや実に凄いのだ。
芸能界一ケンカが強いという、いうなれば“最強の人”、
そんな眉唾ものの都市伝説もまんざら嘘でもないんだと
そのアクションや空気感に妙に説得力を持つのはあくまで余談だが
どちらかといえば真面目で威厳さえ漂う兄渡哲也とは
真逆のやんちゃっぷり、かつガツガツした魅力が
そこにふつふつと煮えたぎっており
いわば滲み出る野性味というやつに、
見る方も覚悟して真っ向から付き合わざるをえない。
そんな強いオーラをこの俳優から直に感じ取ったからである。
ところで、演技の上手・下手の基準はどこにあるのか?
そんなことを考えてみても、うまく言葉で説明できる自信などない。
その挙動、言い回しに多少なりとも説得力があるであるとか、
その役になりきって実にナチュラルな感銘を与えるだとか、
他に替えがきかないほどのはまり役でうならせるだとか、
演技そのもので真に感動を呼ぶだとか
まあ、何とかかんとかそれらしき御託はいくらでも並べられるが
それが演技の上手さという定義を
どこまで正論たらしめているかまでを断言するには至らない。
ただ、一つ言えることといえば、
その監督や作品に毎度毎度
決まったように起用されるという事実は案外見過ごせない。
その現場での信頼感においては、
この人がいるだけで画が成立する、
とまで言わしめるだけの存在感、
オーラのようなものは確かに存在するはずだ。
小津安二郎にとっての笠智衆であるとか、
鈴木清順にとっての野呂啓介であるとか、
黒澤明にとっての藤原鎌足であるとか、
成瀬巳喜男にとっての中北智恵子であるとか、
脇役でありながらも、しっかりとその映画を
その監督の資質として彩る個性と言うものを見れば明らかだが、
いいようによれば、使い勝手のいい、
つまりは単なる相性の良さといった側面も
あってしかるべきなのかもしれない。
要は監督の意図することを
言葉ではない何かで体現しさえすればそれで良いだけである。
決して不要なものを持ち込まずに、自然な形で阿吽の呼吸を生む、
この必要不可欠なピース俳優たち。
要するに、演技の上手い下手はさほど問題ではないということの証だ。
さて、渡瀬恒彦に話を戻そう。
中島貞夫や深作欣二といった東映アクションものを
リードしてきた大御所たちの作品で
その存在感を遺憾無く示し「恒さん」として
常に現場で上からも下からも一目置かれていたというこの俳優が
そこまでに至った過程を
事細かく調べたわけでも見てきたわけでもないが、
『鉄砲玉の美学』『狂った野獣』、
あるいは『暴走パニック大激走』での熱を帯びた演技を見せられれば
確実に、映画のバイアスを担って
アクションの主導を握ってきたのもうなづけよう。
ATGとの提携でそれまでの任侠路線からの活路を見出し、
実録路線の先駆けとなった『鉄砲玉の美学』では
低予算ながらも自由な空気に魅入られ
「ギャラなんてどうでもいい」といった気骨で談判し
しかもわざわざ東京からロケ地宮崎くんだりへ
マイカーフェアレディの240Z-Gをとばし、
そのまま劇中にまで使用したというエピソードを残す。
掃き溜め社会の底辺をはいつくばるように生きるチンピラ小池清役は
文字通り体当たりの演技で突き抜けた
男の美学を最初に誇示した傑作である。
ヤクザ社会に摂取されるど真ん中直球の「鉄砲玉」として
哀しい運命を引きずりながらも
没個性化しない生粋のアウトローの反抗的衝動っぷりが
実に生々しく瑞々しく描きだされているのだ。
まるでヌーヴェル・ヴァーグやアメリカン・ニューシネマのような息吹を
持ち込んだダイレクトシネマ風の空気感に
魅了されずにはいられない。
あるいは宝石泥棒という設定を押し殺した前半から
偶然に巻き込まれたバスジャックにおいて
徐々に狂気化して行く『狂った野獣』では、
自ら大型免許を取得して臨んだその意気込みが
ここでは遺憾無く発揮され、
スタントマン無用とばかりの熱演ぶり、
手に汗握るアクションシーンが見ものだ。
まずは星野じゅんが運転するバイクの後部座席にまたがり
猛スピードでバスを追いかけて、
そのまま窓からとび移るといったシーンの迫力。
そしてなんといってもクライマックスシーンでの
バス横転シーンはなんとも凄まじい。
思わず、目を疑うしかない。
一つ間違えば、事故死として、いうなれば即死の殉死である。
危険など顧みず、体を張ってハンドルを握った
この俳優の無軌道ぶりには開いた口が塞がらない。
それを許してしまう当時の環境やスタッフたちの情熱に支えられた
まさに活劇現場の狂気の充実ぶりに後押しされとはいえ、
そうした映画的瞬間を自ら率先して切り開いてゆくのだから、
その熱に押されぬ監督、スタッフなど誰ひとりいようはずもない。
まさに芸能界一の腕っ節伝説など
どこかへ霞んでしまうほどの伝説の実話である。
こうした無謀な体当たり演技のアウトローぷりが
板につくこの円熟期の作品が
アクション映画として今尚素晴らしい威光を放つのは言うまでもない。
深作欣二による『北陸代理戦争』では
撮影中に運転操作を過って
ジープから投げ出され足を複雑骨折。
生死をさまよう大怪我を追うのだが、
それもまたこの野獣俳優に俳優としての
箔を付ける逸話に組み入れられるに過ぎない。
まさに、それまでのアクションスターから
性格俳優へと転じる契機のようなものだったと片付けてしまうのである。
とにかく、この野獣俳優においてはエピソードは数知れず、
どこまでをうのみに信じていいかはさておき、
以後、晩年に到るまで俳優としての円熟ぶりを
順調に迎えてゆくことになるが、
そんな道程などついぞ関心を持たずに
これまで映画を生半可に見ていたことを
今少しばかり恥じいっている自分がいる。
単にアンテナが察知できなかったというだけではなく
日本映画の文脈の中にあるアウトローものに対して
あるいは玉石混淆の東映プログラムの中の埋もれた傑作に、
今、遅まきながら食指を伸ばしているところである。
そんな伝説の俳優が亡くなって、はや三年の月日が流れているわけだが
せめてもの葬いとして、みそぎとして、
その勇姿をしっかりと刻みながら、偲んでいるという按配なのである。
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