ウィリアム・フリードキン『エクソシスト』について

Exorcist 1973 William Friedkin

悪魔祓いで出世払い、悪魔に憑かれた男の狂気ホラームービー

ホラー特集のトリを飾るのは、やはり、これしかない。
泣く子も黙る『エクソシスト』だ。
いわずもがな、ホラー映画の金字塔である。
昨今、様々なホラーアプローチはあるが、
自分にとっては、最初に出会ったホラーであり、
この怖さは、いまだ記憶の袖を離れない。

たまたま偶然に何十年ぶりかで見返したその直後に
人生初めての入院を余儀なくされたのだが、
文字通り、いわくつきのホラームービーと相成った。
そんな折には人間たるもの、弱気になり馬鹿な考えを抱くものだが、
ふと、魔神バズズにでも憑かれたのかもしれないと
真剣に思ったりしたものである。

さすがに、ベッドはしずかに身を支えてくれたし、
まして、空中浮遊など無縁。
首は一回転しないし、ミドリの汚物を撒き散らすこともなかった。
無事、回復の陽の目を見た。
あんなことがあれば、入院どころの騒ぎでは収まらず、
非人間的扱いを受け、まさに、存在そのものが抹消され、
心病んで、自己などどこかへ行ってしまったに違いない。
今想像するとゾッとする。
ああ恐ろしや恐ろしや。

ホラー映画に限らないが、
真の傑作とは、やはり、人の心に入り込んできて
なんらかの爪痕を残す.。
まさかこんな風に自分がホラー映画について、
得意げに言葉を書き連ねることになるとは思いもしなかった。
単なる“ビビり”にすぎなかった子供時代のトラウマを
ずっと引きずっていたからなのか、
単に先入観から避けて通っていたことは否めない。
その辺りを冷静に分析したことはまだないが、
時を経て、曲がりなりにも教養や知識を重ねた今
自分の見識にある程度自信が持てはじめたからかも知れない。
とにかく、表層の恐怖という概念だけに
左右されるわけにはいかぬのだ。
映画はあくまでも映画だ。
あんなもの、作り物ではないか・・・
とはいえ『エクソシスト』はやはり怖い。
夜、一人で見るのは流石に気が引ける。

『エクソシスト』について、わざわざ字面を割くに至ったのは、
他でもない、この映画そのものが
映画としての十分な完成度を誇り、
語るには見所満載の資質を備えているからに他ならないからである。
ここで、子供の頃に一度テレビで鑑賞した時の
中途半端な恐怖心など、綺麗に清算しておかなければならない。
そうだ、そうなのだ。
こうして書くことが全てのお祓いとなるのだ。
アーメン。

いったい自分はなんの恐怖と戦っているのか、
まずは、そんな低次元の思いを置いておいて
改めて、この『エクソシスト』と向き合おうと決めた。
まず、心強いのは、この悪魔払いに命をかけてのぞむ
メリン神父がマックス・フォン・シドーの当たり役として
記憶されているからである。
出演時はまだ四十代だが老神父役の熱演ぶり。
よって、これは少なからず、
大好きなベルイマンの薫陶をも受けている人物だということを鑑みれば、
随分と親近感も増すわけである。
そして、もっとも心がざわめくのは、
神と悪魔が人間の尊厳を超えて対峙する映画になっている点である。
そもそも、神がいなければ悪魔はなく、
悪魔がなければ神もない、
そんな背中合わせの堂々巡りの問答に
いちいち足を取られていては、
エクソシストにでも憑かれない限り
物事の本質には触れることなどないのだろう。

結局、この少女はなぜに悪魔に取り憑かれたのか?
そのことを考えてはみたものの、
なんの因果関係もないのである。
強いていうなら、信仰心の薄い母子家庭のリーガンという娘が
唐突に悪魔に魅入られてしまった話なのである。
それはひょっとすると、あなただったのかも知れないし、
自分だったのかも知れないというだけである。
要するに、世の信仰同様、
恐怖などというものは心のありように過ぎないのではないか。

この作品が、単なる恐怖だけを煽る安っぽいホラーではなく、
むしろ、重厚なまでに、科学対精神の一つの対峙の形を
悪魔の手を借りて描き出そうとしているように見える点に好感が持てる。
何しろ、悪魔に憑かれて
途轍もないことが目の前で起きていても
科学の力ではどうにも解決できないので、
神の力を借りて、なんとか事の沈静に向かおうというのだから。
それはそれは、あたかも雲を摑むような話である。

監督であるウィリアム・フリードキンという人は
この『エクソシスト』を撮る前には
『フレンチ・コネクション』というアクションもので
アカデミー賞を獲得している実力者である。
そのフリードキンが一転、この作品で一気に
カルトホラームービーの第一人者となるのである。
この『エクソシスト』の撮影現場は
それこそ、映画通には馴染みの逸話の宝庫で、
とにかく、凄まじいよもやま話がゴロゴロ残されている。

原作のウィリアム・ピーター ブラッティが持ってきた脚本にも
容赦無くケチをつけゴミ箱行き、なんてのは序の口で
現場での緊張感を高めるために、俳優の前でショットガンをぶっ放すであるとか
リーガンの母親役エレン・バースティンは
ピアノ線で引っ張るというその容赦のない演出でもって
腰骨や背中を強打させて後遺症が残るほどの病院通いにするわ、
撮影中は、強度の冷房状態を保って、
リーガン役のリンダ・ブレアが震えるのも御構い無し、
おまけに悪魔払いの儀式の慣習に呼ばれた
本物の神父さんだったウィリアム・オマリーを
そのまま映画に出演させて、しかも三十回以上のテイクを強要し
疲弊する素人俳優が自身喪失の最中
うまく演技ができないといって降板さえ訴えるオマリー神父を
挙句にビンタを炸裂させてまでも涙を誘発し恐怖を煽り
そうしてリアルな演技を引き出すといった、
もう悪魔以上の暴君ぶりで文字通り現場を凍りつかせてしまったのだという。
映画に並並ならぬ情熱を注いだのはわかるにしても、
今じゃもう考えられない常軌を逸脱したまさに地獄の現場だったというのが
この映画に箔をつけている始末なのである。
その点は、『シャイニング』でのキューブリック同様、
映画の神ならぬ、悪魔に魅入られてしまったのかもしれない。

兎にも角にも、CGなどない時代、
スタッフの力量が問われる時代である。
今のホラー映画とは根本的に温度差があるのは見ればわかるし
それはどちらが良い悪いでもなく
どちらがより怖い、怖くないでもない、
スタッフにそっぽを向かれずに撮影を完了できたのだから
やはりこの監督には何かが憑いていたのだろう。
映画作りとしての本質面が如実に問われる作品として
『エクソシスト』はこれからも延々と語り継がれてゆく問題作であり、
人の記憶に恐怖という決定的な足跡を残した
実にエポックメイキングな作品だと改めて思う次第。
監督自身は“実話”を吹聴し
実際に当時は悪魔つき少女の事件が多発したというが、
どうやら全てはマユツバであり、
この監督らしい演出の一環だったというのが本当のところらしい。

そしてこの暴君フリードキンはのちに
この映画でえた資金をつぎ込んでまで取り掛かった
アンリ=ジョルジュ・クルーゾーのリメイクで
呪われた傑作との呼び声が高い『恐怖の報酬』で
何かとケチがつき大コケするわけだが、
そう考えてみると、このフリードキンこそは
魔神パズズの呪いにもっとも翻弄された男だったのかもしれない。
ちなみに、当時、あのフランスを代表する女優
ジャンヌ・モローの再婚相手だった時期とも重なるわけで、
わずか二年に満たぬ蜜月期。
フリードキンはまさにここで全てを吐き出すことで
波乱の人生をひとまず清算したかしなかったか、
以後はさほど注目されることもないまま先細ってゆくのであった。

いやはや、悪魔を語る人間ほど恐ろしいものはない。

The Rolling Stones :Sympathy For The Devil

悪魔といえば、ストーンズの『Beggars Banquet』の一曲目、
 『Sympathy for the Devil』(邦題「悪魔を憐れむ歌」)ということになりましょうか。
(憐れむというよりは、賛同というか賛美というか、そっちの方がニュアンス的には近いんでしょうが)この曲はロシアのミハイル・ブルガーコフの小説「巨匠とマルガリータ」かインスパイアされたといわれ、悪魔自身の語りが内容で、最初に真摯なふりをしながら、徐々に本性を表し、再三「私はだれか?」などと煽るように気炎を上げてゆく歌になっています。まあ、『エクソシスト』のような、マジホラーの雰囲気ではないし、あくまでもロックとしての明確な調子を伴ったとても面白い曲であり、ストーンズの代表曲でもありますが、マラカスやコンガなどを多用し、サタニズムとまではいいませんが、黒いグルーブ感のある、ブゥードゥーロックのようなナンバーが実にかっこいい曲です。

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