恐ろしきは人の闇、羊を数えて眠る病み
この世には何かと理屈が通用しない相手がいるものである。
そんななか、何年か周期ではあるが、
ふとしたきっかっけでサイコな人にばったり出会ってしまう。
もちろん、事件こそ全く生じないものの、
そんな人物との間でサイコ的なシーンに出くわすと
やはりゾッとしてしまうものである。
それらはまず、当人に自覚がなく、
ひょっとしたら、こちらの思い込みかしれないと思わせるのだが、
どう考えてみても理屈で押し切れないところで
大いなる力が働いており抗えない。
大きく一括りでサイコパスと呼んでしまえば
なるほど、健常者の手に負える代物ではないことを
やがて理解するに至るのだ。
どうやら、ある日突然の出会い事故として
まるで野生の熊にでも遭遇したと思うしかない。
君子危うきに近づかず、とはよく言ったものだが、
見えない敵には苦労する。
だが、そうした題材は映画なり小説の
格好の題材になるのもまた道理である。
今から書こうとしているのはジョナサン・デミによる
映画『羊たちの沈黙』についてである。
ジョナサン・デミといえば、先立って
トーキング・ヘッズの『STOP MAKING SENSE』という
素晴らしいライブ映画を監督している人だから
一体そのギャップはなんだろう、
とふと思ってみるのだが
よくよく考えれば、トーキング・ヘッズにも
「サイコキラー」という曲があって、
なるほど、こりゃあサイコつながりじゃないか、
と短絡的に思ってはみたけれど、
デヴィッド・バーン自身はシャレで作った曲だというし、確かに曲の内容も
「所詮人間なんてみんな中身がなくって盲目で
ただ僕は無礼な振る舞いをされるのがいやなんだ」
などと歌われているだけであって、
『羊たちの沈黙』のような本格的なサイコスリラーとは
そもそも次元が違っているのだから、
たんに偶然に過ぎないんだろう。
それは僕の思い過ごしということで落ち着いた。
さて、本題の『羊たちの沈黙』に入ろう。
賞を総なめにしたぐらい、傑作ホラーサスペンス作品としての
呼び声が高い本作であるが、
公開当時は、ホラーというジャンルのせいもあって、
ちょっと距離を置いていた映画である。
その後、DVDで観て、確かにショックを受けた。
この映画は実によくできているなあ、というのが第一印象で
サイコパスの恐ろしさ、猟奇的な犯罪者の心理に興奮したものである。
まさに世間の認識に、ようやくこちらが追いついたと安堵したものだった
それでも、自分には作品自体にも、それへの理解においても
何かが物足りなかった。
何度か見直しているうちに気づいたのだけれども、
個人的にはジョディ・フォスターという女優があまり好みではないのだ。
この手の女優がどうも苦手なんだと思う。
どこがどう苦手かというほどのものでもないのだが、
はっきり言ってそそられないのである。
ただ美人だとか、スクリーン映えする女だとか、
そういうレベルでは全く興味がもてない。
とはいえ『羊たちの沈黙』のクラリス・スターリングは熱演だ。
ヒロインが命がけで女性を救出するという目新しさはある。
囚われたキャサリンを解放するシーンで犯人と格闘するシーンなどは
これぞ、まさにサスペンスのクライマックスという感じの醍醐味である。
しかし、思入れは薄い。
そんなこんなで、まだ見習いのSBI女性研修生という役柄で
この作品に貢献しているところの演技はいずれも迫真で
後付けかもしれないが、見事にはまり役であり、
この映画をヒットさせるだけのものは確かにあるのだ。
にもかかわらず、それ以外の要素を冷静に見ても
個人的にはそれ以上には深く入ってはこないのだ。
それをさておいても終始、ハンニバル・レクターを演じた
アンソニー・ホプキンスの演技の方に圧倒的に引き込まれてしまった。
なんという目力だろうか。
セリフのトーンや表情、あらゆる点で
究極のサイコパス設定であるドクター・レクターは
この人でなきゃ醸し出せないオーラを半端なく放出している。
いみじくも、アンソニー繋がりで、
『サイコ』のノーマン・ベイツを演じたアンソニー・パーキンスと双璧だ。
そんなハンニバル・レクターであるからこそ、
クラリスという女優が活きたという見方もあろう。
その点で、ジョディ・フォスターは確かに、要素を満たしている。
知性があり、トラウマを抱え持った、どこかカルマを感じる女性像である。
監獄での初対面のシーンから
博士の気配は異常なまでに迫ってくるものがあったのだが
なにしろ、隣のべつの異常なる囚人を
言葉だけで自殺に追いやることができるほどの人物である。
その一言一句に知的な佇まいがあり、
サイコパスを野暮ったく、また薄っぺらなものにしないだけの
厳格さ、気品さえ漂わせているではないか。
その相手が、健康的かつ、女性美のみを誇ったところで意味はない。
レクターのしでかす挙動は
ただ檻の中に佇んでいるだけで、こりゃあ本物だと思わせるものが
スクリーン越しにも体感できるような、そんなオーラがある。
さて、この映画の話はちょっと入り組んでいて
まずは、FBIという組織の内情が絡んでいる点があり
男と女の視線の危き均衡がそもそもあっての話である。
精神病院長チルトンには出世欲が、
クロフォード主任捜査官の視線の先にはクラリスに対する性的なものが含まれている。
そこでまず、クラリスは無意識にバリアを張って自己を守らねばならないのだ。
その上で上記二人の他にバッファロー・ビルという
猟奇的殺人を繰り返す異常者が他にもいる。
その犯人を捕まえんがために、ヒントを与える格好で
ハンニバル・レクターという第三者をわざわざ絡ませているのだ。
この辺りの演出は手が込んでいて、
ステロタイプな謎解きの構図にしても、なかなか面白い。
その猟奇的殺人者もSBI女性研修生クラリスも、
過去、幼少期にトラウマを抱えており
それぞれの行動の動機にも直結しているのだが、
ことごとくハンニバルには筒抜けなのだ。
そこがこの映画の導線となっている。
一方のハンニバルはその素性がほとんど明かされないまま、
この映画のフィクサーとして最後まで足取りがつかめない。
挙句に蜘蛛の如く、まんまと脱走してしまうのだ。
こうしてみれば、主人公は、クラリスでもなく、
ハンニバルでもなく、この二人の因果関係、ということにもなりかねない。
それにしても、アメリカの銃社会の無秩序さには
今更驚くほどのことでもないが、同時に
異常な犯罪者による事件もあとをたたないのは周知の事実であり、
この映画に震撼させられるのは、
これまたれっきとしたモデルが実在するということだ。
あくまで映画を通して感じることは、
そのスリルやサスペンス以上に、
やはり、人間に潜む狂気の方がはるかに恐ろしい。
バッファロー・ビルもまた幼少期のトラウマを克服できないばかりか
しかも、女の生皮を剥ぎ、喉に蛾のサナギを埋め込むことで
満足を得ようとする最悪のシリアルキラーと化す。
逆に、子羊たちの叫びに転嫁したクラリスのトラウマは
その殺人鬼から命がけで生贄を救い出すことで
ヒーローとなり、晴れて昇華されるに至るのだが、
その対比はある意味、アメリカらしい正義の振り子のようでいて、
実にわかりやすいとも言える明と暗の構図である。
がしかし、人間の内面はかくも単純なものではない。
たとえ正義が正当化されたとしても、
正義を装うものの中にもまた定義しえない悪が複雑に絡み合っている。
相変わらずクラリスは賞賛の中に
男たちの猥雑な視線を浴び続けることになるのだから。
そうした人間模様が『羊たちの沈黙』には見事に描き出されていて、
実に見応えがある映画だと思えたのである。
ちなみに、蛾のサナギを喉に埋め込むというのは
どういう心理だろうか?
その答えをレクターはこう答える
「彼は変化を求めている」と。
蛾という昆虫が、スピリチュアルな意味合いにおいては
しばし、再生や生まれ変わりというものに
言及されてきたメタファーであることを
このレクター博士は理解していたのだろう。
犯人もまた、無意識下に、抜け出せない闇からの「変化」を求めていたのかもしれない。
その意味では、トラウマを抱えながらも
果敢に任務を遂行したクラリスの原動力が
どうにも変化を求める意識だったと解釈できなくもないが、
そう言った邪推で、この映画を切って捨てようなどとも思わない。
が、そうしてみると、わずか十数分程度の露出しかない、
このサイコパス側に、賢者の視点を嗅ぎ取ってみる見方もあるはずだ。
子羊の鳴き声に覚える弱者が
賢者に出会って、再生を試みる話、というわけである。
Talking Heads – Psycho Killer
ハンニバル・レクター博士のようなサイコキラーにはこの曲を捧げましょう。
ここはジョナサン・デミ自ら監督したトーキング・ヘッズの『STOP MAKING SENSE』より、最高にカッコいい一曲目、ラジカセバックに歌う若きデヴィッド・バーンのソロ 「Psycho Killer」に始まって、もうまるまる一本何度でも聴きたい、観たいそんな傑作ライブ映画で『羊たちの沈黙』とはまた別腹で楽しめます。
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