中秋に考メリエス、素晴らしき哉シネマジシャン。
中秋の名月。
いやあ、月はなんとも美しい。
なんともクールなオブジェであります。
月見団子を頬張りながら、月を眺めるなんて
なんて風流なんでしょうか。
けれども、月は恐ろしい。
月を舐めてちゃいけません。
人間を狂わせる魔力と惹きつける魅力を同時に持つ
狂気の化身とでも申しましょうか?
かぐや姫に代表されるがごとく
月に憑かれた物語、月を巡るストーリーは
この世に五万とあるでしょう。
今更ここで月にちなんで話を書くのも野暮ということで・・・
一茶の句で、「名月をとってくれろと泣く子かな」
というのがあるけれど
その気持ちはわかります。わかりますとも・・・
けれどもお坊ちゃん、お嬢ちゃん。
あたしゃはあえて言いたい。
そんな無謀なことができる人間がこの世におりましょうか?
無茶をいってはいけません。
駄々をこねてはいけません。
いや、仮にいるのだとしたら
それは創造の主、神の御技と申しましょう。
仮にそんな芸当ができるのだとしたら
稲垣足穂かメリエスか。
さては今宵の月を見て、すでに100年以上も前
20世紀初頭に撮られたファンタジー、
ジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』
HGウェルズの『月世界旅行最初の人間』に触発された
古典SFの傑作メリエスの『月世界旅行』を
月見のお供に鑑賞することにいたしましょう。
そうしてこの素晴らしきファンタジーついて
言葉を紡ぎ出して参りましょう。
何も世界最初のSF映画、といって構えることはありませんぞ。
何しろ、シネマジシャンとよばれるジョルジュ・メリエスは
元来が画家志望、しかも奇術師上がりの人なのですから
シネマトグラフという、詩人にとっての最大の武器を
指をくわえて見逃すわけもありますまい。
多重露出やらコマ送り、ストップモーションなどはお手のもの。
それら技術を駆使した元祖SFXの父なのですから。
それをくれぐれも稚拙だなどと申しませぬように。
メリエスという人は1896年から1913年にわたり
なんと、531もの作品を製作しているのですが
無論、全てを見た人など、過去にすらおりますまい。
大半のフィルムは失われており
その中にはあっと驚く映像マジックが
収められていたかもしれないと思うと無念なのですが
まあ、いったところで意味もなく、
当時の技術や発想ぐらいなら
これまたなんとか想像を巡らせて埋めれば良いことであります。
画面から汽車が飛び出す臨場感に
観客が逃げ惑ったという伝説の
『ラ・シオタ駅への列車の到着』で有名なリュミエール兄弟が
ドキュメンタリー的な発想に基づいた映画人だとすれば
こちらメリエスは娯楽作品を元にした
今日のファンタジーとしての映画の礎を築いた人、
といって過言ではありません。
写真館と劇場をかねたスタジオを有して、
撮り得たカットを積み重ね、動く写真として物語を構成し
無数のスペクタクルを創造していったのであります。
メリエス無くして今日の娯楽映画は始まりません。
そうした産物の中で、もっとも有名な作品が
『月世界旅行』というわけで、
当時の人々の空想がいかに絵空事であったか、
しかし、いかにワクワク、フワフワしたものであったかを
感じ取ることができましょう。
このフィルムは、目慣れしてしまった人
あるいは目が超えすぎて頭でっかちになってしまった、
全現代人へのアンティテーゼという趣もあるでしょう。
が、月という人類にとっての畏敬物に
着陸はもちろん、しかも住めるかもしれないなどという、
荒唐無稽な夢が夢でなくなりつつあるという現代からすれば
ここではまだ、空想の物語として、はたまたおとぎ話として、
嬉々として語られているにすぎないその思いに対しては
純粋に子供のように、喜びを共有するまでのこと。
画面いっぱいに満ちたそうした創造の喜びを
感じずにはいられないのですから
そりゃあ楽しくないわけがありますまい。
ピストルのたまみたいなロケット製造に精を出す人々。
来るべき文明の隆盛に背を向けて現実逃避。
わかりますともわかりますとも。
そこへ我も我も嬉しそうに乗り込む6人の天文学者たちと
発射台へと押し込むマリンガールズたちの牧歌性。
そしてあの有名なイメージ、
ムーンフェイスに月ならぬ、突き刺さっての特攻着陸。
この荒唐無稽さに誰が微笑むことを禁じ得ることができましょうか?
そしてなぜか皆傘を帯同していることに、首を傾げることもありません。
土台夢に意味などありませぬ、そう思いながらみる月面探索。
月に着くなり、はるか彼方地球を眺めて歓喜した後
疲れったといって学童のように布団をかぶって
仮眠する冒険者たちのなんとも無邪気すぎる姿。
そこへまさに画面をよぎる足穂先生のほうき星、
次に三日月と土星まで現れて、出し抜けに雪が降る・・・
なるほどそこで持っていた傘の意味が露わになってゆきます。
がしかし、事は単純ではありません。
傘がキノコへと変貌し、そこから現れたのはなんと月人。
うさぎではありません、カエルのような月人。
何しろ槍のようなものを持ったこの蛮人族に襲われては
たまったものじゃありません。
てなことで、そんな蛮人を撃つための道具と言えば
手持ちの傘しか持ち合わせておらず
そいつでえいっ、と振りかざせば
月人たちは煙に巻かれドボンと消滅。
さあ、こんなところには長居してられぬぞとばかり、
我も我もと急いで帰りのロケットに乗り込む冒険者たち。
どうやって発射するかって?
そんなことは聴くのが野暮というもので・・・
ロケットに繋がれた紐だか糸だかに捕まれば
無事重力によって地球に真っ逆さま。
待ち受けたるは母なる海の底へと参ります。
そこで水を得た魚ならぬロケットは潜水艦へと変貌。
いやはや素晴らしきイマジネーションではありませんか。
これを私は昔、実験映画のプログラムの一編として鑑賞したわけですが、
確かに、実験的でありますが、
今見ると、実験というよりは事件といってよく
文明の利器だけでここまで想像したメリエスと
当時の人々の純粋なる思いこそは
まさに来るべき未来を生きる子供たちにさえ、
かけがえのないメッセージとなりましょう。
好奇心、探究心、そして発想力と行動力。
そうしたものの延長上に、今日の科学は
我々にこれでもか、というほどの恩恵を与え続けているのです。
その欲望は計り知れないものであるけれど
その原点に立ち返る事も必要ではないのかなと。
月を臨んで一句。
月よりもさらに遠くへ夢が飛ぶ
Mary France :Jean Jacques Perrey
月に関する音楽は山ほどあるけど、なかなかフィットするものがない。こうなると、こういう巨匠に登場いただくしかない。電子音楽の先駆者、フランスの音楽家ジャン=ジャック・ペリー大先生の『The Amazing New Electronic Pop Sound of Jean Jacques Perrey』から「Mary France」これをメリエスに捧げよう。チープなオモチャ感があってこれはこれでなかなか楽しい音楽なので、メリエスもきっとニンマリするじゃないかな?
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