監督と女優、二人が奏でる聖なるララバイ
イングマール・ベルイマンの映画を語るとき、
リブ・ウルマンという女優の存在の大きさを避けて通ることはできない。
それは彼女が代表作に数多く出演したからというよりも、
ベルイマン映画の本質そのものが、彼女を通して
初めて可視化される“触媒”に他ならなかったからである。
試しに、チャールズ・ブロンソンと共演し
その妻役を演じたテレンス・ヤングの『夜の訪問者』のウルマンとでも
見比べてみるがいい。
その違いは歴然としている。
彼女は、ハリウッド的女優はもちろん、
フランス映画のアイコニックな女優にも似つかわしくはない。
まさにベルイマンにとって唯一無二なミューズだったのだ。
ベルイマンは生涯、神という存在を疑い続けた作家だった。
だがその懐疑は、単なる反宗教的態度というよりも
神の沈黙を前にしたとき、人間はいかに生きるのか、
信仰が崩れたあと、愛や家庭は成立しうるのか。
彼の映画は一貫して、この問いに取り憑かれていたといえる。
そこから、家庭のこと、結婚生活、愛についての映画が作られ
それらに関する問いや疑問は、やがて人間の俗性、
つまりは欲望、嫉妬、支配、自己愛までを肯定せざるをえない地点へと
彼をおおいに悩ませ、昇華させ、表現の原動力たりえたのだ。
この現実を、ぼくはベルイマンの「悪魔性」と勝手に呼んでいる。
それはなにも「神聖」の裏返しではなく、むしろ、被ってさえみえるし
行き着く先、破壊衝動ではなく、純粋な芸術下で取り沙汰されてきた。
事実、ベルイマン映画に終始描かれた姿勢に如実に反映され、
破壊を避けられないという冷徹な自覚をもちながら
それを芸術として成立させようとする野望そのものに昇華されている。
神を疑うこと、人間の俗性を肯定し、欲望を解放ではなく
通過儀礼として描ききるのだ。
神聖を帯びるのも、悪魔性を帯びるのも表裏一体、紙一重なのだ。
その果てに映画を完成させる、この一点においては
ベルイマンという作家は恐ろしく不遜であり、
それゆえに誠実な作家といえるのだ。
悪魔性とは、いったいどこを通って映画になったのかを考える時、
その通路に立つ女優こそが、リブ・ウルマンなのである。
ベルイマンにはすでに、ビビ・アンデショーン、イングリッド・チューリンといった
核となる素晴らしい女優たちとの出会いをはたしてはいたが、
彼女たちが役としての強度、ドラマとしての完成度を担う存在だったのに対し
ウルマンは映画が成立するかどうかを、顔一つで賭けうる女優として現れたのだ。
自身、自伝のなかで「リブ・ウルマンの顔は沈黙を引き受けることができた」
と述べているように、
その思いが、ウルマンのクローズアップの多さに通じているといえる。
ベルイマンはこの時期、言葉に対する深い不信に囚われていた。
いわば信仰三部作、『鏡の中にある如く』『冬の光 』『沈黙』を経て、
言語が人間の内面を照らすどころか、
むしろ覆い隠してしまうことを痛感していたとき、
その行き止まりに現れたのが、リブ・ウルマンの顔だったのだ。
そうしてまずは、それまで7年の女優経験はあったものの
ほぼ無名に近かった彼女をいきなり抜擢し
そのデビュー作『ペルソナ』において、ウルマンは失語症の女優を演じた。
言葉を持たない女優エリサベート。
これは象徴的というより、どこか予言的だ。
ベルイマンは最初から、彼女に何も語らせない状況に置いた。
いや、語ることを禁じることで、彼女を「内的沈黙の代弁者」に据えたのだ。
語れば語るほど、彼女は自分の輪郭を失っていくアルマに対し
沈黙する顔、解釈を拒む表情、観客の欲望を弾く眼差しを投げかける。
ウルマンは、意味を語らないことで、
ベルイマンの問いを純化させてしまう存在だったのだ。
二人は生涯、10本の映画を製作した公私にわたるパートナーだったが
結婚という形式をついぞとらなかった。
『ペルソナ』以降のベルイマン映画において、
彼女が演じる女性像もまた、決して饒舌ではなかった。
思慮深く、理知的で、ときに夫を立てるような母性さえ帯びていた。
だが、関係を円滑に保ち、場を壊さない存在として配置されても
その静けさは、決して安定とはよべないものであり、
感情を抑え込みすぎた結果としての沈黙は、
いつ亀裂が走ってもおかしくない緊張を孕んでいたのだ。
たとえば、テレビシリーズ『ある結婚の風景』では、
その緊張が決壊する瞬間を、
これ以上ないほど残酷に描いた作品といえるだろう。
人は善意だけでは一緒に生きられないという事実を見事に暴き出している。
ウルマン演じるマリアンは、理性的で、社会的に自立し、
夫ユーハンに理解を示す理想的な妻として登場する。
しかし物語が進むにつれ、彼女の内面は激しく揺れ動き、
やがて冷静な言葉そのものが刃となって関係を切り裂いていく。
彼女の感情の爆発が、これほどまでに内面を抉るとは思いもしない。
それほど、生々しく、強烈だった。
ただ、ここにあるのは単なるヒステリーではない。
長く抑圧されてきた理性が反転し、破壊力を持った瞬間の恐ろしさだ。
それは『鏡のなかの女』の女性精神科医のエニーでは
他者との間でも生じてしまい、自らをも崩壊させてしまう。
なぜウルマンの「爆発」は、これほどまでに胸を掴むのか。
それは彼女が、決して欲望から堕ちる女を演じていないからだ。
彼女が演じているのは、堕ちそうになる自分を、
最後の一歩で踏みとどまろうとする強固な人間の意志である。
それは、ベルイマン作品の男たちの内的葛藤を
遥かに凌ぐ形で滲み出していた。
その必死さが、マグマのようにふつふつと沸き立ち
観る者の倫理を揺さぶってくるのだ。
ここで重要なのは、ウルマンがベルイマンの悪魔性に
それでも「呑み込まれなかった」という事実だ。
戦争における人間性の崩壊を描いた『恥』、
あるいは創作に行き詰まった芸術家の愛の崩壊を描く『狼の時刻』では
その恐怖を人間心理を超えた超常現象にも彩られていたが
ウルマンを通して描かれたのは絶えず、鏡としての女であり、
男たちにしのびよる影を、みごとにその反射して見せたあの表情なのだ。
彼女はけして耐えてきたのではなく、対峙し抗ってきたことを物語っていた。
沈黙は防御であり、自己保存のための選択だった。
しかし沈黙がやがて支配へと変質することを、彼女は体で知ってしまう。
だからこそ、彼女はどこかでそれを語らねばならなかったのだ。
語ることは裏切りではなく、堕落でもない。
そう、それこそが人間であり続けるための、最後の抵抗として。
ベルイマンから離れたあと、
ウルマンが「語る女優/語る監督」へと変化したのは、自然な帰結である。
媒体であることを終え、自分が再び通過点に還元されないために、
彼女はひとりの作家として自分の言葉を持った。
自伝を書き、監督として映画を撮り、世界の前で語る場所に立った。
沈黙を知り尽くした者だけが持ちうる、重い言葉で。
2000年に彼女が監督した『不実の愛、かくも燃え』は、その到達点にある。
ベルイマンが脚本を書き、ウルマンが演出するというこれまでの流れからの反転。
ここにも、ベルイマンの家庭というものに対する冷徹な眼差しがやどっており、
夫の親友との不倫関係に走る妻という、ベルイマン自身の現実を反映しながら
この関係性のなかで、欲望は依然として強く、真実として描かれる。
ここにもはや免罪はない。
特に、子どもの傷が最後まで消えないという視点は、
ベルイマン映画にはなかった一線であり、
母であるウルマンにしか引けない境界線が盛り込まれていた。
ここに、二人の決定的な差異がある。
ベルイマンは、世界を解剖する強さを持っていたが、
それを修復する強さを持ちあわせてはいなかった。
一方、ウルマンは、壊れたものの前に立ち、
それを見捨てずにいられる強さを持っていた。
それはどこか、慈愛的であり、人間的な大いなるゆらぎだ。
その強さとは、ノーベル賞授賞式に出席し、
平和という言葉を引き受ける場所に立つ彼女の姿とも重なってくる。
ベルイマンには到達できない倫理的地点を、彼女は実際に生きてしまう。
だからこそ、ベルイマンにとってウルマンとの関係は、
ある種のカタルシス的関係だったのだといえるのだと思う。
自らの悪魔性を引き受け、映画として完成させるために不可欠な存在。
だが同時に、その悪魔性を最終的に否定しうる力をも持つ存在。
彼はそれを、言葉ではなく「配置」で示した。
彼女に与えた役柄、沈黙と語りのタイミング、
そのすべてに、最大級の信頼と愛情が刻まれている。
偉大なる芸術家と、それに応えた女優、そして女としてのウルマン。
ベルイマン映画は、リブ・ウルマンという媒体を通してその完成をみる。
そしてリブ・ウルマンの映画によって、初めてその代償が可視化された。
二人の関係は、愛の物語でも創作秘話でもない。
人間が人間を通して、どこまで真実に近づけるのか?
その極限を示しながら、築きあげた稀有な関係性があるのだ。
björk – gotham lullaby
リブ・ウルマンの音楽イメージはなんだろうか? と考えて、最初に頭を過ったのはメレディス・モンクの曲だった。彼女のもつ、狂気や人間が醸す呪詛的なムードをどこか内に秘めた彼女の演技の深さに、これほど響く音楽はない。そんなメレディスの代表的な一曲「gotham lullaby」の原曲の濃さを、少し和らげていrかどうか、それはわからないが、あえて、ビョークのカバーバージョンを取り上げてみた。この曲を正面からカバーできるシンガーは、世界広しといえど、そういるわけではないし、堂々、自分のモノとして昇華してみせるビョークの精神性は、ベルイマン映画で見せたリブ・ウルマンの内的原風景の秩序、温度、そして叫びを十二分にあわせもっているシンガーとして、この曲をリブ・ウルマンに捧げたい。












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