和田誠『麻雀放浪記』をめぐって

麻雀放浪記 1983 和田誠
麻雀放浪記 1983 和田誠

さすらいのジャンキーに憧れて

最近では全自動が主の雀卓で、手積みの感覚がわからないのだが
それでも、牌のジャラジャラという音が郷愁をくすぐってくる。
ぼくがひょんなことから麻雀を始めたのは五十を超えてから、
しかもまったくなんの前触れもなく、知識もなく、
マナーやルールすら曖昧で、見よう見まねで唐突に始まったのだ。
通い始めた昭和酒場で知り合ったメンツがタバコを燻らせ、酒を片手に
思わず昭和にレイドバックしたような雰囲気の中、
あまりにも楽しそうに雀卓を囲んでいるのにふと魅せられてしまって
遅まきながら、麻雀デビューを飾ったのだった。
最初はカモられてばかりだったが、徐々に、互角以上に戦えるようになって
その面白さにハマってしまった。
それこそ、もう少し早く生まれていたら、雀士を目指していたかもしれない、
というのは、半分冗談であるが。

そんな麻雀の花はなんといっても役満だろう。
親なら48000点、子なら32000点
つまり一発で他家を圧倒できる破壊力がある。
めったに出ないが故に、当人は相当気持ちがいいのだ。
その中で、天和(てんほー)・地和(ちーほー)
それぞれ、配牌の時点ですでに上がりの状況という
これぞ、麻雀の神の思し召し以外のなにものでもない役があるが
それが映画のなかの麻雀シーンのハイライトになっているのが
『麻雀放浪記』という映画だ。
しかも、すり替え(イカサマ)ってやつを駆使する百戦錬磨の勝負師たち。
全自動になれた現代人にとってはまさに手品そのものにみえる。

そんな麻雀映画を、映画狂たるイラストレーター和田誠が
映画監督として初めてメガホンをとった『麻雀放浪記』は、
不思議な温度を持つ作品にしあがっている。
これがなかなか渋い、というか、面白いのだ。
原作は言わずと知れた色川武大の別名、阿佐田哲也の同名小説。
敗戦直後の焼け跡を舞台に、ギャンブルと人間模様が錯綜するこれまた傑作だ。
麻雀を知らないものでも十分楽しめる内容になっているのがいい。
なにしろ、戦後焼け野原。
時代が時代だけに、
戦後復興の闇にギャンブルの甘い罠が人間の生きる糧になっている。
その熱気の中心は人間の欲望だ。
確かに、世はカネである。
金が全ての価値観のなかで、
自分の女を売ったり、家の権利書を賭けたりと
とにかくギャンブル脳のいきつきところは所詮勝ち負けしかない。
だが和田誠は、その泥臭くてケレン味あふれる小説世界を、
これが初メガフォンとは思えない手際の良さで
どこか澄んだまなざしで見つめ直して巧みに人間を浮き上がらせている。

まずは戦後東京の街並みを見事に再現しているのがいい。
この映画には、いわゆる「勝負の熱気」やら「血の匂い」はさほど滲まない。
セリフで「食うものがない」と言わせるより、
映像で“痩せた犬が通る”だけでいいってな美学がそこにはあるのだ。
そして牌を握る指先と、煙草の煙と、沈黙の間(ま)。
自らリスペクトをしてやまない、どこか小津安二郎的な静けさが、
そんな卓上の緊張にもにじみ出ている。
決して説明しすぎず、語りすぎず、人物の背中や目線が語る世界。
和田誠は、原作が持つ破天荒さや猥雑さを巧みに削りながらも、
芯にある“勝負師の孤独”を損なっていないのだ。
むしろそれを、映像の間で丁寧に拾い上げているところに好感がもてる。

坊や哲を演じた真田広之は、若く眩しい瞳を持ちながら、
どこか人生の裏側を知っているような男を見事に体現してみせた。
ドサ健の鹿賀丈史は、まさに“場をかき回す男”だ。
そして出目徳の高品格は、勝負の世界の「神」に近い、
どれも異様なまでの存在感を放っている。
このキャスティングもまた、和田誠の眼の確かさを感じさせるに十分で、
それぞれが、麻雀という小さな卓を舞台に、
人生の大きな浮き沈みを演じてみせてくれる。

忘れてはならないのは、女たちの描き方だ。
坊や哲がひととき心を寄せる加賀まりこ扮する「オックスクラブのママ」と、
ドサ健と腐れ縁の大竹しのぶのまゆみ。
あのママさんに哲がちょいと色気を感じてしまう。
これがまた哀しくて可笑しいアクセントを刻む。
ママは大人だから、どこ吹く風の感じであしらわれてしまうのがオチ。
そうした甘さが勝負にも出てしまう。
とはいえ、甘美なひとときの夢を導いてくれる女神だ。

そしてまゆみ。
まゆみとドサ健の関係はまぁ一言で言えばズブズブってやつだ。
愛ってのは時に足枷で、時に鎧にもなる。
健にはちょいと重たかったかもしれないが、やつには必要な情だった。
まゆみがいなきゃ、あそこまで勝負にこだわらなかったのかもしれない。
どちらも決して物語の主軸ではないが、
男たちの“勝負の空間”にふとした湿度や哀しみを添えているのはまちがいない。
女を描くことで、男の孤独が際立つ。
これは原作にも通じる、美しい構造だといえる。

そして、あの有名な“卓をぐるりと回るショット。
あの一瞬に宿るのは、まるで「神の視点」だといっていい。
卓を囲む四人の息遣いが止まり、時間が凍る。
カメラは感情を超えて、ただ勝負の場そのものを記録している。
これは単なる技術ではない。
和田誠の中にある「勝負の美学」が滲み出た瞬間だと思う。
こうして 『麻雀放浪記』は、阿佐田哲也の原作が持っていた“混沌の美”を、
静謐に、しかし敬意を持って受け止めた映画である。
牌を切る音と、笑い声と、裏切りと、愛。
それらを詰め込んだまま、あえて盛らず、飾らず、
ただ「あるがまま」に描こうとしたところに最大の成功がある。
それはまさに、阿佐田が書いた“人生のような麻雀”への、
優しいリスペクトの形だったのはいうまでもない。

この映画は麻雀好きにはたまらない心に“ツモる”作品が、
もちろん、映画好きにも自信をもっておすすめできる。
そんな映画を、イラストレーター和田誠が撮ったというのも感慨深い。
ただの映画好きにはない、冷静な視点とセンス。
おそれいりましたと素直に頭を下げるしかないのである。

坂本慎太郎 − グッド・ラック

映画『麻雀放浪記』からは、音楽らしいものはほぼ聞こえてこない。そこは和田誠のこだわりであり、音楽で盛らず、人生と勝負をそのまま置いたところに妙がある。だからこそ、あえて、それに似つかわしい音楽を想像するのが楽しくなってくる。ここで、昭和歌謡をいれるとして、何を選ぶだろうか? 勝負事にまつわる曲でもいいし、男と女のしみったれたむつみ合いでもいいのだが、そこは、和田誠へのリスペクトを含めて、僕はこの「グッド・ラック」という歌を選んだ。オリジナルの野口五郎バージョンはシティポップに通じる隠れた名曲だが、あえて、現代にその風情をしぶく再現した坂本慎太郎のカバーバージョンをお届けしよう。『麻雀放浪記』は白石和彌によって『麻雀放浪記2020』が制作されているが、これは和田誠版と比べると、正直、語るには及ばないほど残念な仕上がりだった。なかなか和田誠ばりの世界を再現するのは難しいが、もし、今後、誰かがこの作品をリメイクするときには、ぜがひでも坂本慎太郎にサントラを託したい、そんな思いがするのだ。