フェルナンド・ボテロの絵画をめぐって

《アルノルフィーニ夫妻(ファン・エイクにならって)》
《アルノルフィーニ夫妻(ファン・エイクにならって)》

暖をとる絵のふくよかさ

言葉は悪いが、世には“デブ専”なる嗜好をもつ男子が存在する。
いうなれば、ぽっちゃり、ふくよかな女性に惹かれるわけだが、
自分は、いまだかつて、このタイプの女性とつき合ったこともないし
とくに“デブ専”趣味はないのであるが、
どこかで、この嗜好に寛大な支持をもっており、
場合によれば、べつにそうした恋愛があっても不思議ではない、
そう思い続けている人間だ。

むろん、歓迎とまではいかないが、
たとえば、映画『ギルバート・グレイプ』の母親ダーレン・ケイツほどに
身動きすらもままならないほどの巨漢や
見た目に度を超してさえいなければ、十分、その魅力に共感できる自信はある。
なかにはフェリーニ映画に登場する巨漢女や、
寺山修司の『田園に死す』の春川ますみの空気人形、
あるいは『ピンク・フラミンゴ』のディヴァイン(実は男)といったキャラもいるが
なかでもレナード・カッスルの『ハネムーンキラーズ』のシリアルキラーの片棒
シャーリー・ストーラーを演じたマーサ・ベックなどは
その容姿ゆえの哀愁に、思わず同情をくすぐられたものだ。

さて、そんな“ふくよかフェチ”に自信をもって紹介できる画家、
それがコロンビアの国民的画家フェルナンド・ボテロである。
本人の女性趣味までは知らないが、
名前からして、すでに十二分のふくよかさの気配が漂ってくる。
確かに、その極端にデフォルメされた画風に
好き嫌いは分かれるところであるというのは理解できる。
ただ、ボテロの絵を前にして、顔を背けるひとはそういないはずである。
丸い。大きい。そう、ふくよかなのだ。
ひと呼んで「ボテリズム」。
その第一印象は、どこか無防備で、親しみやすく、可愛らしい。
だが、その愛嬌は知れば知るほどにそう深く付き合えないものかもしれない。
しばらく見つめていると、こちらの表情が緊張を帯びる瞬間がある。
爆弾テロ事件やアブグレイブ刑務所における捕虜虐待など、
なかにはコロンビアの現実をつきつけるような絵もある。
1992年に描かれた《コロンビアの聖母》をよく見るがいい。
我々は聖母の瞳に涙をみることになる。
そこにあるのは「癒し」ではなく、深い悲しみが込められているからである。

ボテロは言う。
「私は太った人を描いているのではない。ボリュームを描いている」のだと。
この言葉は、彼の絵画を理解するための鍵であると同時に、誤解を招きやすい。
ボリュームとは、量感であり、体積であり、空間を占める力だ。
それはべつに健康や豊かさの象徴ではない。
存在がそこから退かないという、頑固たる事実のことである。

ボテロの人物たちは想像以上には微笑んでなどいない。
目は小さく、口も小さく、表情はほとんど消えている。
感情を語らない代わりに、身体全体が感情を引き受けているといった風に
極端なデフォルメとして捉えることができるだけだ。
悲しみも、権威も、愚かさも、祈りも、
すべてが同じ体積、同じ重さでキャンバスを占めている。
それは人物なみならず、動物、楽器や食器という静物ですら同じである。
これはなにも戯画ではない。
存在の平等化であり、倫理的な選択なのだ。

彼の絵画が単なる「可愛さ」に回収されないのは、
この徹底した引き算のためだ。
細部は小さく、情報は抑えられ、物語は語られない。
その結果、世界は軽くならず、むしろ重くなる。
ボテロは、人を癒すために描いたりはしない。
世界はこれほど重いのだ、と静かに差し出すために描く。
この態度は、古典絵画への深い理解と切っても切り離せない。
レオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》が内面の神秘を描いたとすれば、
ボテロの《モナ・リザ》は、内面を剥奪された存在そのものを描く。
ピエロ・デラ・フランチェスカの静謐な秩序は、
ボテロの手にかかると、過剰な体積として横顔だ。

なかでも僕が最も好きなヤン・ファン・エイクへのオマージュである
《アルノルフィーニ夫妻(ファン・エイクにならって)》では
細部に意味を宿らせた原画の世界から、
ボテロにおいては、意味を抜き取られた後の物質として再構成されている。
たしかに、窓辺の果物がオレンジがリンゴへと代わり、
足元に種類を変えた犬がいる。
そして、凸面鏡では、ファン・エイクの鏡の中の不思議な世界を忠実に反映しない。
何よりも全体のトーンが、北欧的陰鬱さから
南米の陽気さを纏って明るく整えられ描かれているのだ。
つまり、ボテロという画家は
「細部の象徴画」から「体積の聖像」へと変換しているのである。
そこにはパロディとしての風刺すらも素通りして、
むしろ、古典の重さを、視覚のデフォルメによって
現代に耐えうる形で移植しているのだ。
ボテロは、構図、正面性、安定感をもって、
古典の骨格はそのままに、比例だけをずらす手法をとる。
そのずれが、世界の不均衡を可視化するのを見せてくれる。

ここで重要なのは、
ボテロがこの様式を一生変えなかったという事実である。
ボテリズムは戦略ではなく、信念というべき一本のスジに貫かれている。
対象は変わっても、法則は変えない。
王も、司祭も、娼婦も、音楽家も、拷問も、死も、
すべてを同じ重力のもとに置く。
それは「同じ絵を描き続けた」のではない。
変わり続ける世界を、同じ秤で測り続けたということなのだ。
その秤の背景にあるのが、コロンビアという国家である。
内戦、暴力、祝祭、信仰、家族。
軽やかな精神主義では生き延びられない土地。
ボテロの聖性は、天へ向かわない。
地上に、土地に、身体に沈み込む。
それは神への祈りというより、
国家という傷だらけの身体を抱きしめるための形である。
同国人の作家ガルシア=マルケスが言葉で行ったことを、
ボテロは視覚の体積で行った。
マジック・リアリズムとは、現実を歪めることではなく、
現実の過剰さを、そのまま受け止めることだったはずだ。
二人は同じ土地の空気を、別の感覚器官で吸い込んだことにならないか?

ドン・ミラーによるドキュメンタリー『フェルナンド・ボテロ 豊満な人生』では、
天才というより、実に親しみあるボテロ像が浮かび上がる。
むろん、ボテロは成功者として、幸福な画家として語られる。
子供のころから、絵を描くことが根っから好きで
しかも規律正しく描き続け、流行に目を向けず、
悲劇を叫ばず、すべてを引き受ける。
末っ子の息子ペドロの死という決定的な喪失さえ、
彼は説明せず、形に沈めた。
その沈黙が、あの絵の重さを決定づけていることも知るだろう。

だから、ボテロの絵は単に「丸い」だけではない。
それは、寒い世界の中で、
人間が人間であり続けるための暖炉のようなものだ。
近づいても、甘くはない。
しかし、確かな熱と優しさを放っているのを感じることはできる。
ボテロは、世界を救わないが、ただ、世界を軽くもしない。
その態度こそが、祈りなのだと思う。
神に向けた祈りではなく、この地上で生きる人間への祈り。
重さを否定せず、逃げ道を作らず、
それでもなお、抱え続けるという祈りだ。

ともあれ、我々美術愛好者は彼の絵の前で、暖をとることになる。
それはなにも慰めではない。
むろん、強制でもない。
生きていることの体積を、もう一度確かめるための暖である。
じっくり味わえば、その温度を感じ、自然に抱きしめたくなるはずだ。
そう、この寒い冬にこそ、このボテロを味わう絶好の季節なのだ。

Fat Lady Of Limbourg· Brian Eno

すこし、唐突だが、ここで豊満な絵画を描くフェルナンド・ボテロに、ブライアン・イーノの『Taking Tiger Mountain』に収録の「Fat Lady Of Limbourg」を捧げてみよう。イーノがまだアンビエントミュージックに移行していない時期に作られた実験性あふれるポップミュージック。ただし、あらためて考えると、この選択はあながち表層的な語呂合わせではない気がする。イーノの曲に登場するFat Ladyは、特定の現実の「太った女性」を描写した存在ではなく、彼女は物語を持たず、感情も語られず、ただ、ある土地——Limbourgという時間の沈殿した場所に配置されているだけの存在にすぎない。アルバムタイトルは、中国の革命現代京劇『智取威虎山』からの英訳であり、あたかもその舞台音楽のようなものだとすれば、ボテロに捧げる音楽というよりも「太っている」という表層でもなく、存在が質量を持ってそこに在ることへの共感というただの遊びだ。

イーノの「Fat Lady Of Limbourg」は、改めて音楽としては軽やかで、どこかポップですらある。中国という架空の異国情緒に身を任せるのは、いみじくも対象物をふくよかにデフォルメするボテロと同じ視点に立つことができる。とはいえ、聴き終えたあと、なぜか安心できない不気味さがある。その感覚は、ボテロの絵の前に立ったときともよく似ている。可笑しさの奥には、説明されず、意味に言及されない沈黙だけが続くからかもしれない。