ユホ・クオスマネン『コンパートメントNo.6』をめぐって

『コンパートメントNo.6 』2021 ユホ・クオスマネン
『コンパートメントNo.6 』2021 ユホ・クオスマネン

くたばれ、一期一会のロマンチックよ!

旅行は空路より、地上に限る、そう思っている。
なかでも鉄道の旅が性に合っている、そんな人間である。
地に足がついた移動に、どこか安心感があるのはいうまでもない。
もっとも、島国というハンディがそれを許してはくれないのだが、
若い頃、世界中を旅して回りたいと思ったとき、
なかでも、シベリア鉄道には一度乗ってみたい、
それでモスクワ経由でヨーロッパ中を旅してみたいと思ったものだ。
いまだ実現はしていないが、
空路以外で旅行ができるこのマジックルートは
ロシアの極東ウラジオストックから、モスクワまで
諸々の国際事情はさておくも、
広大なユーラシア大陸を車窓から眺めつつ横断できるという意味でも、
鉄道マニアにとっては最大のロマンルートにちがない。

とりわけ、日本にはないコンパートメントという車輌形態は、
まさに旅の醍醐味を兼ね備えた空間である。
がしかし、選べない同席、逃げ場のない距離、そして目的地に着くまでの長時間。
どれもが相当な寛容さと忍耐を要求してくるだろうが、
それゆえ、なにか心ときめくモノがある。
かつてぼくが体験したユーレイルでは、事件らしいことはなにも起きなかったが
あれはユホ・クオスマネン監督『コンパートメントNo.6』と同じく90年代だった。
まだ携帯もSNSもない、前時代的な香りをどこかで残していた時代だ。
それでもヨーロッパ映画ではしばし、コンパートメントそのものが
ドラマ性が滲む空間として記憶している。
ヴェンダースの『アメリカの友人』での列車内の壮絶な殺人、
ロブ=グリエの『ヨーロッパ横断特急』やブニュエルの『欲望の曖昧な対象』では
語り部の空間そのものとして使用されていたし、
あれはコンパートメントではないにせよ、
リンクレーターの『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』では
ふたりの恋のきっかけがこの列車によって始まっていたのを思い出す。
そんなストーリーテラーには欠かせない空間においての
ボーイミーツガール映画の顛末、はたして結末はいかに?

映画は冒頭にロキシー・ミュージック「Love Is the Drug」が流れ、
いかにも恋の予感を煽る導入として始まる。
だが、この予感、ムードはここでは最後まで
ロマンティックに回収されない、ということが徐々に見えてくる。
モスクワで考古学を学ぶフィンランド人留学生ラウラは、
大学教授である恋人イリーナのドタキャンにより
ひとり旅へと余儀なくされ心浮かぬまま、このシベリア鉄道に乗り込む。
目的はペトログリフと呼ばれる岩絵を見に行くためだ。
そこで同室になる見知らぬロシア人青年リョーハと
二人っきりの空間に置かれるという、少しいびつな出会いが待ちうけている。
その関係は、出会いこそ最悪なもので、途中引き返したくなるほどだが、
雪解けのように、徐々に心が近づいてゆくというのが話の骨子である。
だが、繰り返していうが、いわゆる甘い恋の話じゃない。
そこが『ビフォア・サンライズ』とは違うところで、
ここに本作の妙があるのだ。
つまり、映画は劇的にならずとも、
その距離感だけで、十二分に映画たり得るのだと。
その探りあいがドラマの本質なのだ。

こうした、いうなればロシア風土の天候のように
曖昧で、どっちつかずの恋模様をみていると
さすがはカウリスマキを排出した、
フィンランド人気質というものがなんとなくみえてくる。
ラウラはとくに可愛いわけでも美人でもなく、
相手のリョーハも同じく、いい男ではない。
クオスマネンにはカウリスマキほどの
映画オタクならではの明確で頑ななまでの強い個性こそないのだが、
そのキャラクター設定の絶妙な匙加減こそが、
カンヌ映画祭グランプリ受賞と、
世界中の映画ファンに受けた要素なのかもしれない。

ラウラはロシア語を「話せるが、語れない」位置にいる。
理解はできるが、感情の細部にもどかしさを滲ませている女性である。
この半透明の言語状態が、彼女の人生の宙づり感と重なる。
一方、リョーハは粗野で無骨、しかし根本的に善良だ。
また、ラウラが愛しているの意味として教えた、
フィンランド語の「ハイスタ・ヴィットゥ(くたばれ)」を鵜呑みにするやつだ。
自分は言葉で綺麗事を吐かず、決して境界線を越えようともしない。
彼の倫理はまず、そのぶしつけな佇まいの内に滲んでいる。
ラウラの恋や憧れの対象であったイリーナとは真逆である。
よって二人の沈黙は空白に投げ出され、
沈黙そのものがすでに旅の物語を形成している。

本作がじわじわ効いてくる理由は、感情がその場で回収されない点にある。
説明しない主人公、盛り上げない音楽、淡々とした関係と別れ。
感情は未処理のまま観客に渡され、記憶としてのみ熟成する。
ラスト、リョーハが残した「ハイスタ・ヴィットゥ」と拙い似顔絵をみて、
ラウラの仏頂面がほどけるあの笑顔は恋の成就とは違う、
「自分は、ちゃんと誰かに見られていた」と知った瞬間の最高の表情だ。
映画はここで初めて、感情の引き金を引く。
そうして、恋人不在の重力からも解放されるのだ。

反面、体制の顔はいずれも冷たい。
権威とスノビズムが横行する大学という装置、
無愛想な列車の車掌、不親切なホテルのフロント。
そして電話越しの恋人イリーナのそっけない態度。
誰も傷つけないが、誰も支えることもない人々に対して、
対照的に、最も教養がなさそうで粗野な男が、
最小限の倫理でもって隣に残るのだ。
善良さは制度ではなく、同じ時間、そして場所に共鳴することで生じるものだ。
途中、列車は朝まで停車することになり、
リョーハが老婦人の家を訪ねるシーンがある。
ラウラは強引に誘われて同行するのだが、
二人の関係性の浸透を上手く伝えるとてもいいシーンである。
ここでも二人は淡々と一日を終えるが、
確実にその距離が縮まってゆく。

そこに改めてロシアとフィンランド、この国家の関係性がうっすら滲む。
かつて、長年のロシア支配と2度の戦争で、脛に傷を持つフィンランド。
この映画を観て、改めて両国が隣接国であることを認識する。
いわば、地政学的にみても支配と服従のせめぎ合いが繰り返されてきたのだ。
フィンランドの叙情は内側へと沈み、
ロシアのリアリズムはその身体性を全面に出す。
小国の内向きの強さと、大国の生存の粗さ。
それが両国の緊張の実態だろう。
両者は決して混ざらないが、非侵害の距離だけはいまもなお成立する。
それでいい、という現実的なバランスがここにはあるが
和解も理解もここには描かれない。
目的地、極寒のムルマンスクは、その緊張の構図を示す場所だ。
北欧の沈黙を深める寒さを超え、思考を止め、身体だけを残す寒さ。
虚飾は剥がれ、だが優しさは動作となって二人を近づける。
物理的には寒くなるほど、関係性はわずかに温まってゆく。
顔を真っ赤にしながら極寒の地に転げ回る二人。
この逆転が、最後の笑顔に優しい熱を与えることになるのだ。

恋未満のボーイ・ミーツ・ガール、この映画に流れる空気が
多くを語りすぎないがゆえに、やはり誰かに語らずにはいられない。
いわばほっておけない心揺さぶるロードムービーなのだ。
それはロメール的な逡巡と、ジャームッシュ的な無愛想さをもって
そこにカウリスマキのオフビートの倫理が重なるが、
『コンパートメントNo.6』は、国家や恋愛の大きな物語を拒み、
隣席の倫理だけを信じうる映画だ。
やがて列車の旅は終わり、映画も終わる。
ハッピーエンドなのか、消化不良なのか、見たものが決めればいい。
そこで目的は置き去りにされるが、
それでも、同じ寒さを一緒にやり過ごした記憶だけは残り、
数日後、ふと胸の奥で揺れ始めることになる。
まるで、その遅れてくる温度こそが、この映画の到達点であるかのように。

ああ、また旅に出たい。
そして、コンパートメントに座って見知らぬ出合いにときめきたい。
『コンパートメントNo.6』は見終わったあとに、そう思わせる映画だ。
ただし、持ち物にはご注意を。

見終わったあとに気づいたのが、主人公ラウラが恋している大学教授イリーナを演じたディナーラ・ドルカーロワこそは、あのカネフスキー監督『動くな、死ね、甦れ!』での守護天使ワレルカではないか。あの時はまだ子供だったのに、ずいぶん成長して、女優としての貫禄まで滲ませていることにすこぶる感動を覚えた。

Grace Jones – Love Is The Drug

映画で流れていたのは、ブライアン・フェリーが歌うロキシー・ミュージックのオリジナルバージョン。オリジナルはもちろんかっこいいですが、そのままだと芸がないので、ここはグレース・ジョーンズのディスコチックなアップテンポのカバーバージョンを聴いてもらいましょうか。この曲は85年の彼女のベストアルバム『Island Life』に収録されている。いかにも80年代的なPVは、映画の雰囲気とはちょっとズレがありますが、そこはご愛嬌。ただし歌詞を聞いていると、この映画のストーリーとはあながち遠くはないんだな。

ちなみに、グレース・ジョーンズはあのアンディ・ウォーホールの息がかかった長身の黒人モデルで、実にカッコよかったな。何年か前はシュワちゃんの映画や「007」シリーズにも出てたみたいだけど、まだ現役なんだろうか?