吉田大八『美しい星』を視る

美しい星 2017 吉田大八
美しい星 2017 吉田大八

失われた空を求めて

リリーフランキー演じる、大杉重一郎はお天気キャスター。
当たらない予報として、お茶の間には知られているが
タレント並に人気があり、局内の女子とも
うまく立場を利用してねんごろな関係を結んでいる。
そんなチャラい中年男が、あるとき、UFOと遭遇して
自分が地球を救うためにやって来た火星人だと自覚する。
そのまなざしに導かれ、家族はそれぞれの「星」に目覚めてゆく。
世界は終わろうとしているのに、彼らはそれぞれに
どこか、使命によってつながっていることを確信している。

三島由紀夫が1962年に遺した異色作である『美しい星』。
あの三島が挑んだSF、この異端の寓話をどう読むか?
それは「信仰の滑稽さと、信じることの尊さ」の間で揺れる、
神なき時代における“最後の祈り”の結末とは?

かねてから、この三島の異端の寓話に惹かれていたという、
吉田大八監督が2017年に映像化したこの作品は、
原作が抱えていた“思想の空白”に、
「エンタメSF」という軽やかな皮を被せてながら、
一篇の不思議な寓話として新たに再生させた。
ここでは、原作と映画のあいだに潜む“三島由紀夫の亡霊”を、
そっと呼び出すことも可能だ。
登場人物たちが見上げる空の意味も、UFOに乗り込んだ大杉の思いも
どこかで共鳴するに値するものだと思えるかもしれない。

『美しい星』は、三島由紀夫の作品群の中でも明らかに異質な小説である。
おなじく、文学からの映画化という意味で、『金閣寺』と比べれば
その重さ、その肌感覚の違いは明らかである。
火星、水星、金星、そして地球人。
家族それぞれが宇宙人として“目覚め”出し、この美しい星地球を救おうとする。
ここに国家の美学も、肉体の様式も、そして死の悲劇も存在しない。
その代わりにあるのは、日常にしみ込むような終末感。
そして、それに抗うかのように芽生える無根拠な使命感だ。

この小説の執筆当時でいえば、米ソ、東西冷戦時代であり、
人類は核兵器による滅亡や不安をかかえ、
すでに失われた信仰による、世界終末観を迎えていた。
神はどこにもいない。
それでも人は、何かを信じようとする。
当時の三島は、超常現象に関心をもち、
「日本空飛ぶ円盤研究会」なるものに入会し、
実際、空飛ぶ円盤観測に胸を踊らせていたという。
なかなかのエピソードである。
それゆえに、このSFが単なる暇つぶしにも思えないが
ならばこそ、そこに三島の思いを覗きこんでみたくもなる。

この小説における”聖性”とは何か?
三島が追い求めてきた聖なるもの、美しきもの。
それは三島文学、はたまた三島美学の真髄であり
映画では、あらかじめ与えられ、追うものというよりは、
むしろ“信じようとする姿勢そのもの”に宿っている
人間本来の何かを描いてみせたといっていい。
妄想であれ、笑われようと、滑稽であろうと、
「信じることをやめない」その行為の遂行と美学。
この世でもっとも清らかなものへの憧れへと突き進む思いこそが、
この三島的な意味での“祈り”として立ち上がってくるのだ。
だからこそ、本作は、“様式”や“重厚”といった三島文学の骨格を持たずに、
むしろ、その外殻の剥離によって「無信仰時代の祈り」を形象化した、
一種の実験であり、寓話であり、 三島自身の“失われた原点”の投影をみるのだ。

一方、吉田は、原作に内在する重みや硬質な文学性を、
あえて“笑い”の領域に変換する。
それは戯画であり、家庭内SF劇であり、スラップスティック寸前の終末譚である。
にもかかわらず、そこには奇妙な切実さに胸を衝かれる。
父は火星人として、息子は水星人として、娘は金星人として、
それぞれの信仰を持ち、各々の正義と使命に向かって動く。
誰も正しくなどないし、切実だ。
けれど、誰も完全に間違っているとも言えない。
大事なことは、真実を尊ぶことだ。
そして家族はラスト、円盤に乗り込む父を見届ける。
すなわち星へ還る儀式、魂の命じる真実へと向かう姿だ。
吉田がこの映画で描こうとしたのは、
「信仰の本質が、正誤の問題ではなく、
“信じるという行為”そのものにある」 という逆説にちがいない。

だが、三島が愛した様式美はもはやここにはない。
その代わりにあるのは、 形式を脱ぎ捨てた人間の赤裸々な姿であり、
“コントとしての聖性”とも言えるやさしさと哀しみである。
その哀しさを、リリー・フランキー絶妙の脱力系の軽さが救ってくれる。
ゆえに、この映画は、重さからの自由を選び、
三島の幻影を、笑いとともにそっと送る「成仏の儀式」にも映るのだ。

かつて、人は神を仰ぎ見た時代があった。
おそらくは、遠い宇宙でさえ、もっと身近にあったのであろう。
だが、いま、人はその場にいてSNSを仰ぎ見る。
そして、顔も名前もしらない擬似的な共鳴で結びついている。
そこに、浮かぶあの事件。
天皇万歳を叫び、葉隠に回帰しようと
国家そのものへの絶望とともに散った、あの思いがのしかかる。
『美しい星』の映画版において、「宇宙」や「円盤」など、一種の象徴にすぎない。
すべてが戯画がされてはいるが、
それは「信じる対象が見つからない世界」における、
最後の“空白”としての役割を担っているだけだ。
登場人物たちは、それぞれ自分自身に語りかける。
そして行動し、メッセージを発し、陰謀論にさえ溺れることにも恐れはしない。
まさに三島の最期と重なるわけだが、
そこに三島ほどの絶望はみられない。

むしろ、それら全ては、「わたしはここにいる」という祈りの拠り所であり
開放なのだ。
あの滑稽なまでの仰々しいUFOを呼び寄せる身振りによって、
われわれはそれを確認しあうことになる。
神が不在となったあと、人々はなおも儀式を求め、
その対象が“空”であっても、“星”であっても、
とにかく「信じるという形式」だけは失わずに突き進もうとする。
空を見上げUFOを呼ぶことなど、もはや意味など持たないかもしれない。
だが、その無意味なまなざしの中にこそ、
かつての「祈り」の痕跡が残っているのではないだろうか?

三島由紀夫は、何もこの作品にすべてを託したわけではなかっただろう。
彼にとって『美しい星』は、一瞬の逃避であり、シェルターだったのかもしれない。
それは、試作として様式を超えるための戯れだったのかもしれない。
とはいうものの、その“戯れ”のなかに、
彼は一度だけ「空」を見上げた。
国家でもなく、肉体でもなく、美でも観念でもない、
それらすべてを喪失したあとに、
なおも信じたがる人間の滑稽さと気高さを、つまりは魂の聖性を
三島は夢見ていたのかもしれない。

吉田大八の映画は、そのまなざしを拾い上げ、
重力のない、柔らかなエンタメのフォルムで、 観客の心に静かに着地させた。
これは、嘲笑ではないし、蔑視でもない。
また、過度なリクエストでもロマンでもない。
むしろ、今の時代にこそ必要な“やさしい供養”なのだ。
三島由紀夫という昭和の亡霊を、そろそろ舞台から降ろしてあげたい。
今日も美しい空を見上げて、ぼくはそう思った。

平沢進:金星

こんなところで、まさかあの平沢進の名曲が聴けるとは! ちょっと驚いた瞬間でもあった。劇中で、若葉竜也演じる竹宮が、ギター片手に歌うシーンで使われたのだが、橋本愛演じる暁子がその歌を聴いて、「金星人」としての覚醒を暗示するかのように、竹宮がこの曲を歌うという演出に、この映画の核をみるのは自然だが、吉田大八自身がすごく影響を受けたミュージシャンであるという平沢進の楽曲「金星」は、やはり必然として、使われたのである。改めて聞くと実にいい曲だ。ちなみに、この『美しい星』のサントラを担当したのは、渡邊琢磨。デヴィッド・シルヴィアンのワールドツアーのキーボーディストとして参加していたミュージシャンで、この映画の不思議で独特な浮遊感を見事に表現している。ぜひ平沢進とのコラボも聴いてみたい気がした。