視覚の刺客、ウェスティバルなムービーショー
ウェス・アンダーソンの映画『アステロイド・シティ』を見て、
いやあ、面白かった、あなたも一度見てみて!
などと、はたして軽々しく勧めていいものだろうか?
もちろん、かまいはしない。
なぜなら、それだけの要素が十分にあるからだ。
ヴィジュアル的に面白いであるとか、音楽の使い方、チョイスのセンスがいいとか、
唯一無二の個性だとか、展開だとか、発想だとか、
この際なんでもいいのだ。
いろんな理由をつけて、映画への興味は焚き付けられることだろう。
とはいえ、いったい、僕はこの映画に何を見せられたというのだろうか?
一つの映画体験として、ふと振り返ってみると、
俄然、そういう思いにかられてしまうのだから、困ったものである。
実のところ、僕はこの映画を何度か繰り返し見ている。
それは必ずしも面白かったから、好きすぎるから、というわけではない。
途中で、いつもどこかで何度か記憶が飛んでしまうほどに
内容をイマイチ理解しきれずに、また見返すという行為を繰り返したのだ。
それでもやっぱりわからないことはわからないままである。
それは、たとえばリンチにおける『イレーザーヘッド』や、
アラン・レネの『去年マリエンバードで』、
はたまた、ホドロフスキーの『エル・トポ』のようなタイプの、
難解な映画に出会ったときの、
あの、なんだか訳がわからないが、どうにも惹き込まれてしまう感じとは、
ちょっと違う感覚なのだ。
ここはひとつ、冷静に見てみよう。
あえて、無理くりに、とってつけたようにたとえるなら、
ドリフなり吉本新喜劇の舞台を、あえてメタ映画として再構成する企画を立て、
まずは、全体的には、鈴木清順が得意とした大正ロマンを
アメリカ版50年代の設定に落とし込むコンセプトに置き換え、
その際には、カーニヴァル感を科学への挑戦などと称し、
『8 1/2』のフェリーニあたりに脚本を委ねつつ、
少し俳優たちの存在にも気を配りながら、
『ドッグヴィル』のラース・フォン・トリアーあたりの大胆な意匠を持ち込み、
『マルホランド・ドライブ』あたりのリンチの感性を
究極にまでポップに目覚めさせ押し上げた上で
自ら『フェイク』を演じ撮った、
あのオーソン・ウェルズ的な映画手腕の魔法の力をかりて
なんとかうまく一本の映画にまとめ上げる、といった感じだろうか?
なんだか、ずいぶんおかしなことを書いている自覚は多分にある。
要するに、映画作りの困難さ、難解さ、解釈の多様性と可能性、
なんでもいいのだが、それらをいかに楽しむかにかかっているのだ。
では、そんなウェス・アンダーソンの映画に、いったい何を求めるというのか?
そこは、真面目に、意味やストーリーを追ってどうなるのか?
そういう根源的な問いにもどれば、答えは単純である。
これこそがウェス・アンダーソンなのだと。
つまりは、本人のこの大胆なまでのニヤニヤ感が
どこまでも透けて見える映画なのだ。
ずいぶん、回りくどくなってしまった。
ここでは映画の中に、まずはTV番組の放送として
アステロイド・シティという、人口87人、
空想に彩られた砂漠の街を舞台にした「劇」の舞台裏を、
司会者が誘導する形で、モノクロームで展開される設定から始まる。
そこに、5人の天才的な科学者の卵たちであるキッズが
その家族とともに招待されるという話が、
本編として、目の覚めるような鮮やかなカラーで再現され
舞台裏との見事な対をなしているという構造だ。
言葉にすれば、虚構に対する現実を装う虚構、ということにでもなるのだろうが、
この複雑な構造は、劇中のディレクターがいうように、
その設定には「作り込みすぎ」のきらいはみてとれる。
登場人物たちは、そうしたテーマにも果敢に挑戦し、
コマとして、パーツとして、感情抜きに動き回る。
そもそもが、ストーリーに回収されない映画作りにおいて、
ただそこに「ある」ために存在しているかのようにもみえる。
誠に不思議な映画なのだ。
その存在そのものが映画の「物語」そのものであり、
言葉で語られる以上に、その映画が醸し出す感覚、空気、
つまりは色彩、スタイル、音、構図、俳優たちの動きのひとつひとつが、
なんとも雄弁に物語を展開してゆくのだ。
そうした小宇宙の集積が、この物語の推進力となり、
そこにUFOや宇宙人がやってこようと、
そこで隕石をさらって、再び返しにこうようと
天才児達が偉人たちの名前を挙げていくゲームに興じてみせようと、
引率の子供たちに、宇宙の講義を始めようと、
子供達がタッパに入れた母親の遺灰をその場に埋葬し、祈りを捧げようと
まるで思いつきのように、次々に挿入されるイメージそのものを
一つのユーモアとして楽しむこと自体、なんら的外れな見方でもない。
だが、ここには、1950年代のアメリカという時代背景に根ざしつつ、
その中に未来的なビジョンを織り交ぜながら
ノスタルジーとフューチャリズムの融合がみられる。
アンダーソンは、過去の『グランド・ブダペスト・ホテル』や
『フレンチ・ディスパッチ』で見せたのと同じように、
映画内映画という入れ子形式を通じて、
科学と未来に対する期待や恐れを、独自の視点で解釈しつつ、
その時代背景を豊かなビジュアルとテーマで表現している。
キャラクターたちは、当時のアメリカ社会における理想像や虚構を体現しながら、
その背後に隠れた深層的なテーマを、ユーモアとして浮かび上がらせるが、
その実、どこか皮肉に満ちた視線が絶えず潜んでいることを忘れてはならない。
ここで、登場人物たちが言葉を交わしていることも、
それが何を意味するのかを問うよりも、
彼らの動き、発する言葉の響き、
そして映し出される構図に浸ってみて、
この世界の住人として、いつの間にか
そのなかに入りこんでいる自分自身を発見することから始めよう。
そうすれば、宇宙人の存在も、核実験も、隕石の落下跡など、
画面の隅々にまで細かく組み込まれた「仕掛け」が
はじめて言葉を超えて、直に感性に触れてくるはずだ。
そこで、「眠らなければ、起きることはできない」と連呼する
ウィレム・デフォー扮するカイテルによるセミナーのシーンでの、
受講者たちがミュージカルのように順番に唱和する、
あの意味深なシーンで、改めてはっとするはずである。
はて、これはいったいどういうことだ?
いったい僕らは何を見せられているのだろうか?
そこで、また、改めて形而上的なエンタメの迷宮に彷徨い、
取り残された自分を発見するにちがいないのだ。
ウェス・アンダーソンの映画の特徴は、
こうした目覚め(美意識の啓蒙というべきか)のための虚構性が
極めて「グラフィックデザイン的に俯瞰されたフィクショナル空間」に再生される。
いたって恣意的だ。
オーギー&ミッジ、窓越しの会話などは顕著である。
完璧で、みごとなフレイムワーク、
その視覚的な要素が物語の進行を超えて、
映画全体に対して深い意味を与えるような役割を担っているのだ。
細部にまで計算されたシンメトリーや色彩、セットデザインが
物語のテーマやキャラクター同士の関係を強調し、
映画そのものを一つの芸術作品として成立させているといえるだろう。
その意味では、アート映画としての側面も、否定はできない。
しかし、アンダーソンの本質は、なにより撮影への効率と工夫である。
卓越した知識と計算のたまものによって、
盟友アダム・ストックハウゼンと作り出すその芸術的なセットに
映画作りの本質が、すべて凝縮されているといえよう。
アンダーソン映画においては、キャラクターが発する言葉は
しばしば機械的で無機質に感じるかもしれない。
『アステロイド・シティ』では、そのまま、「劇」として昇華させているがゆえに
台詞そのものからもさほど感情が読み取れない。
反面、不思議なことに、感情の深淵を表現する時があるものだ。
しばしば過剰なほど感情を抑えつけたような台詞回しが
かえって、登場人物たちの内面の孤独や無力感をも際立たせる。
登場する人々が、どこか無理に過去を切り離して生きているような
そんな印象を受けるのは、そのためだ。
途中、芝居がわからないと、舞台裏のディレクターに迫る、
ジェイソン・シュワルツマン演じる戦場カメラマンオーギー。
それまでの安定感が、ここで一気に不安定さを引き立てることになる。
そこで、オーギーは、映画キャストとして待機する、
マーゴット・ロビー演じる妻役の女性との会話に向き合う。
しかも、劇中では彼女はすでに死んでおり、
写真でしか登場しない設定において、
二人は、映画でカットされたシーンについての、
語られないことを語り合うのだ。
そんなシーンが、『アステロイド・シティ』における、
もっともエモーショナルな情動を呼ぶハイライトシーンだといっていい。
こうして登場人物たちが、単なる演者としてではなく、
その空間を形成する「パーツ」として機能し、
その存在が映画全体に調和をもたらすことに成功しているのは
アンダーソンが、こうして、キャラクター同士を結びつけ、
その連帯感を「視覚的に」示してゆくことで、
あきらかにフィクションでありながら、矛盾がないからだろう。
実際に、ウェスの現場には、混乱など一切ないのだという。
むしろ、どこか和気藹々とした空気に満ち、
俳優たちはこぞって場になじみ、そして慈しむ。
こうして映画内で何層にも重なる物語が交差し、
時にはその境界線が溶け合うことで、
観客は、映画の中で多次元的な体験を共有することができるのだ。
この『アステロイド・シティ』の、これら
どこか懐かしいレトロ未来のような装置、装飾、衣装が並ぶ風景が
そのひとつひとつが時代を超えて結びつき、
異なる時間軸が交錯しているかのような感覚が襲う。
未来と過去の境界が曖昧になる瞬間、
過去の風景が現代と並列して立ち上がるとき、
ぼくらはただその空間に身を委ねることしかないが、
それを眺めいるのは、確かに快楽である。
派手でありながらも、決してうるさくならないポップな色使いが
全体を支配しているその舞台で、
見るものは異次元の世界に招かれる客だ。
ピンクや青、黄色といった原色が、
画面を飛び跳ねるように使われることもあれば、
落ち着いたトーンで背景を飾ることもあるが、
色彩は物語を語るために使われることもあれば、
感情の揺れを表現するために使われることもある。
それほどに、色彩へのこだわりはことのほか深い。
これほど、視覚が言葉以上に雄弁になる瞬間もないだろう。
この映画は、なにも容易に答えなど与えてはくれない。
むしろ、ぼくらが自ら問いを投げかけ、その問いの中に揺れながら
感覚を磨いて、そして楽しんでいくことを、ひたすら求められている気がする。
よって、我々観客すらも、その実験性へと組み込まれる映画だといえる。
そう思えば、相当にラディカルで、挑発的な映画だとわかってくるだろう。
そんな『アステロイド・シティ』だが、本国ではヒットし、日本でも人気を集めた。
本作は製作費35億円、興行収入76億円だそうだ。
確実にアンダーソンの世界にハマるファンがいるのは当然なのだ。
このおかしな現象は、映画という枠を超えた「感覚的な体験」として存在する。
物語を求めず、キャラクターの言葉に耳を傾けるのではなく、
ただひたすらにその画面の中に広がる「美」と「感覚」を受け入れたとき、
映画が語ろうとしているものがなんなのか、各々が見えてくるそんな映画である。
映画がどれほど精緻に作り上げられていても、
その真意は観客が受け入れる空間の中にしか存在しないという、
世にも不思議な映画体験だ。
アンダーソンの映画を観るという行為は、ただの視覚的な経験を超え、
まるで目の前のパズルを読み解くような行為として、
その感覚を素直に楽しめるかどうかにかかっているのかもしれない。
そこではじめて
「眠らなければ、起きることはできない」という逆説の意味が刺さってくる。
虚構の中から、現実をどう見つめるか?
現実を見るためには、虚構を経なければならない。
まさに、それこそが映画としての使命なのだと。
Freight Train (feat. Nancy Whiskey)
エンディングおよびエンドクレジットで流れる1曲目「Freight Train」は、ぼくの大好きなアラバマ出身のシンガーソングライタージェームス・コットンの曲だ。イギリスのスキッフル・グループ、The Charles McDevitt Skiffle Group の演奏で Nancy Whiskeyが歌っている。歌詞の中の「Freight Train」という言葉は、自由に動き続ける列車を象徴し、歌う人物がその列車に乗り込んで新しい場所へと向かう様子が描かれている。鉄道はアメリカの歴史の中で、開拓時代から現代に至るまで、移動のシンボルとしてよく使われてきたモティーフで、ここでも象徴的に使われている。エンディングでこの曲を使用することで、アンダーソンは映画のノスタルジーと未来的なビジョンを結びつけ、映画全体に流れるテーマ—移動、希望、そして変化—を、視覚的および感情的に締めくくることになる。
You Can´t Wake Up If You Don´t Fall Sleep: Jarvis Cocker
さて、この映画のサントラは、『シェイプ・オブ・ウォーター』などでアカデミー作曲賞を受賞しているアレクサンドル・デスプラで、ファンタスティック Mr.FOX』以降、全てのウェス・アンダーソン作品の音楽を手掛けている。このサントラが味わい深いのは、まさに、カントリー、フォーク、ブルーグラスといった1950年代のアメリカ音楽の宝庫のような選曲が中心で、エキゾチカで名を馳せたレス・バクスターから、「レスポール」の生みの親レス・ポール、ブルーグラスの父、ビル・モンロー、世界初のマルチメディア・スタービング・クロスビーなど、その他、通な楽曲が並ぶ中、アニメ映画『ファンタスティック Mr.FOX』に声優として出演して以来のつきあいである、イギリスのロックバンド「Pulp」のフロントマンジャーヴィス・コッカーが、「You Can’t Wake Up If You Don’t Fall Asleep」、「眠らなければ、起きることはできない」という映画内で連呼されるこのフレーズのタイトルを歌っている。それがエンドクレジットで流れる2曲目。
歌詞は、夢や希望、そして行動の重要性をテーマに歌われ。「You can’t wake up if you don’t fall asleep」というフレーズは、ここでは、変化や成長のためには、まず始めることが必要であるというメッセージを伝えているように思える。また、歌詞には「You can’t make an entrance if you keep missing your cue」や「You won’t pick a winner till you learn how to choose」など、人生の選択やタイミングの重要性を示唆する言葉が並んでいることからも、映画の登場人物たちが直面する葛藤や成長と重なる部分があり、映画全体のテーマと深く結びついているのがうかがえる。
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