ミューズであることの孤独と永遠
ぼくが愛してやまない映画作家、フェリーニの妻でありミューズであった
ジュリエッタ・マシーナが、そのフィルモグラフィのなかで
彼女が出演している作品はさほど多くはない。
おまけに、いつも、どこかバカ正直なまでの天真爛漫さゆえに、
苦渋を引き受けざるをえない、いうなれば損な役どころばかりだ。
それがずっと心に引っかかっていた。
たとえば、ジュリエッタ・マシーナという女優の原点である
『道』におけるジェルソミーナは、
同時に映画史における奇跡の一つとして記憶されている。
粗暴な大道芸人ザンパノに買われ、虐げられながら、
それでも彼女は、あたかもチャップリンの道化を受け継ぐような身体性で、
世界を拒絶することなく、どこまでも健気に生きた。
彼女の眼差しは、理解するためのものではなく、
ただ受け入れざるをえない哀しい眼差しをしていた。
彼女は世界の意味を知らないし、生きる方法もわかってはいない。
しかし彼女は世界の存在を信じており、
その無垢さは、残酷ながら、愚かさよりも、
むしろ存在そのものの純粋な形であるところに感動があった。
ザンパノが彼女の死を知り、ひとり海辺で崩れ落ちるとき、
彼が失ったものは、一人の女の姿ではなかったと思う。
彼が失ったものは、世界の中にまだ残されていた純粋性そのものの喪失であり、
フェリーニ自身、ジュリエッタを通してしか触れることのできなかった領域として
最後に、くっきりと浮かび上がらせた。
続く『カビリアの夜』において、ジュリエッタは再び裏切られることになる。
娼婦カビリアは愛を信じ、そしてまた、愛によって落とされる。
しかし、映画の最後、彼女は泣きながら微笑む。
その微笑は敗北の微笑ではないのだと、
少なくともぼくはそう信じた。
それは、絶望の中で、なお存在し続けることを選んだ者の微笑であるのだと。
その瞬間、彼女は役を演じている女優ではなく、
映画を人生に置き換えた哀しみと希望、そのものになった。
我々観客は、彼女を「見る」のではなく、
絶えず彼女とともに「存在する」ことを選んだのだ。
少なくとも、ぼくにとっては、そんなジュリエッタが愛おしかった。
ゆえに、フェリーニ作品が大好きだったのである。
いまだ、あの顔を忘れることができない。
それは美しい顔という意味ではなく、むしろその逆である。
決して美に収まるタイプでも、演技を誇る女優でもない系譜にあって、
彼女の顔は、映画の中で絶えず傷つき、裏切られ、置き去りにされこそ輝く。
しかし、その傷の奥から、かすかな光が消えずに残り続けてきた。
その光こそが、彼女を唯一無二の存在にしているものなのだ。
フェリーニはかつてこのようなことを言った。
「ジュリエッタがいなければ、到達することも発見することもできなかった場所が私の居場所になった」と。
この言葉は一人の映画作家が、自らの想像力の源泉を告白した言葉である。
フェリーニの映画は、ジュリエッタ・マシーナという存在を通して、
初めて魂を持つことができたのだった。
事実、彼女は彼のミューズではあったが、
しかしそれは、守られる側のミューズではなく、
むしろ彼の視線によって試され、揺さぶられ、
残酷にも映画の中に生贄として差し出される献身の姿であった。
フェリーニの視線は、常にジュリエッタを試練の中に置いた。
彼女はなぜゆえに守られなかったのか?
そして、その晒され続ける運命を生きねばならなかったのか?
いや、そのどちらも少し解釈が違っている。
そのことによって、彼女は映画の中で崇高な存在として高められ、
壊されながらも消えなかったからである。
まさに傷だらけの守護天使。
ジュリエッタもまた、フェリーニなくは輝けなかった存在なのだ。
その意味をジュリエッタは理解していた。
初のカラー作品となった『魂のジュリエッタ』は、特別な映画だ。
この映画でジュリエッタは、またもや過去の記憶、性的抑圧、
そして裏切りの幻影に取り囲まれている。
同時に、結婚制度に懐疑的だっといわれるフェリーニと
むしろその逆の立場であるジュリエッタとの距離感が
映画にも反映されている。
色彩は激しく揺らぎ、現実と幻想の境界は崩れてゆくが、
それはフェリーニ自身の混乱の投影である『8½』と同様に、
今度は彼の視線の中で生き続けてきたジュリエッタの精神の解体なのだ。
何故に、フェリーニはかくも残酷なのか?
自らの葛藤はさておくも、愛するジュリエッタを矢面に立たせるとは。
しかも映画の最後、彼女は一人になる。
だが、そこにも敗北はない。
それは、彼の幻想からの静かな離脱でもあるのだ。
だが、ジュリエッタにも、フェリーニのミューズとしての誇りがあった。
だからこそ、彼女は、損な役回りでさえ引き受けた。
彼女はフェリーニの映画の倫理そのものであり
世界が完全な虚無に堕ちることを防ぐ、最後の光を担っていた存在といえる。
フェリーニは彼女を撮ることで、自らの魂を映し出していたに違いない。
そしてわれら観客は、彼女を通してフェリーニの魂を見ていたのだ。
しかし不思議なことに、やがてその視線はフェリーニから離れ、
最後にはジュリエッタへと移っていく。
創作者ではなく、その守護なるものへと惹かれていくのだ。
彼女の存在は映画の中で、何度も失われそうになった。
しかし彼女は、映画の記憶そのものの中に永遠に残り続けてきた。
そう思えばジュリエッタの顔は、フェリーニの弱さを受け入れる顔をしている。
小柄で、大きく開かれた彼女の瞳。
いまにも壊れそうな幻影が彼女を繋ぎ止めているのだ。
時にオーバーアクション、饒舌で、
時にピエロや道化を演じ、彼女は踏ん張ろうとした。
しかし、彼女は結果として守られはしなかったし
たえず理想化され、傷つけら続けた。
それでも彼女はフェリーニに寄り添うことをやめない。
これこそはミューズというよりも天命であり、そして代償なのだ。
そしてその「寄り添い」こそが、彼女を永遠のミューズにしたてた幻影なのだ。
フェリーニは彼女を映画に刻みつけたが、
しかしその瞬間、彼女は彼のものではなくなった。
彼女は映画のものになり、そしてぼくらの記憶のものとなった。
ジェルソミーナの風に吹かれるまなざし。
カビリアの涙の枯れた微笑。
ジュリエッタの静かな震えと解放。
それらはすべて、同じ魂の異なる光を放っている。
だからこそぼくは、ジュリエッタ・マシーナを愛してやまない思いが募る。
フェリーニの世界に魅了され、称賛しながらも、
ジュリエッタが主役の作品を見るにつけ、
むしろ、その比重の大きさにおおきさに揺すぶられてしまうのだ。
彼女の存在こそが、すべての関心ごとであるかのように、
映画の中で最も深く傷つき、
そして最も静かに、永遠になった存在である彼女から
目を背けるわけにはいかなくなるのだ。
The B-52s – Juliet of the Spirits
アメリカのNewWaveバンド、The B-52’sの2008年リリースの、16年ぶりのアルバム『Funplex』には「Juliet of the Spirits」と言う曲が収録されている。その内容からも、文字通りジュリエッタ・マシーナ讃歌として、『魂のジュリエッタ』にインスパイアされた曲だ。ちなみに、ぼくはこのバンドをデビュー当時から聞いている(最初に買ったレコードが『警告! THE B-52’S来襲』というアルバムだったのだ)が、これまで、とくにフェリーニやジュリエッタ・マシーナとの関係性を意識したことがなかった。が、この曲を聴いて、彼らがいかにフェリーニ好きで、ジュリエッタラブな連中だと知ってうれしくなったものだ。
ちなみに、彼らのバンド名は、ケイト・ピアソンとシンディ・ウイルソンの特徴的な盛り上がった髪型(いわゆるビーハイブヘア)の俗称だが、候補の中に「Fellini’s Children」といった名前も上がっていたと言うぐらい、フェリーニが好きだったのだという。そのことを知って彼らへの親近感が増したのはゆうまでもない。彼らオリジナルメンバーのうち、リッキー・ウィルソン(シンディの弟)がエイズで急逝して欠損しているが、他のメンバーは新メンバーを加えて、音楽性はデビュー当時とは違ってはいるが、今なお活動を継続している。












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