勝新太郎『座頭市』をめぐって

座頭市 1989 勝新太郎
座頭市 1989 勝新太郎

呪われたのは市か映画か、それとも我々か?

勝新太郎が1989年に撮った『座頭市』。
文字通りのラスト座頭市であり、
73年、自身の勝プロで『新座頭市物語 笠間の血祭り』を撮って以来
十六年ぶりに完全復活を果たし、
勝新が最後にメガフォンをとった作品としてシリーズ最終作であると同時に、
のちに訪れる破滅と影を予告する、
奇妙に澄んだ悲劇性をも帯び、いろんな意味で呪われた映画だ。

ここには、もはや若き日の綺麗な“型”としての市はない。
いや、たしかに剣を抜くときには、その一撃は
いつものように稲妻の閃光ように冴えわたるし、
往年のギャグまがいの小ネタも満載だ。
居酒屋で、敵をバッタバッタと斬って捨てる市が
相手の鼻を居合いで抜けば、その鼻が柱に飛んでずり落ちる。
勝新してやったりのシーンだ。
とはいえ、ラストで浪人を斬り終えると諦観と無常の風の前に
消えゆくように去ってゆくあの旅芸人市がスクリーンに佇むのは、
老いをそのまま身にまとった、ひとりの男の影法師である。
そして、この老いたる市の姿こそが、
勝新自身が最後に辿り着いた“座頭市”の本当の姿、
これこそが最後だと、冬枯れの野に一人去って行く
これこそが俳優勝新太郎という人間の晩年の貌だったのだ。

座頭市とはなんだったのか?
改めて考えてみたい。
そもそも盲目でアウトローなやくざという“型”のキャラクターではあった。
元は、子母沢寛の随筆集『ふところ手帖』にある、
盲目の按摩でありながら、苛烈な剣の達人であるというだけの
わずか数ページの短編「座頭市物語」を
大いにエンターテイメントとして膨らませた創作物なのである。

人を斬りたくはないが、どうしても斬らねばならぬ宿命を持つ、
流れ者のキャラクターとして磨き上げた。
市は、作品を通し、運命のいたずらのように争いに巻き込まれ、
弱き者の側に立つことで、また新たな血を背負ってしまうのは宿命だが
そこには、正義の人でもなければ、
ただの非情な殺し屋でもない複雑な泣き笑いの世界が
終わりなき運命として広がりをもって描かれている。
だが、ひとつだけ揺らがなかったものがある。
それは、「色恋には決して深入りしない」という禁欲の美学だった。
市は女を抱かないし、欲望で身を滅ぼさないということだ。
もちろん、淡い恋慕の情はときに色を添えることはある。
それでも、市はただ、他者の悲しみをまなざしもなく受け取り、また旅へ出る。
この“色恋の封印”こそ、市の聖性であり、孤高さであり、
彼が流浪の男として世界に立つための厳しい律令があったといえる。

しかしこのラスト座頭市には、その禁欲の結界をふっと越えてしまう瞬間がある。
樋口加南子演じる“菩薩のおはん”との温泉場のシーンは、
座頭市史上かつてなかったほど官能的であり、同時に哀しいほど美しい。
湯気の中、市は彼女の気配を聞き、そっとその肌の温かさを感じ取る。
そこには欲望や興奮ではなく、
むしろ老いた者が最後に触れた“生のぬくもり”への微かな祈りを宿す見せ場だ。
この瞬間に、市は初めて“男”としてあらわになる。
そしてそれは、市を“聖なる流れ者”として作り上げてきた型を破る行為であり、
同時に、勝新太郎が自分の人生と向き合った結果、
生まれてしまった必然でもあった。

勝新はこの時六十手前の初老を迎えていた。
若き日の破天荒な才気は衰え、数々のスキャンダルや挫折を経て、
何を守ればいいのかも曖昧になった頃だ。
座頭市を生きる男=勝新太郎そのものになっていたとでもいうべく
彼はもはや“座頭市を演じる俳優”として、節目を迎えていたのだ。
この作品が特別なのは、座頭市がただ老いたのではなく、
老いた自分を映し返す“鏡”としての役者たちが周囲を固めている点だ。
とりわけ浪人を演じた盟友たる緒方拳は、
その鋭さと静けさで、市の老いを際立たせる。
緒方という怪物俳優と並ぶことで、
勝新の“かつては絶対的だった剣豪としての存在感”がほんの少し揺らぎ、
代わりに、長い人生の重みが役の背後にも色濃く漂いはじめる。
その沈黙の交わりは、若い頃には決して生まれなかった種類の緊張であり、
人生の後半でしか生まれない深みをのぞかせるのだ。
たとえば、ふたりは“色について”こんな言葉を交わす。
「赤」好きか?と尋ねる浪人。
「どんな色です?」と市は返す。
夕日、女の唇、人間の血、浪人は月並みに赤のイメージを並べる。
そして、再び酒を酌み交わした時に市の手に酒を注ぎ、
そこで、「色ってものは触ることができるんですか?」と聞く市にこういう。
「手のひらで飲む酒には情があるだろう? それが赤だと思う」と浪人は答える。
そうして「生きてるってことは嬉しいよな」と浪人は続ける。
おそらく、これまたアドリブで交わしたセリフではなかっただろうか?
役を通り越して交わる情の交わりが滲んでいたのをみても、そうにちがいない。

牢で百叩きにあった後、
海沿いにある一軒の粗末な家に住む三木のり平との再会もまた、
老境のふたりだからこその味わいがあった。
若い頃なら笑い合う二人の姿だけで終わっただろう。
だが、老いた市がのり平と向き合うと、
その空気には“懐かしさ”と“寂しさ”が人生を伴って入り混じる。
三木は寝たふりををしながら、再び旅立とうとする市に
言葉の代わりに、いびきを持ってユーモラスに答えるだけだ。
こうした演出は、おそらく、台本通りではないないだろう。
すべてはその場の空気で作られていくのが勝スタイルだ。
まだ生きて会えたこと自体が奇跡のような、
静かな時間のぬくもりを伝えるために、
長年培ってきた役者魂が勝手にそうさせるのだ。
こうした深みは、老いの身体をまとう市だからこそ生まれる。
シリーズ初期から、市が長い時間をかけ熟成させてきた温度そのものである。

勝新太郎は、こうして、座頭市というキャラクターを手塩に掛け
いわば“アウトローの理想像”として作り上げてきたといえるだろう。
盲目であるがゆえに、世界を見ずに斬る。
斬るがゆえに、世界から離れざるをえない。
この相剋のジレンマが、市の魅力であり、勝新の独断場でもあった。
しかし晩年の勝新は、このアウトロー像を維持する強靭さを徐々に失い、
代わりに、より柔らかく、より人間的な弱さをにじませるようになったといえる。

この89年版の市は、強さそのものよりも、より人間味を研ぎ澄ませ
どこか達観した陰影が深いのは流れなのだ。
その達観に至る美しさこそ、晩年の勝新太郎が辿り着いた境地だった。
市がこれまで築いてきた、細やかで、大衆を湧かせてきた“題目”
いわば数々のエピソードを、あらゆるところに忍ばせながら、
冒頭に帰れば、牢屋でみせる、生々しい生の交歓に全てが凝縮されている。
罪人たちに食事を邪魔されても、怒りを抑え、
剥き出しの石床にこぼれ落ちた味噌汁を直に啜りながら、
居合わせた幕府批判の小物鶴こと片岡鶴太郎からおこぼれを頂戴する、
そんな縁を物語の端くれにおいて、ストーリーを進める。
やがて、鶴は、賭場で再会するも、今度は市に救われ
その思いで按摩の先導となるそんなキャラクターを
物語の奔流からはずれたところにそっと忍ばせるのだ。

そして、迎える物語の終盤の圧巻の立ち振る舞い。
大樽の中に潜んだ市が、再び鋭い斬撃を見せる瞬間がある。
むろん、無敵の市が負けるはずもないが、
だが、あれは“若き日の座頭市”のように見えても
決して若返っているわけではない。
むしろ、老いの身体が一瞬だけ越境した、最後の閃光のような動きをみせる。
身体はどこか重く、息も荒い、だが負けない。
魂だけは、まだ軽く、疾走できる身のこなしをしている。
その“魂の閃光”こそ、市が、そして勝新太郎が
最後に見せた奇跡だったのかもしれない。

老境の座頭市とは、勝新太郎が自らの人生を映した鏡像であり、
同時に、長く続いたシリーズの“答え”でもあった。
そこでは、もはや型は意味を持たない。
型を破ったことで、市は初めて“人間”になれるのだと。
そして人間になったがゆえに、
もうこのあとを描くことはできない宿命を自ら背負ったかのように、
つまり89年版は、座頭市が人間に戻る過程を描いた“最終章”
そう断言できるのだ。
だからこそ、この作品以降の座頭市が存在しないことが
むしろ自然に思えてくる。
「もっと老いた市を見たかった」と願う私たちの思いは当然残る。
おそらく、本人も本心ではそう願っていただろう。
しかしその願いは、市が生き続ける余白を指し示すのではなく、
むしろ“ここで終わるべき映画を確かに見た”という感覚の裏返しでもあったのだ。

『座頭市』は、勝新が最も愛し、最も苦しみ、
結局は自らと同化させてしまったキャラクターなのはいうまでもない。
だが、彼の老境が、市の老境となり、彼の孤独が、市の孤独となり、
彼の官能が、市の官能となり、最後に彼の魂が、市の魂となった。
だから、この映画を見終えたあと胸に残るのは、
単なるシリーズの終結ではないのだ。
それは、ひとりの男が自分の人生を映画に刻んだ最後の瞬間であり、
私たちはその残り火の前に、静かに佇むほかないある種の別れだったのである。

長く続いたシリーズの総決算。
勝新最後の『座頭市』では、中身について触れる前に、
本物の日本刀(真剣)を使用したことで
その犠牲者が出てしまったという、
悲しき出来事によって、映画そのものにキズがついてしまったことに
返すがえすも残念な思いが込み上げてくるのだが、
心苦しくも、そうした事態を差し引いても、
これまで撮り続けられたシリーズのどの作品よりも
勝新の、座頭市という思いが色濃く反映され、
興行においても、それまでのシリーズにおいて
最大の観客動員と配給収入を記録した傑作になっていただけに、
勝新らしい幕切れ、集大成といえばいえなくもないが
実に複雑な思いのする『遺作』として、
こちらも妙に力のはいる思いを言葉にしている気がしている。

とはいえ、すでに長い月日が流れ
この作品でデビューした勝新の長男である奥村雄大もまた
偉大な父を追ってこの世を去ってしまっている。
もはや、その雄姿はここスクリーンにしか残ってはいない。
当然、出演の主軸の俳優たちもいない。
時代の流れは実に速い。
もう一度、あの居合を見て見たかったという思いだけが日に日に募るだけだ。
勝新が残した映画『座頭市』シリーズは計二十六作にも上る。
テレビ版は100話もある。
いろんな監督と組んで、勝新が心血注いで作り込んだ作品群。
その軌跡は色あせはしない。
では、あなたはどの座頭市が一番好きか? と尋ねられたら、
即答で、このラスト『座頭市』を挙げる。
様々な思いだけが走馬燈のように蘇ってくる。
市よ、永遠なれ。

この映画が当時大いに社会問題になったのは、殺陣のリハーサル中に、息子奥村雄大が使った日本刀がひとりの俳優加藤幸雄さんの命を奪ってしまったという大事故が発生してしまったことにある。そもそも、真剣である事を知らされずにリハをしていた現場の責任を問われても仕方が無い。この作品が映画デビューとなる奥村雄大にとっても悲劇であった。ただでさえプレッシャーなかで、いきなり十字架を背負わされてしまったその俳優人生が、以後花開くことはなかった。勝新の性質を知っていれば、真剣を使って、現場の臨場感を高めたかった意図は、わからないでもないが、映画としては常軌を逸脱しているのは明らかであった。これによって、映画は崖っぷちに立たされるが、逆に、それがあって、興業的に大いに注目され、結果的にヒットしたという曰く付きなのだ。役者バカ、映画バカたるのも勝新の魅力のひとつだが、ここまでくると救いようがない。完成の陽の目を見たことは映画の神様のせめてもの計らいだったのだろう。その一年後、今度は芸能ニュースを賑わせたのが、マリファナとコカインをパンツの中に隠し持っていたあの事件である。麻薬密輸入の容疑で逮捕され、晩節を汚してしまったのは返す返すも残念な出来事であった。

座頭市の子守唄:勝新太郎

勝新は三味線もうまかったが、なんといっても歌が上手かった。いろいろレパートリーがあるなかで、この「座頭市の子守唄」がもっとも、勝新らしく、そして、座頭市を讃えるに相応しい曲だと思う。たまたま、ステージの生歌バージョンがあったので、こちらを取り上げておこう。マカロニウエスタン調の躍動感があり、どこかスコット・ウォーカーがカバーしたジャック・ブレルの「ジャッキー」をも彷彿させる。なんといっても間奏での台詞が泣かせる。「斬っちゃならねえ人を斬っちまったときにゃ、目先が真っ暗になっちまう。ははは、目先は端から真っ暗だよ」。この名調子あっての勝新、それこそが座頭市なのだ。