ヴィルヘルム・ハマスホイをめぐって

《室内──開いた扉、ストランゲーゼ30番地》ヴィルヘルム・ハマスホイ
《室内──開いた扉、ストランゲーゼ30番地》ヴィルヘルム・ハマスホイ

空白の聖域

北欧のフェルメールなどと、なんとも安易な形容が付いてはいるが
その絵を見つめていると、あながち、的外れでもないなと思えてくる。
デンマークの画家ヴィルヘルム・ハマスホイの室内画に惹かれている。
その静謐さ、ミニマリズムはもちろん
その内向性ゆえの思いを秘めた気配に、
なにか、そそられるものがあるからだろうか?

それは冬がはじまり、空の光が薄い乳白に変わるころの
世界の輪郭が静かに後退し、
音はゆっくり沈黙へ吸い込まれてゆく瞬間の神秘そのものである。
壁は灰色に沈み、扉はぽつりと開かれ、人物は背を向け、
もしくは誰一人として姿を見せはしない。
しかし、その空虚には、奇妙なほど濃密な“気配”が宿っているのだ。
ハマスホイの絵を前にすると、観る者はいつも同じ問いを抱くにちがいない。
いったい、この静けさの奥に何が潜んでいるのかと。

ハマスホイの静謐は、単なる写実やミニマリズムでは片付けられない。
それは、デンマーク絵画の“黄金時代”の基調エカースベルクに始まる
「清澄なリアリズム」を基盤にしつつも、
その清潔な写生の技術からさらに深い場所へ潜っている。
光の透明度、色彩の減算、装飾の排除。
こうした写実のむこう側で、彼は世界を“痕跡の状態”へと導いてくれるのだ。
ハマスホイの絵に漂うただならぬ沈黙は、
見えているものよりも、むしろ 存在が消えた後”の空気 の仕業かもしれない。

この“残響の空気”を、ハマスホイがどこで見出したのか?
それは古い建物、すでに時間がしみ込んだ部屋の中である。
彼が長年暮らしたストランゲーゼ30番地の部屋は、
18世紀の厚い壁と、深い窓枠と、軋む床を持つ古い住居だったという。
ハマスホイはこの空間にただならぬ愛着を抱き、
何度も何度も同じ部屋を描き続けた。
まるで、室内そのものが魂を持った存在であるかのように。

場所へのこだわり、空間への執着。
古い家には、時間が層となって積もっているが
誰かが歩き、笑い、ひそやかに語った声の残り香が、
壁や床にうっすらと染みついているのかもしれない。
しかし、ハマスホイの絵にはみごとに人影がない。
あるいは人物が描かれていても、背を向けているのだ。
その不在、あるいは半不在こそ、彼が愛してやまない“気配”の源泉を見る。

ハマスホイが見ていたのは、印象派たちが試みた時間の推移そのものではなく、
時間が去った後に残る、薄明の静けさなのだ。
生活の痕跡をわざと消したかのような部屋。
だが、完全に空虚というわけではなく、
どこかに、かつて存在した温度の記憶が漂わせている。
ハマスホイはその微弱な“残り香”に魅せられていたにちがいないのである。
ゆえに、古い部屋は祈りの場ではなく、
むしろ 祈りが消えた後に現れる空白の聖域だったに違いあるまい。

この静謐には、ベルギー象徴主義の画家、
とくにグザヴィエ・メルリの霊妙な描写との近さを感じうる。
メルリは日常の部屋の中に“気配としての霊性”を滲ませたが、
ハマスホイはそこからさらに象徴色を取り除き、
霊性の“純粋な薄膜” だけを残したのだ。
エカースベルクの清潔な写実、そしてホイッスラーの音楽的な色彩、
そしてメルリの静謐な象徴性。
それらが沈殿し、濾過され、限界まで薄められたとき、
初めてハマスホイの部屋に命が吹き込まれるのを感じれば
手始めに、ハマスホイの心の中を覗きこんだ気分に浸れるのだ。

だが、その静けさには宗教的な象徴がまったく描かれない。
十字架も、祈りの姿勢も、天使も存在しない。
しかし、不思議と宗教画以上に“世界への畏敬”があるのはわかる。
それは、宗教を経ない霊性であり、
すなわち “無宗教の霊性” と呼ぶべきものでないだろうか?
光が壁に淡く触れる、その瞬間にだけ現れるやわらかな神秘。
誰もいない部屋の中で、世界が自ら沈黙しているような気配。
祈りが消えた後に残る静かな余韻というべきもの。
その余韻を描くことが、彼の精神の中心にあったのだと推測する。

だからこの“静けさ”は、生の気配を遮断する死の沈黙ではなく、
むしろ “これから記憶が染みついていくための空の地層” のような佇まいであり、
部屋は何も語らないが、語られなかったことの広さを誇っているのも納得できる。
生活の痕跡は消えていても、
存在が触れた空気の皺だけが、静かに呼吸しているのだ。
この“呼吸している空白”こそが、
ハマスホイの絵がときに神秘的な身体性を獲得する理由であろう。

扉が少しだけ開いているというモチーフも、
その空白の深度を示す仕掛けだ。
扉の向こう側には何も描かれない。
しかし、その“何もないこと”の深さが観る者を吸い込む。
扉は内と外、現実と記憶、生と不在の境界を示す。
そして、ハマスホイが描く扉はいつも、
世界そのものがわずかに開いているように見える仕掛けとして
一枚の絵画をどこまでもミステリーな絵として焚き付ける。
つまり暗示だ。
しかも、そこに踏み込むように促すのではなく、
むしろ「こちらへは来ないほうがいい」という、
静かな、しかし確かな距離感を保ちながら。
その距離感が、彼の絵に漂う不可思議な“透明な緊張”を生んでいるといえる。

では、ハマスホイ自身はその部屋で何を見ていたのか。
ズバリ核心の部分に進もう。
ぼくにはこうみえる。
彼は“存在が世界から薄れていく瞬間”を見ていたのだと。
光が壁に触れたときの微かな振動。
人が立ち去った後の埃の静かな舞い。
生活が消えていく直前の、沈黙のつらなり。
それは死でも、記憶でもなく、
両者の手前で揺らめく“薄明の気配”だったのであり、
なにより、ひととの交わりを避けた内向性の安定を保つ為の必然として。

ハマスホイが描いたものは、沈黙そのものではなく、
無論、霊的なものの類でもなかったはずだ。
沈黙が生まれる直前の、世界の“静かな息遣い”である。
そこにこそ、彼の絵が持つ魔性の静謐だ。
それは観る者の内部にひそやかに入り込み、
自分自身の内なる沈黙とも重なりあってくる。
世界はこんなにも静かで、そして、こんなにも深く息をしているのかと。

ハマスホイの室内画は、静謐を描くだけでなく、
静謐が宿る“境界”そのものを終始描いている。
その境界に触れた瞬間、私たちは時間の呼吸を聴き、
不在の手触りを感じ、部屋の光の奥に自らの影を探すのだ。
彼の絵は、世界が沈黙に変わる一瞬を永遠に封じ込めた
まさに“薄明の聖域”なのである。

ハマスホイの正式な名前の発音は、デンマーク語の正式な発音に近づけると、実は「ハマスホイ」よりも「ハマショイ」に近い音が正しい。『ハマショイ』に近い発音」と書くと、ちょっと粋な響きに思えるが、ここは、日本での通称「ハマスホイ」に統一しておく。ちなみに松浦寿輝の小説『半島』の装丁に使用された際にはハメルショイと表記されている。

Serotonin (Burnt Friedman Remix) · Nine Horses

ハマスホイの絵画にぴったり合うかどうかはわからないが、少なくとも、北欧的なイメージが漂うエレクトロニカユニット、デヴィッド・シルヴィアン、スティーヴ・ヤンセン、バーント・フリードマンによるコラボレーション・バンド、ナイン・ホーセズの『Snow Borne Sorrow』から「Serotonin」という曲を届けよう。一体何が歌われているのかを説明できるような曲ではないが、シルヴィアンの内的景色が、ベルイマン映画の神との対話のような自問が歌われている。セロトニンとは、一般的には「幸せホルモン」とも呼ばれ、精神の安定と、気分の調整には欠かせない重要な役割を担う脳内の神経伝達物質のことである。シルヴィアンのソロほどに、実験性は控えめで、聴きやすいスローテンポなエレクトロニカ風の楽曲が中心に占められているが、これはバーント・フリードマンによるテイストの反映ではないかと思われ、ここではアルバムバージョンではなく、フリードマンRIMIXバージョンをあえて選んでみた。