ジェネラティヴ、何がでるかな?
ブライアン・イーノのドキュメンタリー『Eno』
この映画の宣伝句は“毎回ちがう”だ。
Brain One(ブライアンとかけてる?)という自動編集システムが、
二度と同じ並びにならない映像を繰り出すという。
仕掛けとしては見事だし、確かに斬新だ。
ぼくはこの“何がでるかな?”に釣られて映画館へ向かったのである。
けれど、いざスクリーンの前に座ると、掴んだ核はそこではなかった。
変わるのは編集、変わらないのはイーノ本人の場の力。
笑う時の目尻、言い淀みの間合い、機材に手を伸ばす前の気配。
その生の温度が、編集の妙よりも長く残った。
イーノがどういう軌跡を歩んだかは、とうに周知の通りだし、
調べればわかる。
ロキシー・ミュージックでの鮮烈な登場、
テープとシンセで環境を作曲するアンビエントの提唱、
ボウイ、トーキングヘッズ、U2などへのプロデュース、
そして近年の視覚作品たち。
列挙は容易いが、ぼくが映画で確かめたかったのは
栄光の索引ではなく、イーノ自身の声だ。
実際、上映ごとに素材の順序は変わっても
“ご機嫌の設計者”としての現在形は揺るがない。
そこに僕は安心する。
神話は本の中で眠っていればよい。
僕が知りたいのは、今この瞬間にイーノがどんな顔で暮らし、
どう手を動かしているか、だ。
この関心には個人的な思いが強い。
中学生の頃、宅録の粗い実験に目覚め、楽器の熟練よりも先に耳を開いた。
楽器が弾けなくても音楽は作れるという、このイーノの方法論は、
弱さを免罪するための方便ではなく、
やり方そのものの更新として、当時の僕のガイド、つまりは師だった。
ミュージシャンとしての訓練とは別に、つまり素材そのものを拾い上げ、
配置や関係を見るまなざしの大切さ。
録る/切る/並べるという編集の連続が、演奏に置き換わる感覚の魔術。
映画で目にするイーノの手つきは、その置換を何度でも思い出させる。
『Eno』のジェネレイティヴな形式は、偶然を放り出すための免罪符ではない。
小さなルールを先に置き、偶然を招き入れ、結果を引き受けるための器だ。
オブリーク・ストラテジーズのカードを一枚だけ引いて“従ってみる”ように、
編集の段組が“斜めの視線”を差し込んでくる。
つまり、発見を確率論ではなく、手続きとして呼び込む設計である。
その形式には、素直にうなづくことができる。
だが最後に残るのは、やはり人が導く磁力だという方が正しい。
イーノが目の前に現れると、ランダムな見世物は背景に退き、
問いの気圧だけが場を支配することに気付かされる。
このアーカイブが五百時間もあるのか、という驚き。
その“いまの顔”は、老いによってもいっこうに曇ってはいない。
むしろ、老いは倍音として響きを豊かにしているように見える。
速度を競わず、生活と創作の歩幅を揃える。
たとえば、そこにあるPC、窓辺の光、マグカップ、読書、あるいは庭など
そうした生活の粒子が、そのまま作品のソースになることを証明する。
映画は礼儀正しい距離でそれを提示していた。
最前線とは、なにも若さの別名ではなく、
生活と創作が同じテンポで歩ける地点のことだ。
この定義の更新は、観客のこちら側で静かにじわじわ効いてくる。
そんな知的なうなづきが続く。
一方で、時折、カメラがあと半歩だけ踏み込んでくれたら、と思った。
汗の温度、ため息の湿り気、黙り込んだ十数秒の真空、
そうした触れられる生をもっと受け取りたかったなと。
これが映画の限界である。
しかし、この礼儀正しさが、観客に補筆の余白を残すのも事実だ。
家に帰って、僕は周りを改めて見渡した。
机を壁から数センチ離し、椅子の高さを調節してみた。
ミックスをやり直すようなことではない。
場のチューニングを変えたのだ。
そうするだけでキーをタッピングする音も音楽に聞こえてくる。
『Eno』の良さは、スクリーン内の情報量ではなく、
スクリーン外の観たものの姿勢を
勝手に微調整するところにあるのかもしれない、そう思ったのだ。
イーノが一貫して示すのは、結果よりやり方だ。
議論よりもまずは好奇心である。
スタジオを楽器に見立て、
編集を演奏に、配置を和声に、無音を音色に読み替える。
機械任せのループは牢獄を意味しない。
まず、長さを0.01だけずらせば、心の窓があき
パンは単なる左右ではなく、物語の視点となる。
失敗は美味しい素材。
三度同じ場所でつまずいたら、そこに“段差”という名前を与え、
作品の地形にでもしてしまえばいいのだ。
まさにオブリーク・ストラテジーズ的発想だ。
こうして見ると、ジェネレイティヴ映画という形式は、
イーノの手つきの翻訳であり、観客として、
その翻訳を自分の生活に再翻訳して持ち帰ることになるはずだ。
それにしても、チケットを買う段階で少し躊躇したのは事実だ。
通常の映画のほぼ倍の料金もとる。
たかが映画じゃないか、と心の声は毒づく。
けれど、終わってみれば
「いやはや、これは授業料だったのだ」と合点がいくのだ。
講義室の端に腰かけ、偉業の年表ではなく、
日常という黒板にチョークで書きつけられる文字を読む時間。
先生はイーノで、科目名は“按配学”とでもいっておこう。
そう思えば、この特別料金にも説明がつく。
なんども観たくなる快楽をくすぐられるのは少し癪だが
してやられたり、だが、気持ちよくやられている。
僕はこの映画を“講義”だと書いたが、
それは賞賛と同時に、批評のベクトルでもある。
講義は一方通行になりやすい。
だからこそ、ランダム編集という往復運動が必要になるのだろう。
毎回ちがう並びで、観客の側に共著者としての責任を配る。
受け取った素材で、自分の生活へと再コンパイルするのは、
こちらの課題だからだ。
映画の外で結果が出る、そんな作品は多くない。
次に観るときのために、自分用の観察メモも残しておこう。
①手:摘まむ/置く/離すのテンポ。
②間:言葉のあとに残る呼吸の秒数。
③笑い:誰に向けて笑うか(自分か、相手か、状況か)。
④空間:光の質、生活の散らかり具合。
⑤転調:真面目から遊びへ滑る瞬間。
この五つだけ拾えば、バージョンが違っても芯は同じ場所に戻ってくるはずだ。
どうやら、ぼくは映画のなかの人物の観察者として躍起になっている。
最後に、ジェネレイティヴの“倫理”に少しだけ触れておきたい。
偶然を導入することは、真実を軽んじることではない。
むしろ、複数の真実を正面から受け入れ、
どの配置でも立ち上がる“態度”を探す営みだ。
イーノの仕事に首尾一貫しているのは、超然とした天才の神話ではなく、
よくできた手順と観察眼だろう。
だから観客は、神秘を奪われるかわりに再現可能な魔法を手に入れる。
これが『Eno』の最良の贈り物だと思う。
僕はそれを棚ではなく、脳に書き込む。
イーノの経歴についても一息で触れておこう。
父は郵便配達夫、少年期にドゥーワップで音に目覚め、
アートスクールで“見る力”を養い、ロキシー・ミュージックで世に出て
のちにアンビエントの旗を掲げ、Windows 95の起動音まで手掛ける。
ボウイらとの共作で大規模な関係の作曲に挑み、
現在は音と光のインスタレーションへと領域を拡張した。
神話としての履歴はこれで足りる。
だが、本作が美しいのは、こうした列挙を“背景”へ押しやり、
今日の生活の高さでイーノを描いたところにある。
こうしてぼくは観客席で、講義室の端の聴衆になり切ったと報告できる。
スクリーンのマスターのユーモアは乾いていない。
年齢は音域を削らないのも知った。
むしろ、ノイズをふるい落として残る“よい状態”を増幅する。
映画が終わるころ、ぼくの耳の通りがさらに良くなり、
心はコンマ単位でどちらかに寄った気がした。
なんてささやかな変化だろう。
けれど、創作においてはささやかさがいちばん遠くへ届く。
では、明日へ何を持ち帰るか、以下三つに絞ってみよう。
第一に、編集は演奏だ。
録る・切る・並べるの判断が、指の速さに勝る。
第二に、配置は和声となり、パンと奥行きで物語が立ち上がる。
第三に、機嫌は楽器を兼ねる。
つまり、作り手の状態が音の重力を変えるのだ。
これらはどれも、機材リストには書かれないが、毎日使える道具だ。
映画代の元を取る一番の方法は、これらを習慣に変えることだろうか。
最後にもう一度、合言葉を。
成果より機嫌、技巧より配置。
スクリーンの外で効くのは、いつだってこの二語だ。
椅子を一段下げ、パンを少し振り、無音をひとつ置く。
たったそれだけで、部屋(心)というオーケストラは指揮を待っている。
『Eno』は、遠い星の神話を増やす映画ではない。
あなたの自身の天気図をよくする映画なのである。
※イーノに関しては、かつてこちらに記事を書いた。→「ブライアン・イーノに寄せて」
Brian Eno & Roger Eno – By This River (Live at The Acropolis)
プロデュース作品を含めて、その膨大ある中からイーノの一曲を選ぶのは難しい。が、個人的には、70年代のイーノがボーカルをとる楽曲が好きなのと、
僕が見た『ENO』の中でも再生されていた、『Before And After Science』からの中の名曲「By This River」を、ギリシャのアクロポリスでのライブバージョンでおどどけしよう。
この曲には共作者としてクラフト/アンビエントの名デュオ=Cluster(ハンス=ヨアヒム・ローデリウス、ディーター・メビウス)がクレジットされているように、ちょうど、イーノ自身が『Cluster & Eno』や『After The Heat』という共作群と並走する時期で、Conny Plankのスタジオやフォルストの“川の家”が創作の舞台になっている。ローデリウスは「フォルストの家は川のすぐそばで、その光景からイーノが曲のアイデアを得た」と語っている。曲自体はピアノの反復(短い分散和音)の上に、詩的抒情を帯びたイーノの優しい歌と“アンビエント以後”の美学を踏まえた、場の気圧を整える音楽の気配がボーカル曲のフォーマットとして実装されている。
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