解剖するは我にあり
ある日、一人の男が屋根から落ちた。
それは事故か、自殺か、それとも殺人か?
雪に沈んだ身体のまわりで、誰もが真実を求め語り出す。
だが、肝心の真実は沈黙したままだ。
そこに『落下の解剖学』における他者理解の臨界点が見えてくる。
ジュスティーヌ・トリエが描く『落下の解剖学』では、
ひとつの死をめぐる推理劇であると同時に、
理解しえぬ「他者」という迷宮の、果てなき歩行が映し出されてゆく。
雪山の山荘でのサスペンス、といえば
どこかキューブリックの『シャイニング』のような恐ろしい惨劇を想起したが
そんなタイプの映画ではない。
それこそ、通常夫婦とは、家族とは?
その手の話になれば、他人がとやかくいう話でないのだが
ここでは、それぞれ、妻側、夫側の立場で事情は変わってくる。
いわゆる作家である同業者夫婦のあり方を持ち出し、
その夫婦間格差のいざこざを巡る法廷劇という態の映画にはなっているが
話はそう単純なものではない。
そのあたり、決して短いとはいえない約二時間半、
実によくねられた脚本に、グイグイ引きこまれてしまった。
フランスの山荘に暮らすベストセラー作家サンドラは、
夫サミュエルの転落死をきっかけに殺人容疑で起訴される。
だが映画が解剖していくのは死因の真相ではなく、夫婦の関係そのもの。
そして、その解剖台に乗せられるのは、
言葉、記憶、沈黙、そして“他者の内側”である。
サンドラはドイツ人、審理はフランス語、
傍らには視覚障害をもつ息子ダニエルがいる。
彼女が異邦人として法廷に立つという構造には、
すでに「語ること」と「理解されること」の深い断絶が刻まれている。
言葉に巧みであることは、しばしば懐疑を生む原因にもなりうる。
サンドラは作家であり、語りの技術を持つがゆえに、
その語りが信頼されず、むしろ「演技」として扱われる。
彼女は法廷という劇場のなかで、“語り手”として裁かれることになるのだ。
裁かれているのは、その殺意ではない。
その冷静さ、その知性、その沈黙、母性の不完全さ。
そして彼女が「完璧な被害者像」ではないということだ。
法廷は、感情をも含めてそれを証拠とみなす。
その意味で本作は、言葉そのものの暴力性と、
語られたものが、はたして第三者にどのように受け取られるか?
という政治性を可視化する装置でもあるのだ。
本作においてとりわけ印象的なのは、
視覚障害を持つ息子ダニエルの存在である。
文字通り、見えないことと真実の不透明性のメタファーとして存在する。
彼は実際、父の死の瞬間を見てはいない。
だが、両親の争いの声を聞いていた。
音声録音という記録が、彼にとっての「証拠」となり、
同時にその解釈は、彼の倫理観や感情に左右されることになる。
彼の「耳の記憶」は、サンドラの「口の記憶」と拮抗しながら、
裁判の重心を揺らしてゆく。
このズレこそが、本作の最も深い問いにつながるのだが、
すなわち、人は本当に、他者の内奥を知りうるのか? という問いだ。
こうした他者理解の困難と、会話の解体劇は、
ジュスティーヌ・トリエが本作で強く意識したという、
イングマール・ベルイマンのテレビドラマ『ある結婚の風景』と響きあう。
ベルイマンが描いたのは、愛し合いながらもすれ違い、
やがて離婚に至るひと組の夫婦の姿だった。
最初は仲睦まじいユーハンとマリアンの関係性が
次第におかしくなってゆく過程を、6章にわたり描いた心理劇の金字塔だ。
その言葉と沈黙の応酬は、法廷という舞台を必要としなくても、
十分に「裁判的」だった。
夫婦が交わす会話は、しばしば弁論のように相手を糾弾し、
証拠を持ち出し、反証し合う。
沈黙すれば「感情がない」と言われ、
感情的になれば「非論理的」と退けられる。
これはまさに、『落下の解剖学』において
サンドラが晒された構造と一致する。
ベルイマンが暴いたのは、愛の中に潜む言語の限界であり、
トリエはそれを、より制度的で冷徹な“裁判”という場に変換した。
そしてサンドラは、その法廷のなかで、
愛の終わりと他者性の淵に立たされることになる。
裁判の場で、すべての感情が“証拠”に変わるとき、
言葉は人を助けもするが、傷つけもすることが晒される。
そして、「わからなさ」こそが、真実のもっとも深い核であることを、
ぼくらもまた、無責任な傍観者として、目の当たりにすることになるのだ。
結末において、サンドラが無罪か有罪かは、実のところ本質ではない。
重要なのは、彼女と息子が再び“共にある”という地点にたどり着いたことだ。
それは赦しでも勝利でもない。
むしろ、「理解しえぬものと共に生きる」という、
現代における新しい共存のかたちなのかもしれない。
つまるところ、この映画が秀逸なのは、
一種の現代的な“哲学スリラー”として
「我々は他者の真実にどこまで踏み込めるのか?」という
冷徹な検証でもある点だと思えてくる。
ここで、改めて問おう。
『落下の解剖学』で解剖されたのは、はたして死の原因なのか?
そう、解剖されたのは、理解という名の幻想だったのかもしれないのだと。
夫婦という関係の限界がそこにさらされ、
ベルイマンが見せた『ある結婚の風景』を引き継ぐ答えとして、
トリエはひとつの“落下”という単語を巧みに置いたのだ。
この落下という不可逆的な運動が「死」と「崩壊」、
ひいては関係性の終焉を象徴する映画において、
愛というものが、理解を越えた先にも残る何かだとすれば、
沈黙と共在の風景込みの虚像だったのかもしれないのだと。
ちなみに、この映画でスヌープ役を演じた犬、
メッシくんについても触れておきたい。
アルゼンチンのサッカー選手リオネル・メッシから名付けられというこの犬、
ダニエルの盲児のガイド犬として、このトリエの人間ドラマに
“息”を吹き込む大役を演じ、
演技力・表現力・現場適応力を兼ね備えた“犬の俳優”として、
観るものを唸らせた名犬だ。
とりわけ、痛々しい“麻薬誤飲”シーンでは、
2か月ものトレーニングを費やしたのだという。
だからこそ、多くの観客の心を掴み、
カンヌ国際映画祭は、“Palm Dog”賞、犬の演技に贈られる
栄誉ある特別賞を獲得し人気者になったというわけである。
Danielle Dax – Bed Caves
「解剖学」という言葉の響きだけで、思い浮かべたのがこの曲。なぜここにダニエル・ダックスなのか、といわれると、この曲「Bed Caves」が一曲目に収録された『POP-EYES』のアルバムジャケットに由来するのだが、ひさしぶりに、そのアルバムを引っ張ってきて聴いてみたが、やはりジャケットワークはそのグロテスクさの前に、思わず、立ち止まってしまうようなインパクトがあり、そのイメージはここでは控えた。もちろん、このアルバムは実験的ポストパンク/アヴァンポップで、中毒性あるミニマル&サイケデリックな音響の詰まった80年代的なNWの洗礼を浴びた曲作りで、今聞いても面白い。実際、僕はこのレコードを買ったし、今も所有している。オリジナル・ジャケットは、彼女自身による“Meat Harvest”シリーズのコラージュで、人間の臓器などショッキングなイメージが使われ、業界関係者を仰天させたとの逸話が残っている。あまりに過激なため、その後Holly Warburtonによる肖像画風カヴァーへ差し替えられリイシューされている。
ダニエル・ダックスは前身バンドのLemon Kittensでキーボード、フルート、サックスを担当し、このアルバムでも作詞・作曲・録音はもちろん、ギター、ドラム、ベース、フルート、サックス、トランペット、ドローン、そしてTR‑808や玩具など、すべて自身で演奏・プロデュースした才女だが、ちょっと早すぎたきらいもある。今なお、音楽活動は継続中だが、どちらかといえば、アート活動の方が活発で、その両輪で静かに活動を続けている。新しい音も聴いてみたいな。
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