うろんなぼくが違和感と共に暮らす術を学ぶまで
胡乱とは、つまりは胡散臭いこと、あるいは不確かなこと。
この「うろん」という言葉を、ぼくがはじめて意識したのが
このエドワード・ゴーリーによる絵本『うろんな客』だったこともあり
以後、ぼくはすっかりこの言葉とゴーリーファンになっていた。
小さな絵本を手にした時、描かれた奇妙な生き物は、
鳥ともペンギンともつかず、スカーフを巻いて妙にキリッとしていた。
そう、『うろんな客』との出会いは、なんたって唐突なのだ。
ページをめくるたび、彼(それ?)は不意打ちのように居座り、
すっと私の内側に住み始めた。
はっきりいって、子供に勧める絵本というよりも
どこか大人になりきれない大人に向けて、
こんな本もあるよ、っていって差し出したい絵本だ。
エドワード・ゴーリーという作家を知るには、
いくつかの窓口があると思う。
『ギャシュリークラムのちびっ子たち』のようなブラックユーモア、
バレエや吸血鬼趣味、ヴィクトリア朝調の仄暗い空気。
しかし、ぼくにとってその扉は、やはり、この『うろんな客』だったのだ。
物語はいたってシンプルだ。
ある日、どこからともなくやってきた謎の生物が、
ある一家の屋敷に住みつく。
追い出されることもなく、理解されることもなく、
彼(?)は17年間その家で過ごしている。それだけだ。
けれど、その”それだけ”の背後には、見過ごしがたい風通しの良さと、
薄暗い諧謔が潜んでいる。
なんというか、人生というものの厄介さの象徴が、
妙に愛らしいスカーフを巻いて、そこにひょっこり佇んでいるのだ。
今回、 渋谷区立松濤美術館での展覧会
「エドワード・ゴーリーを巡る旅」を訪れたとき、
ぼくは再びこの『うろんな客』と向き合った。
原画の細部、インクの濃淡、余白の絶妙な塩梅。
静かな線の連なりが、そこに確かに“違和感”を刻みつけていた。
そこにゴーリーの息遣いを感じてより親近感が湧いた。
世界の端にぽつりと忍び込んできたそれは、
不穏というにはどこか可愛らしく、
無害というにはあまりに飄々としていたように思う。
この展覧会は、ゴーリー終焉の地であるケープコッドの
“ゴーリーハウス”で企画されてきた展示を、5つのテーマに再構成し、
約250点の作品を展開した企画展で、全国を巡回するというから
ゴーリーファンにはたまらない展示だ。
第Ⅰ章:ゴーリーと子供
幼少期の手描きドローイング(5歳のひよこ、13歳の骸骨の手など)や、
『不幸な子供』『うろんな客』の原画を通じて、
楽園とはかけ離れた、凄惨さと虚無をまとった“子供たち”の存在感に始まる。
第Ⅱ章:不思議な生き物
ここでは“フィグバッシュ”“スクランプ”など、
鳥のようであり人のようでもあるキャラクターたちが、原画やスケッチで登場。
ユーモアあり、どこか陰のある存在感が、異界をリアルに呼び込む仕掛けへ。
第Ⅲ章:舞台芸術(舞台美術・衣装)
そして、1977年『ドラキュラ』トニー賞受賞作品も展示され
ここではゴーリーの、バレエへの愛を如実に示す、
舞台デザインや衣装スケッチ、ポスター原画の展示。
第Ⅳ章:ゴーリーの本作り
『ギャシュリークラムのちびっ子たち』『ドラキュラ・トイシアター』など
自著の絵本の原画や草稿に焦点を当て、制作過程を見るように
テキストと線の関係性を視覚的に味わえるコーナーへと進む。
第Ⅴ章:ケープコッドとクジラの版画
最後はゴーリーが住んだ地元のコミュニティとの関わり、
そして象徴的な動物モチーフを扱った版画や生活の痕跡を伝える
ドキュメンタリー映像もあり、
彼の人生の“居場所”に寄り添う章でし締めくくられていた。
この展覧会で出会うゴーリー像の一面は、かように極めて多面的だ。
まず彼の原画に漂うクラシカルな品位と、線描の緻密さ。
その一方で、死や不条理、孤独といった主題を、
絵本という軽やかな形式にすり込んでくる手腕。
そして、動物のような、幽霊のようなキャラクターたちが登場するたび、
笑っていいのか、凍りつくべきか、こちらの感情もまた
猫のようにように反応してふわりと浮遊する。
文学的で、演劇的で、どこか内省的。
そんなゴーリーの魅力が、5章構成の展示空間のなかでじわじわと滲んでくる。
とりわけ、バレエや舞台美術への情熱、地元ケープコッドでの穏やかな暮らしなど、
単なる”奇人”ではない、多面的な人間像に触れられたことは大きい。
考えてみれば、この”うろんな客”は、私たちの生活にもずっといるし、
それは風邪のようにやってきた、ある種の不安心理かもしれないし、
拭いきれぬ違和感かもしれない。
あるいは、創作の端っこでピョコピョコ跳ねている
得体の知れない着想そのものかもしれない。
かつて僕自身は、こうした異物感に対して距離を取り、排除し、
いくども整えようと躍起になっていたこともある。
でも、ゴーリーはちょっと違った。
彼はそれを描き、そのまま受け入れる。
そしてそれを作品に昇華した。
彼は、そんな感覚を笑い、ひやりとし、
そっと撫でるようにページに封じ込めてしまうのだが、
表面はなにやら重い空気を押し込めているようにも見えて、
実情はそうでもない。
そう、そうした感覚を、
たしか、それをベルギーの作家トゥーサンのいくつかの本で味わったし
古くはカフカの短編「オドラデク」や
宮沢賢治の「クラムボン」なんかにも思いを馳せることもできる。
そして、それが決して”解決”されないということが、なにより重要なポイントだ。
『うろんな客』に結末はない。
誰も何も変わらず、客は今日も屋敷の中をウロウロしている。
これほど潔い寓話があるだろうか?
展覧会で見たスケッチや習作の中には、ゴーリーが5歳で描いたひよこの絵、
あるいは13歳で描いた骸骨の手などもあった。
これはまさに、13歳で猫の絵「ミツ」を描いたバルチュスにも通じる、
永遠の少年性のような手触りが感じられたのだ。
そこには既に、彼独特の“死とユーモア”の種子が芽吹いているように思えた。
たぶん彼にとって、世界はずっと”うろんな”ものだったのだ。
だからこそ、彼はそれを愛し、描き続けたに違いない。
ぼくは今、机の端に小さなフィギュアを置いている。
もちろん、スカーフを巻いた例の彼である。
創作に行き詰まったとき、不安で眠れない夜、
意味のないことばかり考えてしまう午後。
ふと彼を見ると、にらみつけられているような、
でも見守られているような、なんとも言えない気持ちになる。
ゴーリーの魅力って、そんなところにあるのだと思う。
いうなれば、心の友達。
これは違和感と共に暮らす術としては有効だ。
異物を敵とせず、ただ“そこにあるもの”として迎え入れるまなざし。
そして、それを飄々と描いてみせる洒脱さ。
『うろんな客』は、ぼくにとって、人生の一部を成す寓話になった。
それはきっと、今日もどこかの家にふらりと入って、
そこにじっと座っているはずだ。
そしていつの日か、だれかのページにも、
そっと忍び込むかもしれない。
KLIMPEREI : FIND TWISTS
1985年にリヨンで結成されたフランスのクリンペライは、当初フランソワーズ・ルフェーブルと、現在唯一の継続メンバーである クリストフ・ペチャナッツの二人組だったが、2002年以降はクリストフがソロ体制で活動。2007年以降は、Klimperei et ses amisとして、即興で室内楽的な演奏も披露している。いわゆるジャンルは「トイ・ミュージック」だが、小さな玩具のピアノ、フルート、メロトロン、スクラップギターなど、即興で作られた“おもちゃ”たちが奏でる、実験的かつミニマルで叙情的なチャプターのようなラブリーな音楽を奏でる。こちら「Petites pièces indélicates – 気の利かない小品集」は、2012年に発表された、そのタイトルからもエリック・サティ的なポエジックな佇まいを基底に、冷ややかさの奥に愛しさが香る、慈しむような音の集積になっている。
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