ヒルマ・アフ・クリント展「The Beyond」のあとに

東京国立近代美術館 ヒルマ・アフ・クリント展「The Beyond」
東京国立近代美術館 ヒルマ・アフ・クリント展「The Beyond」

恒例の彼方からの啓示

根拠がなくとも、疑いなく信じる魂の導き。
それはどこでもない、だれのものでもない。
ただ自分の心の中でのみで起こることなのだ。
そんなおり、20世紀初頭に活動したスウェーデンの女性画家
ヒルマ・アフ・クリントの展覧会に足を運んだ。
文字通り、なにかに導かれるようにやってきて、その絵と出会ったのである。
我々の前に、100年遅れでやってきたというのに、
なぜかモダニズムの洗礼を浴びるかのような不思議な新鮮さ。
およそ、この世の時間感覚では推し量れない奥行きがある。
館内を目一杯に使う巨大なタブローの展示から、
身近で、どこかで発見したような資料のような絵、図まで、
その絵のレンジは実に様々で、魅力的に思えた。
彼女が抽象的な絵を描き始めたのは1906年。
これは一般に抽象絵画の父とされるカンディンスキーよりも数年早い。
けれどヒルマは、死後20年もの間、作品を公開しないよう言い残したという。
作品を世に出すことを望まなかったのは、
それが”時代の理解を超えている”ことを、どこかで深く悟っていたのだと思う。
彼女の絵の動機がそこからも読み取れる。

彼女は、交霊会のグループ”De Fem(五人組)”に所属し、
霊的な存在からの指示を受けて作品を描いていたというのである。
通りで、この世のものと思えないハーモニーを感じ取ることができた。
これは、どこかシュルレアリスムのオートマティスムをも想起させるが、
彼女の画風から漂う世界は、けして、夢や秩序の破壊などではない。
パステル調の色使いにフェミニンな感性を感じはするが
どれも魂の憑依であり、内なる声の表出だ。
だが、それを単なるオカルティズムや一種の信仰的行為として片づけることは、
ヒルマの絵画の本質を見落とすことになる。
彼女の描く図形、たとえば渦巻き、円環、十字、植物や螺旋の反復は、
ある秩序をもって組み上げられている。
それはけして混沌ではないし、謎というものでもない。
むしろ、霊的宇宙の数学的構造、波動に近いものである。
しかも、理性や知識で構築されたものではなく、
そこに現れた一つの”現象”なのだ。

そう、ヒルマの絵画は、描かれたというより、降りてきたといっていい。
彼女は芸術家というより、媒介者に近い存在である。
そう思えば合点はいく。
四角いキャンヴァスは、霊界との通話装置であり、
宇宙的存在とのテレパシーの痕跡だったのだと。

圧巻は高さ3mを超える10点組の絵画《The Ten Largest》と題された
巨大作品群を見れば、その感覚が極まるにちがない。
人間の発達の各段階、つまり幼年期、青年期、老年期が
抽象的なシンボルと色彩で描かれているにもかかわらず、
それらは神秘性よりも、むしろ生物学的な必然、
生命の躍動を感じさせる曲線と渦、
そして儀式のように配置された色彩をともなって、身体の深部に共鳴する。
あたかも生命が胎内に戻ったかのような感覚を想像するのはなぜだろう?

同時に彼女の絵画は、いわゆる今日のジェンダーの問題をも超えている。
長い間、絵画の世界でも女性としての制約や
社会的立場の困難が語られてきたが、
ヒルマの作品には、男性的/女性的といった分類を無化するがごとく、
ある種の”霊的中性”が宿っていることに気付くだろう。
彼女自身が語っているように、その行為は個人的な創作ではなく、
高次の存在からの”託宣”であるがゆえに、人格を超えたものなのだ。
ゆえに、彼女の絵画がこの時代を選んでひとの目に触れる意味を噛み締める。
21世紀、可視性と情報の飽和が極まるこの時代にこそ、
ヒルマの絵画は逆説的な静けさと透明性をもって、霊的な目覚めを促し、
声を持たないガイドとなり、誰かに理解されることを目的としない、
いうなれば非人称の聖なる書物といった趣きに映るかもしれない。

なんの情報ももたず、みるその絵に直接視線が触れたとき、
まるで自分が誰かの記憶装置に組みこまれるかのような思いがした。
これまで出会ったどんな抽象画とも比べようもない世界がひろがり、
これらの絵画は、色彩でも形象でもなく、
ひとつの”波動”として存在しているように思えたのも偶然ではないのだ。
しかもそれは、たんに視覚の問題にとどまらない。
目の奥ではなく、胸の奥、あるいはもっと深い場所、魂の海に
そっと石を投げるような感覚を伴うのだ。
これが絵画であるとは、一体どういうことなのだろう?
モンドリアンやカンディンスキーの絵に人為的な音楽を感じるのだすれば、
アフ・クリントにはどこか、虫の声や風のささやき、火や水の音
そんな自然からの音響が立ち上ってくるかのようだ。
ぼくはしばらく立ち尽くして、なにかに導かれるまま
しばし、絵を荒野にさらされた旅人のように渡り歩いたのであった。

アートとは何か?
それは表現なのか、それとも媒介なのか?
ヒルマ・アフ・クリントの絵画は、芸術という行為の根本を
われわれに問い直させる。
単なる「抽象のパイオニア」という枠組みを超え、
色と形に魂が宿るとは、どのようなことなのか? 深く考えさせられるだろう。
その絵は未来のために書かれた預言書ともいうべく、
記憶の中に眠る図像学であり、魂を読みとくための地図である。

われわれはようやく、彼女の絵画がやってくる時代にたどり着いたといえる。
今日のスピリチュアリズムへの関心の高まりは、そのことを物語っている。
時代はそれを必要とするだけの傷と渇きを持ち始めたともいえるだろうか?
彼女の沈黙は無視ではなく、待機、そして啓示であり、
いま、色彩のヴェールの向こうに立ち上がる幾何学的な啓示こそが
見る者の内側にふたたび命を灯すとき、
人々は、おくればせながら、その絵画はついに語りはじめるだろう。
言葉のない詩として、形を持つ祈りとして。

ヒルマ・アフ・クリントの絵を通じて、感じたのは
絵を絵としてみる時代から、資本主義、物質主義の価値から遠く隔たって、
スピリチュアリズムやオカルトという語の響きに惑わされることなく、
真に心で視る時代の到来を告げているということなのだと。

David Sylvian:Gone To Earth

ヒルマ・アフ・クリントのある絵をみたとき、ぼくはデヴィッド・シルヴィアンの2ndソロ「GONE TO EARTH」のことが頭に浮かんだ。ラッセル・ミルズが手がけたジャケットのこのシンボリックな絵と、どこかで重なったのだ。当時のシルヴィアンはロシアの神秘思想家グルジェフに傾倒していたころで、このアルバムに参加したロバート・フリップもまた、そのグルジェフの薫陶を受けていた音楽家だったから、その曲には多分にもれず、そのエッセンスがとりこまれていた様に思う。もっとも、アフ・クリントとグルジェフの思想を一概に比較できないし、そこは深く掘り下げるつもりはないが、近からず遠からず、関連はあるのだろう。シルヴィアンが、ジャパン時代のパターンミュージックをバックに歌うという、従来のポップミュージックの形態から、のちに「BLEMISH」という最高傑作でそのスタイルを確立するまで、こうした非旋律的楽曲に歌を乗せるというスタイルは、このあたりから始まったのだといえる。