ジャン=ミッシェル・フォロン『空想旅行案内人』展のあとに

ジャン=ミッシェル・フォロン 《無題》
ジャン=ミッシェル・フォロン 《無題》

フォロンと旅するノーマンズ・ランド

東京ステーションギャラリーの展覧会で見たあのシンプルな「→」のサイン。
その矢印に導かれたのは、実はフォロンというひとりの画家の足跡、
つまりはその行方というよりは、世界の可能性のあり方だったのかもしれない。
MACHINTOSHというおもちゃ箱のようなパソコンを
かつて、世に送り出したスティーブ・ジョブスのアップルマークと同じように
次世代の可能性を託す軽やかな世界観を示す記号だ。
ちなみに、このフォロンに共感し、惚れ込んだジョブズが
人間味のある新しいコンピューターとして、そのキャラクターをフォロンに託し、
生まれたのが「MAC MAN」。
残念ながら製品には採用されなかったのだという。
実現すれば「iMac」が「MAC MAN」として世に流通していたかもしれない。
なんだか壮大な話だ。

この展覧会では、このベルギーの画家、ジャン=ミッシェル・フォロンの世界が
記号が単に道標ではなく、夢の風向きを指し示していたのをこの目で確認できる。
目的地のない旅、目的さえ失って、なおも進みつづける旅人にとっての道標。
きっと、この展覧会に足を運ぶ人であり、私自身さえも誘われる先にあるもの、
個々思いは違えど、人類全体で進むべき道は共通だ。
フォロンの世界の魅力はそんなところにあるといっていい。

いわんや、フォロンの絵には、どこかやさしい孤独が漂っている。
いかにも都市を漂流する魂に寄り添うように
青く透きとおる空の下、顔のない男が立っている。
たとえるなら、ドナルド・フェイゲンの『THE NIGHTFLY』
あるいは南佳孝の『SOUTH OF THE BORDER』あたりをカーステレオで流し
夜を一人ドライブしているような感じとでもいうべきか?
つまりはシティポップ感覚に近い洗練されたなかに
孤高の道がエンドレスに続くのである。

その人物はスーツを着て、帽子をかぶって、
ただひとり、風のなかにいる。
それがフォロンの代名詞ともいえる“リトル・ハット・マン”だ。
彼はまるで絵画世界のユロ氏のように軽やかだが、
少し淡すぎて、知らぬ間にどこかへ消え失せてしまいそうでもある。
この名もなき旅人はどこへ向かうのだろう? 
かつて、ベルギーの先人巨匠マグリットの絵に魅せられて
その絵を通り過ぎてしまったかのような旅人。
それがフォロンである。
彼の絵は語らないし、語らないことで、私たちもまた想像世界の住人になれる。
どこでもない場所、誰でもない存在。
そう、彼はまさにノーマンズ・ランドを歩いているんじゃないかという錯覚だ。

ノーマンズ・ランド。
戦争の比喩として、あるいは法の及ばぬ領域として、
時に忌避されるその地帯が、フォロンの絵では
むしろ人間の“詩的自由”の象徴として描き出されている。
制度や名前に還元されない、誰のものでもない空間。
そこに立ち現れる彼の旅人は、顔をもたないがゆえに誰の顔にもなれる。
そして、沈黙するがゆえに、世界中の沈黙を代弁しているのだ。

デジタルの波が世界を均質化し、パンデミックが国境を閉ざし、
戦火が声なき人々を呑みこんでいくなか
そんな時代にこそ、フォロンの絵は風のように吹きぬけてくる。
「あなたはまだ、この先も歩くことができるのですよ、私と一緒に」と。
その静かな誘いが、どれほど切実で、希望に満ちていることか。
叫びではなく、囁きとしての芸術がここにある。
それが彼の方法であり、まさにジョブスが共感した世界だ。

矢印はある。
道は示された。
だがその先に何があるのか、
明確なるものを彼は決して描かないし、誰もわからない。
矢印に翻弄される街や人間がそこで、
はじめて自分を探し出し、自分自身に出会うことになるのだ。
あの記号は、見る者にとっての「可能性」そのものとして、
逃避でもなく、到達でもなく、ただ“方向”を指し示す道標になること、
それが暗喩のように潜んでいることを知るだろう。
方向があることの尊さを、今ほど痛感させられる時代はないかもしれない。
道が見えなくても、進めることで、われわれは未来を託せるのだから。
それが詩であり、旅であり、人生、そして芸術の使命なのだと。

環境へのまなざし、自由への希求、そして暴力や差別への静かな抗議。
フォロンの絵は、直接的にそれらを強く叫ぶことはないが
『世界人権宣言』の挿絵などをみれば、その込められらたメッセージを理解する。
ただ、あまりにやさしくユーモアをもって描かれることで、
逆説的にその残酷さが浮かびあがるのだ。
空の青は、深い孤独の色。
風の流れは、誰にも届かない助けの声。
帽子をかぶった男の背中には、誰にも気づかれない重さが宿っている。

そして、それでもまだ彼は歩き続ける。
矢印の方向へ、矢印のままに。
行き先など知らなくていい。
いや、知らないからこそ歩けるのだ。
描かれる“場所”は、どれもどこか不確かで、
名前すら持たず、地図にも載っていない。
それらはまさに、現代におけるノーマンズ・ランド。
だがそこは、詩と夢がかろうじて息をしている、
いうなれば、最後の聖域でもあるのだ。

名刺にも刻まれた「空想旅行エージェンシー」という肩書きの画家に
空想旅行案内人の手引きで無事夢見る展覧会を後にして、
ぼくはまたしてもひとりの旅人として街を歩き出した。
どこに向かうかはわからない。
でも、淡く、風を感じ取った。
空には、雲が空を流れていたが
そのゆく先は知らないがそれで十分だと思った。
僕はどこまでも歩いてゆける。
フォロンの絵のリトル・ハット・マンのように。

Gabriel Yared – Human Clock

ゴダールの『勝手に逃げろ/人生』の始まり、ジャン=ジャック・ベネックスの『ベティ・ブルー』のSTを手がけたことで、その名前が知られているレバノン出身のフランスの作曲家ガブリエル・ヤレドが、1988年に発表したカロリン・カールソン振付のバレエのために作曲したアルバム『SHAMROCK (National Ballet of Amsterdam)』から「Human Clock」。もうとっくに廃盤になって、あまり知られてはいない埋もれたアルバムだけど、ぼくはこれでヤレドの存在を知ったし、彼の映画音楽より、こちらの方がよりイマジネイティブで好きだな。