その四角の外側、色彩と煙の向こうににあるもの
ホックニーはゲイのアーティストである。
あえて同性愛者と書かないのは、
“GAY”という言葉に、一方で「陽気な、華やかな、快活な」という意味があり
それはそっくりそのまま、ホックニーの生み出す絵に当てはまる、
という意味を込めて、あえて初めにクローズアップしたにすぎない。
ホックニー自身がカミングアウトしているし
ダ・ヴィンチとミケランジェロといった時代に遡っても、
アート界では特に珍しいことでもなんでもない。
ただ時代の受け入れられ方が違うだけだ。
同胞アンディ・ウォーホルもそうだったが、
ホックニーは作品を通して、同性愛の本質を
積極的に表現してきたアーティストだ。
個人的にもゲイに対する偏見など、からきしもっていないのだが
やはり、ジェンダーの問題は個人の敏感な部分であり
同時に、アーティストの本質を見極めるのには重要な要素である。
少し難しくいえば、当人が感じる違和感から生じる、表現者としての昇華がある。
避けては通れない同性愛者としての、自己の内面の告白。
その繊細な部分に正面から向き合ってきたホックニーは
初期には《三番目のラブ・ペインティング》や《私たち2人の少年はいちゃつく》
といった作品を通し、堂々と世間に知らしめたのである。
今回の展示にはそうした初期からの作品も見ることができる。
こうした同性愛的傾向をどう解釈し、どう理解するかは
全くの他人には知る由もないし、絵画とは別の話かもしれない。
最初に、こんなことから書き始めたのは
世の中がいみじくもLGBT問題で揺れていたから、というのもあるが
アーティストというのは多かれ少なかれ
自分のうちに孤独を発見し、それに抗いつつも調和を保つことで
表現がなりたつ気がしているからかもしれない。
ホックニーはいまや、誰もが知る著名な画家であり
その絵は高額にやりとりされ、ピカソなきあとのスーパースターとして、
八十を超えて、いまなお美術界に君臨している。
そんなホックニーに、僕が初めて触れたのは、
80年代の写真による「パースペクティブ」展だった。
いわゆるポップアートの巨匠という触れ込みよりも
その視点そのものが新鮮で面白かったからである。
陽光に満ちたプールサイド、水平に伸びる白い縁石、切り取られた空の青。
デイヴィッド・ホックニーの絵画を初めて目にしたとき、
多くの人がまず色彩の明るさに目を奪われることになる。
まるで「幸福」の色を抽出したかのようなその画面は、
見る者を瞬時に惹きつけるだろう。
それは、ある種キュビズムの洗礼を浴びせかけようとした、
あのピカソをさえ超越した美の真髄だ。
だが、ホックニーの芸術は決して「明るさ」だけでは語れない。
むしろ彼の真の価値は、「見るということは何か?」
という根源的な問いを発し続けたことにあるのだと思う。
同時に見られること、という意識に敏感でないはずのない、
そんなセクシュアリティと戦ってきた人物である事に、あえて眼を背けたくはない。
すなわち、われわれが何気なく認知しているこの世界を、
いかに平面へと写し変え、鑑賞者に見せることができるのか?
その問いを愚直なまでに追求してきた画家なのである。
これこそが、「ホックニーと視覚哲学」と呼ぶべき創作の核である。
ホックニーがその問いを最も明確に提示したのが、
1980年代の写真コラージュ作品《Pearblossom Hwy.》
をはじめとする“Joiners”シリーズである。
彼は一点透視図法という、西洋絵画がルネサンス以来拠り所としてきた
視覚の秩序を疑う視点を投げた。
人間の目は、本当にあのように世界を見ているだろうか?
画面の中心に焦点を合わせ、すべての遠近がそこへ収束する、
それはむしろ、絵の都合、構図のために訓練された視線ではないかと。
ホックニーはこれに代わる方法を模索した。
ポラロイドや35mmカメラを使い、
同じ風景を何十回も撮影して、大量の写真を素材として
再び一から手作業で貼り合わせていく。
そこに現れるのは、視線が動き、時間が通過し、
観察者の身体性が刻み込まれた複眼的な風景というわけだ。
セルフポートレート、あるいは母親や友人の肖像から
龍安寺の石庭、ホックニーが得意としたプールなど
まさに写真によるキュビズムが展開されたのである。
なんと刺激的で、画期的な発見であっただろうか?
見ることとは、なにも一瞬ではないのだ。
歩き、立ち止まり、振り返る、その流れのなかで世界は構築されてゆく。
だからこそホックニーは、「カメラが捕らえた決定的瞬間」ではなく、
「人間が認知する過程としての視覚」にこだわったのだ。
この方法論は、当然、20世紀初頭のキュビズムとも響き合っている。
ピカソやブラックが複数の視点を一つの画面に統合しようとしたように、
ホックニーも「複数の瞬間」を一つの場に重ねた。
だが、そこにある違いは決定的だ。
キュビズムが絵筆で分解と再構築を試みたのに対し、
ホックニーは写真という現代の“目”を借りて、視覚の編成を試みたのである。
しかも彼は、単なるトリックとしての「視覚のズレ」では満足しなかった。
むしろそのズレを通して、
「私たちが見ている世界のほうが、すでに歪んでいるのではないか」
という直観を提示する。
カメラは、いわば視覚の代替ではない。
むしろ、その不完全さを露呈させる装置なのだと。
ホックニーはその不完全性のなかに、見るという行為のリアルを見出した。
ホックニーの最も有名な作品群、
とりわけロサンゼルスのプールや住宅街を描いたシリーズは、
「サバービア絵画」とも呼ばれる。
均質に塗られた芝、直線的に敷かれた道路、コンクリートと植栽の幾何学的対称。
だがその風景は、どこか人工的で、操作された理想郷のようでもある。
ホックニーはそれを、強調された色彩と意図的な構成によってあらわにする。
特に、空と水に用いられる「ホックニーブルー」は、
現実には存在しない抽象の青が広がっている。
ピカソの「青の時代」の青と見比べてみるがいい。
つまり彼は、平面の上に「見たことのある現実」を描くふりをして、
実は「誰も見たことのない視覚の構成物」を作り出しているのだ。
それはまるで、視覚そのもののカリカチュアともいうべきものであり、
サバービアというアメリカン・ドリームの表象が、
ホックニーの手にかかると、嘘のように明るい視界として提示され、
人々はこの鮮やかさの前に魅了され続けることになる。
近年、ホックニーはアメリカ西海岸からフランスのノルマンディに居を移し
iPadを用いたドローイングや、
マルチスクリーンを使った映像作品にも取り組んでいる。
ノルマンディは、あの印象派画家モネが愛し住んだ場所でもある。
そこでも貫かれるのは、やはり「視覚の再構築」である。
例えば、森の小道を多数の視点から撮影した映像作品《The Four Seasons》では、
春夏秋冬の移ろいが、まるで一つの生き物の呼吸のように表現されている。
時間、視線、光――それらが一枚の「絵」に帰結することはない。
むしろ無限のズレのなかに、世界は詩のように存在している。
ホックニーは、単なるポップアートの巨匠ではなく、
視覚の構造に挑んだ哲学的な画家として記憶されるべきだろう。
そこでも彼の問いは、いつも単純明快で、しかし根源的だ。
「ぼくらは世界を、どうやって見ているのか?」
この問いに向きあい続ける限り、
ホックニーの絵は決して時代遅れにならない。
それどころか、絶えず、時代を切り開いてゆく。
むしろ、スマートフォンやVRが視覚の在り方を変えようとしている今こそ、
その問いは新たな切実さを帯びて響いてくるだろう。
陽光の下、涼しげなプールの奥にあるのは、静かな哲学の輝きである。
まさに見ること、それ自体が、絵画であるのだ。
この展覧会では、コロナ禍、ヨークシャー東部で2011年に制作された、
幅10メートル、高さ3.5メートルに及ぶ近年の代表作〈春の到来〉シリーズや
iPadで描かれた全長90メートルにもおよぶ大作《ノルマンディーの12か月》など
今なお精力的に描き続けるホックニーの芸術に触れることができた。
圧倒的生の充溢がその色彩に滲んでいた。
だが、そんな作品を言葉で説明しても、単なるステロタイプの描写の域をでない。
だれもが、その絵の前に立ち、自分でこの生きる歓びを体感すべきなのだ。
さて、ここまでまじめにホックニーの美学とつきあってきたついでに
最後に、彼の本質の側面、人生をいかに楽しむか?
それを絵画という“遊び”をどう継続するか、というテーマで締めくくろう。
ホックニーは筋金入りの喫煙愛好家であり、
「煙草を吸うこと」そのものが、自己表現の一部であるかのように語ってきた人でもある。
英国の公共施設での全面禁煙化に強く反発し、こんなことをいっている。
もしレオナルド・ダ・ヴィンチが今日のイングランドに生まれていたら、煙草を吸って牢屋に入っていただろう。
この言葉は、単なる反禁煙のジョークではなく、
自由な精神と芸術の創造性に対する規制社会への抗議だと
読み取れるのかもしれない。
ホックニーにとって煙草は、「考える時間」や「空白」を作るための儀式
つまりは、絵画と向き合うための重要な道具なのだ。
ホックニーがアムステルダムのゴッホ美術感での展覧会場で
エレベーターに閉じ込められるというハプニングに見舞われたとき、
救出の際、「タバコとともに紅茶」を真っ先に要求したほどの愛煙家だ。
さすがは生粋の英国人である。
ホックニーのアートが、いくらわかりやすい色彩とフォルムに彩られていようと
どこか、シニックなユーモリストたるところが魅了である。
そんなところからもホックニーの人となりが窺えるエピソードである。
大滝詠一:ペパーミント・ブルー
ホックニーの絵に対抗できる音、ということでいうと、そこは素直に、日本が誇るシティポップにその矛先を向けるのが筋だろう。ただ、ぼくの認識では、どうしても山下達郎か大瀧詠一ぐらいしかでてこない。なぜなら、底なしにある名曲のなかでも、やはり、音にも格というものがあるということでいえば、ここは大瀧詠一の『EACH TIME』から「ペパーミント・ブルー」を選曲するに至った。むろん、これは甲乙つけ難い前作『A LONG VACATION』と、さて、どちらがいいか、好きかという、これまた困った問題にもなってくるのだが、個人的にどちらかというと、この『EACH TIME』の方をよく聞いてきた、ということでしかなく、優劣などの感情は、もちろんない。これは勝手な思い込みであって、そこは許してもらいたいが、そこは大瀧詠一の曲自体に、だれも文句などあるまい。
要するに、ホックニーの絵のポピュリズムも大瀧詠一の曲のポピュリズムも、実に高いレベルで洗練されているのがよくわかる。どちらも、ゴージャズながらも、全く嫌味がなく、しかも圧倒的なのである。そんなことをわざわざ得意げに書いたってしょうがないし、なんだかブルジョワの戯言のようなことをグダグダ書いているわけだが、これからの暑い季節には、ひとつ、騙されたと思って、ホックニーの絵を眺めながら、大瀧詠一を聴くという、なんのひねりもないことをあえて人に勧めてみたいと思う。おそらく、何も出てきはしないとは思うが、気持ちがいいことだけは保証できる。ただそれだけだ。ちなみに『EACH TIME』の河田久雄、『A LONG VACATION』の永井博、いずれのジャケットのイラストレーションにも、ホックニーの絵ほどに食指が動かない。それは当時も今も変わらないが、あくまで音楽あってのジャケットとしての思いしかない。
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