ニコラス・ローグ『地球に落ちてきた男』をめぐって

地球に落ちてきた男 1975 ニコラス・ローグ
地球に落ちてきた男 1975 ニコラス・ローグ

地球に落ちてきた男を覚えていますか?

デヴィッド・ボウイの一ファンとしては
アルバム『BLACKSTAR』を最後に
この世からいなくなってしまった際にはとてもショックを受けたが
実のところ、どこかでほっとするような安堵の気持ちが
同時にこみあげたものも事実である。
またぞろ、ボウイも一塊の人間だったんだと実感できたからだ。

稀代のロックスターではあったものの
そもそも、さまざまなキャラクターを演じてきたにすぎず
その意味では、ボウイは天性のアクターだったのかもしれない。
そう、文字通り「CRACKED ACTOR(気のふれた男優)」だった。
けれども、素はといえば、もともと若い頃仏教徒に焦がれたほど
どこか修行僧のごとく生に真摯な精神性を宿した
ひとりの孤独な人間だったのである。

しかし、その表層を培ってきたイメージがあまりにも強烈だった。
まさに美と破壊と創造の化身の宇宙人だった。
とりわけ70年代のボウイは音楽性もファッションも、
実に変幻自在で、きらびやかだが、どこか孤高を背負ったキャラクターを
絶えず繰り出し、変遷しながら隆盛を誇ったものだった。

そのなかで、1975年、初めて映画に挑戦の
ウォルター・テヴィスのSF小説を実写化版
ニコラス・ローグの『地球に落ちてきた男』では
まさに「はまり役」としてその宇宙人キャラを演じた。
ウォルター・デヴィスの原作がボウイのキャラを
ふまえて書いたわけではないが、
ニコラス・ローグにかぎらず、この人かいない、
という思いは映画をみれば誰もが納得するだろう。
当人も満足していたのか、
『STATION TO STATION』や『LOW』のジャケットには
そのスチールが使用されているほどだし、
メインスコアを担当したのはママス&パパスのジョン・フィリップスで
なかにはツトム・ヤマシタの楽曲もある。
どこかアメリカーナでカントリー色漂う音になっているが、
実際、『LOW』の音楽が映画に使用されていても違和感はなかっただろうが、
それはそれで、映画の見方も大いに変わったかもしれない。
ちなみに、映画の中のレコード店では
ちょうど『YOUNG AMERICANS』がキャンペーンされており
そのジャケットが目に飛び込んでくる。
そう、まさに、ドラッグにどっぷりハマっていたあの時期なのだ。

この地球にやってきたというか、
あくまで「落ちてきた(不時着した)」という設定は重要である。
ボウイ扮するトーマス・ジェローム・ニュートンは
この異星で、祖国や家族を思いながら資源(水)を探す
孤高で、運命を背負った宇宙人だったというわけだ。
がしかし・・・。
この地球という星では、彼はあまりに孤独すぎた。
目的も果たせず、また人間にも理解されず、故郷にも帰れず、
また、女を愛することもなく、結局は酒におぼれてしまう。
とまあ、率直にいえば、
ストーリーや展開においては少々無理があるし
一般的にはカルト映画のくくりのなかで
ボウイファンを中心に語られてきたSF映画だが
作風は宇宙的、未来的というよりは
人間社会で「場所がない」立場の者が陥る孤独感を
宇宙人になぞらえ描き出した映画というくくりになっている。

ボウイの宇宙人姿をみると、どこか爬虫類的で
人型爬虫類レプティリアンのイメージだ。
ジギーやアラジン・セインあたりのグラム的な風貌にかぶってくる。
レプティリアンが部屋の中をTVでいっぱいにし
同時に情報を垂れ流すシーンが印象的だが
よもや、当時のニコラス・ローグが
世界の陰謀論を睨みながら、そのエッセンスを
わざわざ映画に持ち込んだとも思えないが
彼は感情を抑制し、孤独を際立たせることで
人類が陥る孤独の本質をボウイのイメージを借りた宇宙人を通して
先見的に描き出したという見方もできるかもしれない。

ボウイの代表曲といわれれば
まず「ジギースターダスト」を挙げる人は多いかもしれない。
そのジギーというキャラクターは、火星からやってきた蜘蛛であり
5年後に迫った人類滅亡の危機に、
救世主として火星から来たロックスターである。
ジギーが歌うように、女を微笑みで殺し
世捨て人の救世主を演じたのかもしれない。
エゴとセックスするジギーと
メリルーと無機的にセックスするトニーをダブらせながら
当時の熱狂とロックスターの孤独を同時に映し出し、
ドラッグをアルコールに置き換えてみる。
そう、まさにあの頃のボウイ像がダブるところに
ファンの心は掴まれるのだ。

そういえば、初期の名曲『SPACE ODDITY』のトム大佐もジャンキーだった。
そんなふうに、宇宙人や異教徒、アウトサイダーなどと
ボウイ自身が追ってきたイメージには
自己と世間、イメージと本質との間の乖離に悩みながら
偉大なるアーティストとして君臨したデヴィッド・ボウイの孤独を
今となっては、映画を通して、とても懐かしく、
また、感傷にひきづられずに思い返すことができる。

もう少し、丁寧に水のイメージや哲学的に踏み込めば
『ストーカー』や『惑星ソラリス』のような
タルコフスキーの世界観にも追随できたSFになったかもしれないし
逆に、もっとふざけて開き直れば
ダネリアの『不思議惑星キンザザ』のような
コメディたり得たのかもしれない。
とはいえ、フルヌードも辞さず臨んだボウイの、
何故だか歌舞伎のシーンやちょっとレトロチックな宇宙人姿や
宇宙船といったビジュアルを踏まえて見れば
懐かしくも、貴重で、それでいてエキセントリックな、
まさにニコラス・ローグの嗜好性は十分に嗅ぎ分けることができる。
まさに特異なSF映画という評価は変わらない。

ボウイはこの『地球に落ちてきた男』を機に、
俳優としても精力的に舞台や映画作品をこなしていることからも
以後の俳優業に火を着けた作品という位置付けでいいのだろう。
おそらく、この日本ではもっとも知られているのが
大島渚『戦場のメリークリスマス』の英軍将校・ジャック・セリアズで、
坂本龍一、ビートたけしとの組み合わせが忘れ難い一本だ。
また、『ジャスト・ア・ジゴロ』ではデートリッヒと、
『ハンガー』では堂々カトリーヌ・ドヌーブとも共演を果たしている。
そのほか、舞台The Elephant Manやミュージカル映画『ビギナーズ』
あるいはSF映画『ラビリンス / 魔王の迷宮』や
デヴィッド・リンチの『ツイン・ピークス ローラ・パーマー最期の7日間』にも顔を出し、
次々に野心作に出演するきっかけをつくったのは
まぎれもなくニコラス・ローグの『地球に落ちてきた男』であり
ボウイ自身も、長年にわたって本作へのこだわりを持ち続けていた。

ちなみに、2015年には『地球に落ちてきた男』の続編という内容で
劇作家のエンダ・ウォルシュと共同で執筆した
ミュージカル『LAZARUS』として、ボウイ自身のプロデュースの元
オフブロードウェイで舞台化されており、
この2025年には、日本でもいよいよ上映されることになっている。

David Bowie : Warszawa

ボウイのアルバムの中でもっともパーソナルな一枚である『LOW』。なかでもB面のインストだけの世界観は壮絶だ。絶望感に満ちているが上に、美しいのだ。このジャケット写真はまさに『地球に落ちてきた男』の撮影時のものだし、孤高、孤独、自己回帰といった当時のボウイのテーマ性は、当然、映画との関係性、距離感には相通じるものがあるのだが、ローグの映画の内容自体は、ここまで鎮痛な響きはなく、あくまでイメージによる西洋人たる郷愁感が色濃く漂っているにすぎない。映画『地球に落ちてきた男』同様、晩年には『LOW』のアルバムだけの再現ライブを行っているように、ボウイにとって、このアルバムは、その長いキャリアのなかで特別であり、重要な位置付けとして記憶されるべき名盤だろう。これを聴いて映画をみれば、当時のボウイの思いに、少しは寄り添えるかもしれない。