増村保造『赤い天使』をめぐって

赤い天使 1966 増村保造

天使は辛いが、愛は強い

天使を色でイメージするとしたら何色だろう?
そう聴かれれば、まず十中八九「白」と答えるのではないだろうか。
たとえば「白衣の天使」とは良く耳にするフレーズで
清らかな、そして眩しいイメージが自ずと浮かんでくる。

所詮、イメージの話にすぎないが、
これが「赤」となるとどうだろうか?
おそらくは、白とは真逆のイメージを思い浮かべるにちがいない。
しかも戦場とあらば、否が応でも「血」を想起せぬわけにいかない。
増村保造の傑作『赤い天使』では、
従軍看護婦として戦地に送り込まれたナイチンゲールは
日常的に「血」の匂いに染まりきり、決して目を背けるわけにはいかない。
コントラストの強い大映モノクロームの映像の中、
サディスティックなまでに突きつけられる漆黒の血の地獄に生きることになる。
のこぎりでギシギシ切り落とされる手足、
ウジの湧く傷口、そして廃棄される屍体の山。
泣く子も黙るゴア現場の渦中で、甘えなど一切通じない世界である。
まさに、サディスト増村にとってはしてやったり、
これほどぴったりの舞台設定はない。

文字通り若尾文子扮する西さくらこそが「赤い天使」なのであるが、
彼女の場合は、ただ単に負傷兵の介護という枠に収まらず、
負傷した兵士の命をつなぎとめるために
手足を切断する際には、暴れ発狂する患者を抑える役回りはもちろん
挙げ句には、性的な処理までこなさねばならない。
おいおい、なにをさせるんだよ、我らの天使に。
ま、天使家業はラクではないのだ。
まさに身体を張ったその使命感には頭が下がる。
が、この映画が単に反戦映画の枠を超えている部分であり、
それを折れずに遂行する強さがどこまでも美しい。

無論、当人は慰安婦でもなければ娼婦でもない。
任務というよりは、一方的でレイプさえままならない環境下。
見ての通り、女は下に置かれ酷い扱いを受けるが、
これも言わずもがな、戦争(権力社会)の悪しき側面である。
野戦病院には、いろんな口実を作って兵役から逃れようと猛者もわく。
そうして保身を企てるのもまた、人間の本能かもしれない。
ならば、人間の心をどこかで断ち切るしか生き延びる術はない、
そう言い切る婦長も軍医の言葉にはぐうの音も出ない。

だが、それぐらいのことで天使は怯むわけには行かぬのだ。
そのレイプをした兵士が前線から戻ってきて
手足切断の運びになっても、けして取り乱さず、無碍にあしらわず
ダメ元で輸血を懇願しさえするのだ。
両腕が欠損した兵士には
同情心からとはいえ、腹をきめて“処理”につきあうも
肝心の当人は、未来を絶望し身投げする有様である。

ここで西はまさに自責の念に囚われてしまう。
「死なせたくはなかった。私が殺したことになる…」
天使だって辛いのだ。
思わず、代わりに死者たちを呪いたくもなる。
が、悪いのは戦争であり、人間の欲望そのものではないか。
戦争に突き進む偽善の愚かさよ。
だが、そんな天使だが、意志はことのほか強く肝が据わっている。
彼女はその名の通り、桜の如く美しく、
ぱっと咲いてぱっと散ることを運命的に享受する女である。

しかし、所詮は女なのである。
西は芦田伸介扮する軍医を愛してしまう。
軍医に父親の面影を見たからかもしれないが、
明日なき戦場において、この軍医だけが心の灯火というのは理解できる。
そうして、二人の愛は刹那の慰めとして心を通わせる。
が、ここからまた別の問題が派生する。
女であることを唯一感じさせてくれる相手が目の前にいるというのに、
その相手がモルヒネを打っているが故に“不能者”なのだ

軍医もまた辛い。
医師という職業にすら絶望する中、
若く綺麗な女が自分を好きだ、愛しているだと言って寄ってくるのに
寄り添うだけしかできないのだ。
だからこそ、患者を不遇にしてまで命乞いをさせることにも
気が乗らないのだ。
軍医は決して心を失ってはいない。

それをどう乗り越えるか、
それこそが愛なのだが、モルヒネ患者に対して
禁断症状を耐え忍ばせて男を復権させる西の強さ。
軍医と看護婦の軍服コスチュームプレイなど傍目には何の慰めにはならない。
が、この過酷な状況を想像するにひとときの安穏は救いなのである。

そうして愛は成就するのだが、
「平和な日本で会いたかった」というセリフはあまりに虚しい。
が、明日なき戦場で、愛こそが真実であり、生きる意味なのだ。
こうして二人は、運命を共有する。

そういえば、増村の晩年
テレビで人気を博した「赤いシリーズ」の脚本・演出も手掛けているが
情熱の赤、これでもかこれでもかと突き進む主人公のイメージの原型は
この「赤い天使」にあったのかもしれないと思い返す。

増村作品の中でも、海外で最も評価の高い1本がこの『赤い天使』だという。
わかるような気がする。
そこには微塵の曖昧さも逃げもない。
直球勝負で、現実から目を背けない、
そんなヒロインの強さが傑出しているかもしれない。
日本人には少し、直情すぎるのかもしれないその表現の中で
『赤い天使』には、戦争という背景を借りて
日本人が日頃鈍っているあいまいな感情を鋭敏にさせる鋭さがある。
まさにナイフや銃を突きつけてくるのである。
ある意味、戦場で兵士たちに突きつけられた覚悟そのものが
悲しくも凛々しいのだ。

増村映画における若尾文子は絶えずその意思を具現化してきたのだが、
『赤い天使』はその背景を共って強烈な赤をぶちまける。
しかも、鮮明というよりは、どこか濁りのある生々しい赤を。
天使にはそれを被る覚悟がある。
最愛の軍医まで、戦場で果て、
純白の天使はボロボロになり、たとえドス黒い赤で染め上げられたとしても
心には絶えずまばゆい純白のドレスを纏っている。
戦場に一人取り残された天使の気高さに、ただ心打たれるのだ。

Both Ends Burning : ROXY MUSIC

ロキシー・ミュージックの名盤「サイレン」の中には「Nightingale」って曲もあるけど、非業の死を遂げる軍医と看護婦の愛を描く増村の「赤い天使」には、歌詞の内容からするとこの「Both Ends Burning」の方がふさわしい気がするな。

Jungle red’s a deadly shade
Both ends burning, will the fires keep
Somewhere deep in my soul tonight

ジャングルレッドは死に至る色合い
ぼくらどっちも燃えさかっているんだ
今夜魂のどこか奥深く、その火を絶やすことなどない