哀しきファムファタル、どこへ行く?
監督戸田彬弘が自らの演劇のために書き上げた
「劇団チーズtheater」による戯曲「川辺市子のために」が原作の映画『市子』、
その杉咲花扮する主人公の思いに、心揺すぶられる思いがした。
映画を見終わった今も、彼女のことがずっと頭から離れてはくれない。
ストーリーか、はたまたキャラクターゆえか、そのどちらもではあるのだが、
特に、好みのタイプというわけでもなく、いわゆる美貌を誇るでもない、
その関西なまりの、どこか気だるくも掴みどころのない口調、
そして振る舞いやしぐさ、その年齢不詳を演出する髪型にいたるまで、
そんな彼女が、仮に目の前に現れでもしたら、
知らず知らずのうちに惹かれてしまう気持ちは
なんとなくわかる気がしたのである。
よって、結果的に市子に振り回される格好の、
フィアンセたる長谷川くんの思いは、劇中ひしひしと伝わってくるものがある。
同情禁じえず、実に切ない。
3年の同棲から結婚、とくに障害など見当たるわけもないという思いから、
ある日唐突に、籍を入れようと告白した矢先、
目の前から忽然と姿を消してしまった市子。
長谷川は、その後ろ姿を追い続けるしかない。
そこから、時空は過去へと降りたち、
彼女の幼少期からの、本来なら触れてはならない他人の人生を知ってゆく。
市子の過去はいかんともしがたく、複雑で暗く重い、そして痛い。
愛するものが知れば知るほどに狂おしくなっていく。
同情の余地は多分にあるにせよ、次第にこの女のもつ、
この妖しくも深い闇が物語とともに並走しているのがわかる。
いったい、川辺市子とは何ものなのか?
この映画を通じて「離婚後300日問題」というものを知った。
離婚後300日以内に生まれた子どもは、原則、元夫の子どもとしてのみ扱われ、
その元夫にしか出生届を受理してもらえる権限がない。
つまり、その人物が仮にも不利益を生じさせる対象であると判断される場合など、
母親としては、我が子にもかかわらず、出生届けを提出するのを躊躇することもあろう。
無戸籍児が誕生してしまうケース、それが市子なのである。
しかも、難病を抱えた三歳年下の妹に代わって
生きる運命を余儀なくされた月子(以後市子)は、戸籍が絡む事態になると
いやが負うにも平常ではいられない。
たえず選択を迫られることになる運命にある。
全ては出自がばれたくない、という防御本能からである。
おまけに市はそれだけではない、他人に言えぬ秘密を抱えもっている。
図らずも自分の意にそぐわない罪なのだ。
だからこそ、市子は愛する長谷川のプロポーズに
心から感動を覚えたにもかかわらず、
妹の屍体が発見されたというニュースを聞いて
本能的に逃亡してしまったのであろう。
そんな事情、だれにもわかるはずはない。
話せない。
所詮、わかるわけなどないのだと。
ただひとり、この秘密を知っていたのが同級生の北である。
北は市子の背景を全て知っていたのだが、
それは市子に対する恋愛感情から深入りした挙句
思いがけず禁断の事実を知ることになる。
それだけ、市子に対する思いを勝手に募らせて行くのだが、
市子にとってはそんな北の思い込みは重荷でしかないのだ。
北とは終始そういう関係性が示唆されるなか、
ついに自殺願望の女性とその北の死体が車とともに上がってくる。
ここでの決定的な瞬間は、この映画の何処にも描き出されてはいない。
我々観客は、このミステリーに対し
市子という人間の生きてきた人生を想像し、
情とともに、その事件の真相を勝手に導き出すことだろう。
市子は母親の情夫や妹を、切羽詰まった咄嗟の行動として殺めてしまった過去があり
今度は自らの意志で、欲望のままに
なんらかの手段でもって、二人を事故にみせかけて殺めたのだろうか?
それとも、北自身が英雄きどりで市子のことを思って事を遂げたのか?
さらにまた、市子はその自殺願望の女性の戸籍を名乗ったのであろうか?
いろいろ解釈はできるだろう。
市子の心からの叫びである「普通に生きていきたいだけや」という、
その言葉に嘘や偽りはなく、
この映画のクライマックス、ハイライトこそは
立ち止まって、再び市子とは何者なのかを考える事にあるのだ。
結論を導き出すことだけが映画ではないが
自分が心掴まれるのはそうした過程に身を置くからに他ならない。
長谷川は、市子の過去に触れ、
過去に関係のあった人物たちからの情報で、市子像ができあがってゆく。
このスタイルは、黒澤明「羅生門」での、あいまいな第三者の証言よって
真実が二転三転するといったことから「羅生門スタイル」と呼ばれる、
最近のミステリータッチの映画でよく見られる手法である。
市子には幼少期から、ある種の常識が欠けている場面も描かれる。
同級生の宗介や北への態度からも、市子の魔性的魅力さえもうかがい知れる。
とはいえ、それはあくまで他者の目を通した市子にすぎない。
長谷川が市子の母親を探し出し、真実を知されるシーンはどうか?
ある夏の暑い日、市子は妹の呼吸器を外してしまう。
そこから挟まれる回想シーンはなんともいえず圧倒的である。
しばらく放心状態の市子はアイスバーのバーを口に入れっぱなしで
完全に時を忘れている。
市子の表情、妹の表情、全てが凝縮された時間がそこにはある。
そして帰宅した母親がそのシーンをみて市子にふとかける
「ありがとうな」という言葉。
まさに時を、映画を止めてしまう瞬間である。
市子にとっては救いの言葉にも聞こえるが
さらにその母親は食器を洗いながら鼻歌を歌っている・・・
それ以上に何も返ってこない反応の前に、
市子は一人晒されるシーンの残酷さ。
北でなくとも、誰もが抱きしめたくなる瞬間である。
ラストシーンで、市子がとぼとぼ道を歩きながら
同じく母親と同じく、その鼻歌を歌いながらこの映画は終わる。
哀しきファムファタル、市子は一体なにものなのか?
またしても、その問いにとらわれはじめる。
普通を知らずに育った市子が
ようやく掴みかけた幸せとも決別せざるを得ず、
いったいこの先どう生きてゆくのだろうか?
映画は終わったが、問いそのものはこの先も終わらない。
しばらく席を立つ気にならなかった。
The velvet underground:All Tomorrow’s Parties
伝説のベルベット・アンダーグラウンド&ニコ、ファーストアルバムに収録された「All Tomorrow’s Parties」。自らも数奇な運命を生きたニコ自身が、ベルヴェット版シンデレラの歌を歌う。パーティーに来て行くドレスに思いを馳せる、気怠く奇妙な明るさに包まれたナンバーだが、この呪詛的なソングラインに市子のイメージが寄り添うようにかぶってくる。
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