沖田修一『さかなのこ』をめぐって

さかなのこ 2022  沖田 修一
さかなのこ 2022  沖田 修一

ぼくらのギョギョおじさん

ギョギョのさかな好きの人?
さかなの帽子をかぶった変わった人?
さかなクンといわれたって、それぐらいしかいいようもなく、
普段からとくに好き嫌いの範疇にさえなく
圧倒的な情報量の少なさの前に
別段語ることばもない、そんな状況下で
唐突に一本の映画『さかなのこ』を見ることになる。
映画の前にある原作のさかなくんの自叙伝
『さかなクンの一魚一会 まいにち夢中な人生! 』のことも知らないし
監督である沖田修一についても
そういえば、少し前に「おらおらでひとりいぐも」をちょっと前に見た程度で
ほぼ何も知らない。

そもそもなんでこの映画にたどりついたのか?
といわれると、はっきりとした経路も何もないのだが、
しいていえば、なんとなく今までならスルーしていたかもしれない、
そんなところに先入観なく手を伸ばせば、
ひょっとすると思いがけないいいものに出くわすかも、
その程度の動機からである。

が、これが予想を反して、心に刺さってしまったのである。
先入観は持たないに限る、つくづくそう思わせる映画である。
さかなクン、面白いな、いいな。
それが映画を観たあとの感想だ。
もっとも、映画の中でさかなクンを演じていたのは
能年玲奈こと、のんである。
彼女がジェンダーの壁を超えて
さかなクンを演じていたが、別になんの違和感もなく思えたのは
この映画の魅力のひとつなのかもしれない。
はじめに「男か女かは関係ない」というクレジットで始まる。
やはり、そこが重要なポイントなのだ。
さかなクンという個性そのものが
いま世間をにぎわすジェンダーフリーの存在であり、
個性重視の世の傾向に合致するユニークな個性をもった
ひとつの生き方を提示してくれていることを
改めて考えさせられる映画ということもできるだろう。

とはいえ、この映画の真の魅力は、
そうした個性を重んじる「生き方」への提言であるとか
必ずしもジェンダーを超越した存在だとか
そんなテーマ推しの映画ではないところにある。
つまりは、自然体なのだ。
確かに、のんが演じるミー坊は大の魚好き少年であり
背後にはそれを理解し、応援する母親の存在というものがあるにはあるが
よくよくみていくと、それゆえ家庭というものが成立しなくなる、
そんな一面さえも出てくる映画として描かれている。

母親はどこかで無理をしてまで、ミー坊の良き理解者であると同時に
犠牲者、とまではいわないが、それを貫く覚悟とともに
家庭がいつの間にか分断されてしまうのだ。
あるいは、奇異な目で見ることこそなかったが
大人になって再会する同級生たちとは、一定の距離感がありながら、
だれもが一目置くだけの輝きを放つミー坊は
あきらかに、終始変わらないさかなへの偏愛ぶりによって
彼らにはない自由さや真の豊かさを投げかける存在として、
結果的に他者とを明確に隔てる幸福感で満たしていくのである。
だれもあそこまで好きなものもなく、
そして一途にはなれないのだという諦念なのだ。

お魚好きが高じて、その関連の職についても
「むいていない」との烙印の前に、なかなかうまくいかない人生であっても
ミー坊自身はなんの不幸も絶望も背負ってはいない。
そのことが逆に推進力になって、個性の鑑として
生き生きと人生を謳歌する姿が描かれるのだ。
そんなさかなクンのキャラをのんが見事に演じている。
のんでしか、描ききれない魅力=この映画の魅力といっていい。
たしかに、客観的にさかなクンのキャラを演じる人物が浮かばない。
彼女の目の輝きに、われわれは自分らしく生きる意味を見いだし
それがかけがえのないものである事を知るのだ。

こちらは原作を読んではいないが、さかなクンという個性は
この映画を通じて、ある程度は理解はできる。
好きだとか嫌いだとかをさておいても、素敵な生き方なのだという共感。
この映画に押し付けはないといったが、
いや、それは共感というより、受け入れること、受け止めること、
そういう次元なかもしれない。
文字通り、ジェンダーを通り越した存在として、
そんなさかなクンが「ギョギョおじさん」としてリアルに登場する。
まさに映画的フィクションとしても、そこは重要なシーンである。
というのも、「ギョギョおじさん」こそは
周りからも社会からも奇異な目でみられている対象であり
そんな存在に向き合えるのはミー坊ぐらいのもので、
ここにこの映画の、けして声高ではないささやかな主張さえも感じるのだ。

ギョギョおじさんの登場を、なにかに喩えるなら
トレンチコートに傘、ハコフグ帽とくれば
これはあのタチにとってのユロ氏のイメージに近いものにみえても
いっこうに不思議じゃないだろう。
世間からいくらダメだしを食らっても、
ユロ叔父さんこそはジェラール少年にとって希望の存在であったように、
ミー坊にとってもまた、ギョギョおじさんはいっぱしの不審者などではなく、
「さかな博士」になるという自らの未来へのガイドそのものなのだ。

pocopen & nishiwaki : merci neighbor 

その昔、その名も「さかな」という名義で地にバンド活動をやっていたpocopen & nishiwaki の一曲「merci neighbor 」。さかなクン同様、好きなことしかやらないふたりの音楽はいまもその輝きを失わず、静かに、やさしく語りかけてくれる。そのまま映画のサウンドトラックになっていてもおかしくない、そんな魅力にあふれたナンバーだ。

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