吉田大八『桐島、部活やめるってよ』をめぐって 

桐島、部活やめるってよ 2012 吉田大八
桐島、部活やめるってよ 2012 吉田大八

好きこそものの上手ナレーション

学生の頃の記憶・・・
かれこれ何十年も昔のことで幾分霞がかかっている。
今ドキの十代の群像と言われても、
まったく知るよしもない歳になってしまった今日この頃だ。
教室の空気って、はて、どうだったかなあ?
同級生たちの表情、仕草、振る舞い、それこそ、ある日ある時の自分自身・・・
今更頭をよぎる瞬間すらほぼないといっていい。
しかも、男子校だった我が青春の日々に
共学下のワイワイガヤガヤ、キャーキャードキドキ、
そんな花の高校生活のなんたるかなんて、わかるはずもないし、
正直、さほど興味があるというわけでもない。
ましてや、こちら帰宅部、部活すら経験したこともないんだから、
ほぼ妄想の域といって過言ではない。
が、そんなもやもやした思いをどこかに抱きながらでも、
原作朝井リョウ、監督吉田大八監督による『桐島、部活やめるってよ』について、
感心と共感を抱きえた一作品として、語ってみよう。

率直な感想からいうと、今も昔もそんな違いはないんじゃない?
そういうことだ。
個々のドラマは学校の数、クラスの数だけある。
あのあたりの多感な年頃にとって、
必ずしもストレートに思いをぶつけ合うという感じでもないし、
なんとなく表層を装い、牽制し合い、どこか自分をひた隠しながらも、
成人以降の人間関係の雛形を経験し、そして育成する場とでもいうべきか。
そういう意味では、今見昔も大きな違いはないのだと思い当たる。

そもそも高校生にもなれば、大人社会の真似事を意識し、
大抵の駆け引きや根回し、つまりは本音と建前を使い分けるぐらい当たり前だ。
本音なんて、そう簡単には外に出さないし、建前など端から“込み”である。
ゆえに悩み、ストレスを溜め、
スクールヒエラルキー、スクールカーストの呪縛からも
若くして、すでに逃れられない罠に陥ってしまうのかもしれない。

桐島という生徒は、バレー部キャプテンで
誰もが認める校中のスターである。
容姿はもちろん、性格もいいらしい。
が、どうもその存在だけが一人歩きして、
一向に姿を見せることのない映画になっている。
彼が部活をやめ学校にも来ず連絡も取れない・・・
まずはそんな不穏な「金曜日」の放課後から始まる。

終始不在、その設定がすでにそそるのである。
では、ここでの“桐島”とは、いったい誰なのか、何なのか?
日本でいうところの天皇のような存在だと、監督自身が語っている。
ロラン・バルトが『表徴の帝国』内で指摘したように、
皇居が中心に位置する日本の中心不在観と一致する。
つまり、『桐島、部活やめるってよ』におけるこのアイコンは、
彼ら高校生にとっての支柱でありながら、
姿が見えなくも、ひとつの観念のようなものとして描かれている。
その中心が急にいなくなるという混乱を描くための記号にすぎないのだ。
よって、単なる青春映画ではない普遍的なテーマを、
わざわざ誰もが一度は通る学園群像劇に落としこんでいるところに、
この映画の親和性および共感力があるといえる。

女王蜂を失った巣(教室)のごとく混乱をみせる生徒たちの数日間。
では、そのことは一体何を意味するのか?
簡単に言ってしまえば、生きる意味、そのものである。
桐島とは親友関係にあり、こちらもまた
勉強、スポーツ、容姿、そして人気、あらゆるものに秀でており
周りにもとけこんで、それなりに振る舞いうる中心的人物にもかかわらず、
真の意味での充足感に満たされない男子が東出昌大演じる宏樹である。
ガールフレンドの沙奈は、
そんな宏樹をボーイフレンドにもつ優位性を前面に押し出しくる女子で、
遠方から好意をいだいて宏樹を眺めながら
サックスの練習に勤しむ吹奏楽部部長亜矢に
マウントを取るような態度を見せつける。
で、その失意から、逆に自分を取り戻し居場所を再び見いだして
吹奏楽部の部活に戻る女子である。

一方で、映画オタクで、8ミリカメラを抱えて、
絶えず映画作りに奔走する神木隆之介演じる映画部前田の価値は、
映画という好きなことだけで世界に繋がっているだけの男子である。
いみじくも、後に映画の脚本に
「自分たちはこの世界で生きていかなければならないのだ」
そんな名セリフを書き記す。
あるいは、来るはずもないドラフトのために、
引退を引き延ばして部活に勤しみ、
黙々とバットをふる野球部のキャプテン同様、
それぞれに自分の好きなことにひたすら邁進する姿を前に、
校内の象徴「桐島」を失った喪失感とともに、
万能の宏樹から滲み出す虚無感、焦燥感、
その対比がみごとに描き出されているのだ。

だれに感情移入するか、まったく自由な青春群像劇でありながら、
各々の生徒たちは、スクールカーストの下で
日々繰り広げられる主人公たちの生き様と均衡に
影を投げかける振る舞いで物語を彩ってゆく。
個々のキャラクターに関してはここでは必要以上に掘り下げるつもりはない。
親和性と共感という意味では、実質的な主役はこの宏樹であり、
その対極に映画部の前田という存在がある。
前田は映画秘宝(あの映画批評家町山智浩氏が立ち上げた映画誌)を購読し、
ゾンビ映画の第一人者A・ロメロを知ってるかと、
顧問に聞くほどに映画に詳しいオタクで、
授業中も脚本を書いているようなタイプである。
高校生コンクールで特別賞を獲るほどだが
クラス内の評価はさほどでもない。
スクールカーストでは、底辺に位置する人間である。
が、たとえ、クラスの主役になれずとも
自分の好きな映画というものに没頭することで
前田は少なからず、青春を謳歌しているのだ。

この映画のハイライトは、
亜矢が戻った吹奏楽部が奏でるワーグナー『ローエングリーン』のシーンと
屋上でのクラスメイトを巻き込んだ
前田らのゾンビ映画『生徒会・オブ・ザ・デッド』のシーンが
リンクするように描き出されるクライマックスシーンである。
全てが終わった後に、それまで接触のなかった宏樹が
前田に駆け寄って8ミリカメラに触れながら
前田に向かって将来の夢を尋ねるシーンが良い。
末は映画監督? アカデミー賞? 女優との結婚?
前田本人は映画を撮る事がとても楽しいのだと語り、
その他特に明確な目的意識はない事を知って涙ぐむ宏樹の心情が切ない。
まさに、万能高校生が感じる喪失感が一挙に押し寄せる瞬間である。
彼はこの先どこへ向かうのか?
この映画は、そんな野暮なことを一切省略する。
映画での心理状況は、見たままである。
観客は冒頭から描き出される桐島の不在というテーマを受けて
それぞれが、その喪失感なるものをうめて行かねばならないからだ。

『桐島、部活やめるってよ』が同世代共感の範疇超え
幅広い層に訴えかけうる映画になっているのはまさにその一点である。
いみじくも宏樹自身の言葉
「出来るヤツは何でもできるし出来ないヤツは何にもできないって話だろ」
そうしたプレッシャーや呪縛からの解放であり、
周りの目や、相対関係の綾から真に自由に生きるには、
好きな事を突き詰めるしかない、という
これまたシンプルな説得力を伴った事実しかないのだと。
そうした力を、映画オタクやスポーツバカを通して映画を推進することで
痛みやいびつさを浮かび上がらせる青春映画であるところに、
この映画の非凡な可能性を感じるのだ。

できっこないをやらなくちゃ:サンボマスター

この映画にぴったりな曲といえばこれかな。サンボマスターの「できっこないをやらなくちゃ」。単純であることは全然悪いことじゃない。人に笑われるぐらいに愚直さもいいもんだよ。ちょっと臭いぐらいの感じが、青春そのものなんだろうな。「どんなに打ちのめされたって 悲しみに心をまかせちゃだめだよ 」そういうことだ。うん、おじさんも一つキモに銘じよう。

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