当時のニューウェイヴ事情、
それぞれ海外、日本の状況を顧みて
それを独断で表裏にわけて取り上げてみたけれど、
さりとて、単に当時のムーブメントの一部にすぎない。
埋もれたものやスルーしてしまったもののなかにも
注目すべきものはまだまだ無限にある。
それがニューウェイヴの奥深さなのだ。
当時、媒体そのものが、レコードからCDへと
大きく移り変わっていく時代の真っ只中であり、
扱いもメジャーとインディーズとでは雲泥の差があった時代。
それゆえ、逆説的にインディーズと呼ばれる文化が大いに活性化され、
そこで、われもわれもと夢や希望を持って
新しく、自由なものを生み出そうとうする気運にもつながっていったのかもしれない。
時代は熱かったのだ。
売れる、売れないは、商業ベースでは重要な要素だが
インディーズというものが、採算をど返しし、
純粋に、自分たちのやりたいことにかけることに魅力を感じたのだ。
多かれ少なかれ、ニューウェイヴの音には
そうした共通意識が通底していたと思う。
インディーレーベルが跋扈し、
テレビでさえ、「イカ天」なんていう助長番組もあったし、
そうした渦中で、明日を夢見ていたバンドをいくつも見てきた。
個人的にも、まがりなりにも音楽を発信する側であったけれど
わかりやすい曲をライブで発信できるようなタイプではなかったし、
活動範囲もせまく、実に悶々としていたものだ。
今のようなSNSもなく、ネット社会でもないところで
ライブハウスなどでせっせとキャリアを積みながら
メジャーに羽ばたいていったバンドもあったが
やはり、現実は厳しいモノがあったのだと思う。
そんな状況下を少なからず、がんばって生き延びていったホンモノたち。
いまでもその活動を続け、確固たる地位と、
その成果たる音楽をこの音楽史に残っているのは圧巻だ。
それらをふくめて、あらゆる基準をとっぱらって
ただ、そのオーラにのみ純粋に反応し聴いていたものを
あらてめて、再評価すべきものとして、
先入観なしに、ここ裏シリーズとして羅列してみよう。
けして、懐かしいだけの、ノスタルジーではない
オリジナリティに溢れた音楽だけがもつホンモノの力を感じうるはずだ。
Crazy Dream:Friction
T March:Gunjogacrayon
坂本龍一の「B2UNIT」経由で知って、耳にしていた組原正のグンジョーガクレヨン。パンク界のデレク・ベイリーとも呼ばれ、教授いわく「リアルタム・ダブ・ギタリスト」ということで、ロックでもジャズでもない、ひたすら自由なフォームから、ダブ音響系・ノイズ系・ポストロック系、それぞれの要素を合わせもちながら、オリジナルな音をノーウェイヴなくくりで生み出していたバンド。これはPASSレコードから5 曲入LP『GUNJOGACRAYON』としてリリースされていたものだ。
TWIST BARBIE:少年ナイフ
のちにニルヴァーナのカート・コバーンがファンだったということで、全英ツアーにも同行した少年ナイフは、八十年代前半に、大阪で結成されたガールズのインディーズバンドだった。当時の言葉でいうと、ヘタウマのグランジスタイルだった。ぼくが初めて今はない大阪のとあるライブハウスで見た頃は、ボガンボスのドントが前身でやっていたローザ・ルクセンブルグとの対バンだった。まだ、自主制作カセットテープを発表しているような、そんな無名の存在だった。
終曲:Phew
活動歴の長いPHEWにとって、はじまりは前身のバンドアーント・サリーでの活動にまで辿るが、ニューウェイヴの流れでみると、PHEWとしてのソロ・デビュー・シングルを坂本龍一がプロデュースした「終曲/うらはら」にたどり着く。今なお、伝説として語り継がれるに色褪せぬその衝撃は、これを機に、コニー・プランクやカンのメンバーとレコーディングした伝説をさらに付加して続いていったのだ。
めだか:チャクラ
板倉文によって結成されたバンドに、まだ十代だった小川美潮が参加して誕生したチャクラ。プロデューサーが1stの矢野誠から細野晴臣に変わったこの2nd「さてこそ」あたりから聴き始めた口だが、当時、どこにもないふわふわした不思議な空気感をもつ小川美潮に魅了されたものだった。ときにファムアンファンであり、巫女のようでもある彼女の歌の力には、ニューウェイヴという響きを超えた、癒しの力がある気がしていた。
ホワイトマン:突然ダンボール
七十年代後半蔦木栄一・俊二兄弟によって結成された突段こと突然段ボールは、八十年に入って、パス・レコードよりこの「ホワイト・マン」でシングルデビューを果たす。ニューウェイヴ志向はむろん、アヴァンギャルド、オルタナ、のちの活動を追って、聴けば聴くほどまさにカテゴラズできない音楽体系の潮流にいたことをあらためて感じさせる不思議なポジションにあったバンド筆頭だった。
空に舞うまぼろし:マライア
清水靖晃を中心にジャズ系のスタジオ・ミュージシャンたちが介して結成されたマライアは、冷静に聴けば必ずしもニューウェイブバンドではない。しかし、高い演奏技術と面白い楽曲構造による無国籍で、奥平イラのジャケットワークが醸すエキゾチシズム漂うアルバム『うたかたの日々』の雰囲気は、それまでの有り体のジャズ、フュージョン路線にはなかったものであり、実に新鮮な響きをもっていた。
『うたかたの日々』といえば、ボリス・ヴィアンの小説のタイトルだが、ここに漂う人工のエキゾチシズムもまた、この音楽の根底にも流れている共通の美意識のように思われる。
金曜日の天使:近田春夫&ビブラトーンズ
日本の歌謡界とロックとの文化的橋渡し役を担った、まさにニューウィエヴ期カルチャーの重要人物のひとりであった近田春夫が、それまでのタレント業に区切りをつけ、ミュージシャンに専念すべく、福岡ユタカ、窪田晴男とともに本領発揮とばかりに結成したのがビブラトーンズ。そのあたりの空気感が詰まった快作チューン「金曜日の天使」は、何年か前にパスピエによってカバーされている。
Myron: TAKUMI(岩崎工)
キーボードマガジン等でシンセサイザー講座を連載していた当時から注目していた岩崎工。シンセミュージックの先駆的存在だった。FILMSでキーボーディストで参加しフェアライトを駆使したユニットTPOへ経て、「TAKUMI」名義でソロ活動を行なっていた頃のアルバム『Meat The Beat』では、ニューロマンティック〜ニューウェイヴの流れをもった国内におけるポストYMO的な音が展開されている。
Apple Star:イノヤマランド
ヒカシューのメンバーだった山下康と井上誠によるアンビエントテクノユニット「イノヤマランド」への近年世界的再評価が高まるなかで、1983年YENレーベルから細野晴臣プロデュースによってリリースされたファーストアルバム『danzindan Pojidon』には、早すぎた「環境音楽」として、ジャンルにただ甘んじるだけではない、ポップミュージックに重なる歌心のあるアンビエントとして、エレクトロニクスの新たな可能性の動向を切り開いた未来的地図がここに埋め込まれている。
ニューウェイヴ回想電車
ニューウェイヴを我が青春に乗じてざっと振り返りながら
感じたことは、やはりYMOの影響力、
彼らの辿った道の大きさに、改めて感服する、
ということだ。
彼らはムーブメントの中心にいたし、
時代の寵児ではあったが、水面下においても
音楽シーンをささえ、そして、自由に海外とも交流し
音楽のみならず、文化的側面においても一時代を築いた。
その道標があったからこそ、アフターニューウェイヴも
しっかり実力を伸ばし、今日に至っている。
残念ながら、というべきか、当然というべきか
個々の可能性やオリジナリティは確実に進化しているが、
彼らを超えるような存在はみあたらない。
そんなことで、そうした時代を
リアルタイムで、同時代人として
生き証人として生きてこれたことは
かけがえのない体験であり、つくづく幸福な時間であった。
いつまでもノスタルジーばかりを追い求めるもナンセンス
さりとて、歴史的偉業を過去の産物におしとどめるのも違う。
自分のなかの折り合いとしては、
過去と未来、そのあたりのバランスをとりつつも、
かわることのない絶対の思いをここに結んでおこう。
『東京ロッカーズ』の中心的存在、このフリクションの登場は、当時のリスナーというよりは、音楽を志すものや以降のシーンに与えた影響の方を、大きくとりあげるべきバンドだと認識している。だから、のんきにニューウェイヴのくくりに甘んじるより、実質的なポスト・ニューウェイヴの旗手、ひいてはノーウェイヴとしての立ち位置で聴くべきバンドとして、改めて再発見している。それはレックとチコ・ヒゲによる挑発的なグルーブ、恒松正敏のギターの先鋭性などもあるが、そんなサウンドを外部の異質者であった、当時、ダブや音響に通じていた坂本龍一がプロデュースしているというこの『軋轢』の客観性に、その確かさをみる思いがする。