アレクサンドル・ソクーロフ『太陽』のこと

『太陽』 2006 アレクサンドル・ソクーロフ
『太陽』 2006 アレクサンドル・ソクーロフ

天皇は神にあらず。一世一代の大役大仕事に太陽は輝く

終戦記念だからと言って戦争体験もない人間が
適当なこと、偉そうなことなんて書けないし、
別段書くこともないのだが
そんな時、ふと十数年前に観た映画
ソクーロフの『太陽』のことを思い返した。
『太陽』で描かれたのは禁断の象徴たる
昭和天皇その人だったからだ。
無論、そこは日本人であるわれわれに
新たな天皇観を提示することになった、
これは紛れもなく歴史的な問題作で
当時の反響はかなりのものだった気がするが、
なんといっても、ロシアの監督が
我が国のシンボル昭和天皇ヒロヒトの映画を撮るという、
“快挙”、あるいは“暴挙”が
よくも成就したなという思いの方が強い。

いずれにしてもソクーロフの大胆さには開いた口が塞がらない。
とはいえ、『エルミタージュ幻想』では
ロシア300年の歴史を全篇ワンカットで撮り得た監督であり、
これまでにも歴史上の名だたる強者たちを
次々と映画化してきた映画界の猛者に
そんな言葉は無用であろう。

ソクーロフの映画を堪能してきたものとしては、
その手腕は十二分に熟知、評価するところではあるが、
それが我が国の、いわば禁断の領域における
象徴天皇にスポットをあて
映画化するということに興奮を抑えきれなかったのだ。
その作風を一本でも知っているならば、
いまさら驚くほどのこともないのだが
何より、この映画の素晴らしさは
俳優としてのイッセー尾形の存在感であり
その意味で「イッセー尾形、一世一代の大役大仕事」ってことにもなろう。

たしかに一見すると、
これほどまで適役の俳優はイッセーさん以外考えられないのだが
それだけではないんだな、なんていうんだろうな・・・
まるで昭和天皇なんだよ、
一見するに僕らがただ見知っているあの方なんだよ。
うむ、フィクションなんだってわかっていることだけど
そんなわけないんだけど、
なんていうのか、ほとんど知らない天皇のイメージが
湯戻ししたかんぴょうや切り干し大根のように、
じわっとふわっと有機的にひろがってくる感触。
まぎれもなくソクーロフとイッセー尾形が作り上げイメージなんだけど
そこのところは、すごく愛を感じる内容になっているんだなあ、
人間ヒロヒトとしての。

自分は歴史にはあまり明るい人間ではないが
昭和天皇って方は、思えば確かに不思議な存在だった。
映画で描かれていたのもそういうところの可笑しさだったり悲しさだったりするところで
神格化されていたイメージをいかに人間レベルに落とし込んで、
なおかつ行きすぎない、やりすぎないレベルで映画を成立せしめるか?
というあたりで、
日本人じゃとてもできない芸当だったと思うな。

そういう意味で、映画史だけをみても、
異国からの目っていうものは大事にしなきゃならないと思う。
自国の作家の視点がゆきとどかない部分や見せ方を
実に巧みに捉えていることが多いようにも思う。

おもえば、クリス・マルケルの『サン・ソレイユ』や
ヴィム・ヴェンダースの『東京画』なんかがさいたるもので
うまく歴史が解体され再構築される瞬間に出会える映画って気がする点で
貴重な知的財産になっている。
いままでつっかえていたものが、すうっと消え失せるというのか、
映画を通してそんな感じを受けとるなんて
そうそうあることじゃない。
こういう映画を、いまだ靖国問題でぎくしゃくする隣国の人たちがみると
一体どういう反応になるんだろうか・・・
少なくとも映画ファンじゃない一般の日本人にも
観て欲しい映画である。
そして何かを感じ取って欲しい。

天皇が見る悪夢のような空襲シーンなどは、
まったくもって素晴らしい。
焼け野原で、炎上する東京に投下されるあたり
爆弾を魚のCGでもって見事に再現され、
ある種のSF大作の1シーンのようであり、
その前にきっちりヘイケガ二について
仔細に言及する海洋生物学者としての姿を描いた後だったので
実に効果的な見せ方になっている。

ソクーロフの演出は、どこかユーモアにみち、
象徴や責任、といった重い使命の有刺鉄線を
わざと外すような仕掛けにあふれていた。
そもそも戦犯さがしなんてことには一切触れていない。
(触れるようなものが作品化されるとは思えないが)
人間そのものにスポットが当たっている部分で
不必要な部分は巧妙に避けられたのだろう。
戦争の責任部分は、この映画では
自身の処遇をマッカーサーにゆだねてさえいるのだが
この部分の解釈には、いまだ論争の余地があるデリケートなところのようだが、
ぼくは真実を知らない。
おそらく日本では、そうしたリアリティばかりが問題になって
負の部分にばかり目がいくんじゃないかと思うけれど
この映画の眼差しは、善悪二元論の世界ではないし、
むしろ天皇も人の子である、
というのが概ね描こうとする真意だと思う。
そもそもソクーロフという監督が
そんなストレートな表現を採る訳が無い。

「あ、そう」という例の陛下のいいグセを
非常に効果的に使いながら
唇の動きだとか、消え入りそうな会話、
繊細でありながら人間味のある像を描いている点に
長年ひとり芝居で培ったイッセー尾形の芸人魂を感じる。
俳優とか演技を越えたところにある空気を作り出すというところで
彼の役者としての面目躍如たる個性が光る映画になっている。
その意味でも、イッセー尾形の起用は慧眼である。
もっとも、あまりのはまりように、
この人しかいない、ということなのかもしれないが。

それにしても「歴史四部作」という壮大なシリーズを
大胆に敢行してきたこのロシアの作家には敬意しかない。
『モレク神』でヒトラーを、『牡牛座』でレーニンを、
そして三作目がこの『太陽』で昭和天皇、
ラストにはゲーテの『ファウスト』。
こうなったら、次はいっそフセインかビンラディンか、
はたまた正恩氏でもいっとくか?
というような下司なリクエストにも及んでしまうが、
むろんそれは冗談に過ぎない。

個人的にはまた文学路線にもどってもらい、
そこで日本の文学を下敷きにしたようなものなんかやってほしい気がしている。
谷崎もの、あるいは源氏物語まで遡ってもらってもいいんだけれども。
ソクーロフという人は、案外「もののあはれ」なんかを
巧みに表現できる作家ではなかろうか、そんな直感がある。
というのも、もうソクーロフぐらいしか
そんな芸当ができる作家はいないと思うし
さらなる驚きで楽しませて欲しいと密かに期待するわけだ。

異国の人間にチカラを借りなきゃいけないのは
ちょっと残念という気持ちもある。
まあほっておいてもなにかあっと驚くことをやってくれる監督なので、
そこは静かに動向に注目しておこう。

今現存する世界の映画作家で、
ソクーロフは最高峰に位置する監督である。
イーストウッドやゴダールはいまだ健在で現役だが
テリトリーもスケールも全く違う。
その個性、オリジナリティは比類なきものだ。
もっとも芸術的な評価において、順位付など無用だが、
総合的にみて、いわゆる世俗的評価としてみると
やはりソクーロフはたいへんな力量を持った
現代作家であるとはっきりいいきれる。
それほど抜きん出た想像力とバイタリティーを
作品毎に見せつけている監督である。

その中で『太陽』という
ある意味、我が国民がもっとも見たかった映画を
ロシアの監督に先に撮られてしまったことへのショッキングな事件として
今こそ見直してみるべき時なのかもしれない。

立花ハジメ:WORLD-WIDE TAIYO・SUN

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