その少女は天国を地獄に書き換える天才である
夢野久作ほど、この梅雨の季節に似つかわしい作家はいないと
個人的に思っている。
だから、ふとその書物を手に取ってしまうのだが、
必ずしも陰湿とは限らず、誤解を恐れずに言うなれば
読みだすとなぜだか汗ばむ文学性が癖になってくるのである。
と言って、その不思議なユーモアとミスティフィカシオンの気配が
妙にレトロモダンな感性に訴えかけてくる作家なのである。
だが、ここではその文学性には深く触れない。
その映画化された作品について、語ってみたい。
石井聰互(改め現岳龍)による
夢野久作原作のオムニバス小説『少女地獄』のなかの一編
「殺人リレー」の映画化である『ユメノ銀河』は、
全編モノクロームトーンで、まるで夢のなかのようなできごとが、
淡く甘美に綴られ、不思議な空気感を孕んだ作品として構成されている。
甘美とはいえ、終始謎めいており、
結論から言えば、それは最後まで一貫して晴れることはない。
まさに夢野久作ワールドの世界観そのものである。
『爆裂都市 BURST CITY』や『逆噴射家族』のように、
話が劇画のごとく激情化する作品を
手がけてきた石井聰互作品にすれば
極めて異質な質感を漂わせてはいるが、
『ユメノ銀河』には個人的に、もっとも惹かれてしまう傾向にある。
幽玄的なホラームービーのような様相を呈しながら
根底には、原作の夢野久作ワールドを視覚化したもの、
と言って仕舞えば、まさにその通りの世界である。
が、文学として成立する不思議な空気感を
映画として、どう捉え直すのか?
そう考えると、不安定な少女というものの
微妙な心理こそが、テーマになっているとも言える作品だろう。
そもそもが「少女地獄」という、このなんとも意味深で、
そそられるタイトルを前に反応してしまうものは
案外多いのではないだろうか?
それが夢野久作文学の、いかにも巧妙な入り口だと言えるかもしれない。
しかし、石井聰互はそれをあたかも夢の中に移し替えたように
『ユメノ銀河』として、再構築した。
ここで、浅野忠信は元より、若干16歳小峯麗奈の素晴らしさが、
文学にはない息遣いによって、
別の不可思議な空気感をもたらしていることに気づくだろう。
少女でもなく大人の女でもない、
この微妙な年頃のヒロイントミ子は
女たらしで、しかも殺人者だという噂の男に出会って
微妙に揺れうごく女心を見事に演じきっている。
それは決して少女の甘美さではなく
儚さそのものが、むしろ芯の強さによって、
居ても立っても居られない恋心として
「この人には殺されてもいいような気がした」のだとつぶやかせ
危険との背中合わせを伴いながら、少女を地獄へと誘うのだ。
時代は、昭和初期。
ノスタルジックなバスに乗り合わせる二人・・・
とあるバス会社の女性車掌、友成トミ子嬢は
この職業自体に憧れを抱く友達に
女車掌なんてなるもんじゃない、
そんな幻想は捨てたほうがいい、
といった内容の手紙を送るところから始まっている。
トミ子には、同じく同業者のツヤ子という知人がおり、
そこからまた奇妙な手紙が舞い込む。
どうやら、業界の危険人物の話であり、
その危険人物とやらに、ツヤ子自身がすでに求婚されており、
いよいよ結婚間近という婚約段階になっているという。
そのツヤ子へまた、どこからともなく、別会社の忠告者から、
そちらのバス会社に危険人物がいくことがあるかもしれない、
という、ある種の警告が送られてくる。
当人は結婚を控えた、一応は幸福の身だが
内容が内容だけに、穏やかではない。
その男は、つまるところ、女たらしであり
次から次へと手を出して、飽きた暁には殺してしまう、
という、一種のシリアルキラーらしいのである。
この「らしい」というのものが曲者で
そういう内容の手紙をトミ子が受け取ったことを
智恵子に知らせてきたことで、
物語は一気にミステリアスなムードに入ってゆく。
こうなると、なんだか関係が複雑に入り組んで
何が何だか訳が分からないが、
このあたりの設定が絶妙なのは
すべて手紙を通して語られるというところの妙味がある。
タイトルの『殺人リレー』は
言い換えれば、手紙のリレーによって、
その中身だけが一人歩きする内容を映画化しており、
現実と夢の区別がつかないのも当然である。
というわけで、ミステリーかつ、
幻想的な空気感に包まれた中で、
その事実が徐々にあきらかにされてゆく、
というような簡単な謎解きでもないところがまた、
この作品の最大の魅力を引き出しているように思える。
果たして、新高という男は噂通りのシリアルキラーなのか?
そんなことに着目してもいっこうに想いが晴れることはないのだ。
このミステリアスな男新高を演じるのが、浅野忠信である。
浅野忠信という俳優の懐の深さは、暴力をうちに抱えながら
それを一度もはっきすることがないということである。
その衝動の発露を伺いながら爆発させる若者だけではないのだ。
こうした謎めいた役においても、
必要以上の情報をそう簡単に滲ませたりはせず
絶対の呼吸を持って、けして手抜かりがないのである。
この噂の男は、風変わりなやつ、嫌なやつでもない。
じつに憎い男なのである。
それさえも、これ見よがしに引き立たせることはない。
仮に、そうでなかったならば、
この物語自体が成立しないということにもなる。
単にミステリアスで、なにをしでかすかわからないという男だけでは
せっかくの久作ワールドとしては味気ない。
だからこそ、新高はいっさいその爪痕をみせることはなく、
最後は、その噂すらも曖昧のままに
自ら事故に巻き込まれてしまう。
結局、残されたのはトミ子である。
少女の方である。
ひたすらトミ子のなかで膨らんだ妄想に最初から結論などないのだ。
これこそが「少女地獄」というべきものの正体であるかのように、
堂々巡りの中、ひたすら深い沼に埋没してゆくだけだ。
ただ、そのお腹にはあの新高との生命が宿っているのである。
こうしてみると、結局のところ、
地獄が語られるのは、一方的に少女側からだけである。
それも地獄、でもなんでもなく、
夢、あるいは幻想、妄想、そうした少女の心模様に
終始取り巻く危うさだけである。
男はあくまでも、その前の事象でしかない。
そこにあらわれるトンネルの闇や雨の叙情が
この答えのない物語を空虚さから救い出して、
物語に光、すなわちかすかな希望を投げかけて終わるのだ。
少女が男に恋した話を、こうまでしてまわりくどく
意味深な含みを持たせる夢野久作の世界に、石井聰互の思いが重なって、
見事に文学が映画に昇華された映像マジックに
酔いしれる作品である。
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