フランソワ・トリュフォー『大人は判ってくれない』をめぐって

大人は判ってくれない 1959 フランソワ・トリュフォー
大人は判ってくれない 1959 フランソワ・トリュフォー

師と死と詩に捧げる反抗への狼煙、永遠への眼差し

我が部屋には、30年来、一枚のポスターが揚々と掲げられている。
それは野口久光の手による『大人は判ってくれない』のポスターである。
反抗、抵抗、この手の言葉を考えるとき、
まず頭に飛び込んでくるイメージがこれだ。
それはイコール、ムッシュ・ヌーヴェル・ヴァーグ、
またはその申し子たるジャン=ピエール・レオーのことでもある。

脚本家の父、女優の母親の元に、まさに映画の申し子として育ったレオーは
1959年、自らそのオーディションに応募するや、
トリュフォーの目に留まり、この『大人は判ってくれない』で
そのキャリアをスタートさせ、はや60年以上の歳月が流れている。
最近では、諏訪敦彦の『ライオンは今夜死ぬ』で
その健在ぶりをのぞかせてはくれたが
なにしろ、かつてみせた、あのこまねずみのように
ちょこまかと、すばしこくかつ落ち着きのない様で、
不器用なまでにわれわれを惹きつけてやまなかったこの俳優も
随分とくたびれたものだ。
歳には勝てないのか。

とはいえ、確かにそこに居合わせるだけで
ファンにとっては具足しうるだけの存在感を誇示するのがレオーである。
そんな思いこそがこのレオーを、たとえちょい役であれ
スクリーンに登場させたい最たる理由ではなかろうか?
そんなレオーの代表作として、
記念すべき第一作『大人は判ってくれない』の
若き日のレオーをまず、とりあげぬわけにはいかない。
なにしろ、たとえ初々しい13歳だろうが、
その後半世紀も経たくたびれた73歳だろうが
結局はレオーはレオーでしかない、
という絶対的神話性がスタートを切った重要なる作品なのだから。

もはや現代的風景などなにひとつない
ノスタルジックなパリの街並み、空気も手伝って、
これは、ヌーヴェル・ヴァーグ史、
ひいては映画史の一つの事件だったことを再確認させられる。
いみじくもトリュフォーの自伝的要素を元に撮られ
トリュフォー映画を黎明期からささえたアントワーヌ・ドワネルが
その雄姿に啓発されたヌーヴェル・ヴァーグ以降の映画史に堂々君臨し続け
今日まで伝説のごとく語り継がれてきたのは間違いない事実なのだから。

トリュフォー自身が子供の扱いに長けていることは
のちの『トリュフォーの思春期』でも十分証明されている。
ドワネル=トリュフォーの分身、というべきこの一体感、
この奇跡のような出会いとコラボーレーションは
その信頼関係において、トリュフォーが死ぬまで変わらなかった。
アントワーヌの代役はだれひとりいまい。
自叙伝作品という見方を肯定しながらも否定しているのは
「アントワーヌというのは、わたしたち2人を合わせて生まれた
架空の人物だと考えている」とトリュフォー自身による言葉を
元カイエ・デュ・シネマのセルジュ・トゥビアナが証言しているように、
『大人は判ってくれない』のレオーが
のちのヌーベルヴァーグの息遣いを
すでにここで体現してしまっているからでもあろう。

まともな愛情を受けず愛を渇望する少年は、
両親に面と向かって反抗することはない。
むしろ、身勝手で大人たちの責任逃れによって
結局無力にも少年鑑別所へ送られてしまう。
理解なき大人たちに抗うには、
映画という魔法に委ねるしかなかったのである。
学校ではおちこぼれ、作文の宿題にバルザックの小説を剽窃し、
教師からはこっぴどく叱られ、
家では、そのバルザックを神のように崇め
蝋燭を灯すことでボヤを起こしたり、
学校をさぼった理由に、とっさに母親の死をでっちあげる。
あげくに、悪友ルネとともに
父親の会社に忍び込んで、タイプライターを盗み出し
それを売りさばこうとしたりする悪童である。
とはいえ、こうしてひとつひとつの悪童ぶりは、
通常の手に負えない悪童とはあきらかに趣きが違っている。
知能犯というわけでもないし、世間を震撼させたり、
暴力で誰かを傷つけるわけでもない

まるで、おびえた小動物のように、たえずそわそわし
せいぜい石炭で汚れた手をカーテンでぬぐい、
家を飛び出し、街をさまよい、空腹や乾きを牛乳を盗んでしのげば、
映画館からはベルイマンの『不良少女モニカ』のポスターを盗む程度なのだ。
大人の顔色を伺いながら、どこかで愛情の拠り所を探し
さすらうことで、なんとか光明をみいだそうと必死なのだ。
大人になったアントワーヌは、さらに小賢しさを身につけ、
身勝手な振る舞いに高じることになるわけだが、
鑑別所を抜け出し砂浜に立つ少年アントワーヌの目にひろがる海。
そこには、将来の展望などまったくなにもないのである。
アントワーヌが手にしたものは、寄せては返す
ただ自由という名の響きだけである。
ここにアントワーヌに自殺願望を読み取る声もあるらしいが、
まちがってもトリュフォー=レオーのまなざしに、
自殺などという選択肢はない。
彼らがひたすら夢見るのは自由への乾きだけなのだ。
だが、その姿に心が揺さぶられるのである。

この映画は、映画狂トリュフォーの映画愛がいたるところに満ちている。
ジャン・ヴィゴ、ジャン・コクトー、ルノワール。
そしてヌヴェール・ヴァーグの手法に決定的影響をもたらしたロッセリーニ。
もちろん、ヒッチコックの名も忘れるわけにはいかないだろう。
しかし、冒頭で捧げられているのは批評家アンドレ・バザンへのオマージュだ。
トリュフォーにおいては、バザンの愛は絶対的なものだった。
ドワネル同様に、愛情に飢えたトリュフォーを勇気付け、
公私ともに面倒を見、まさに父親がわりの存在だったのだ。
そのバザンはこの『大人は判ってくれない』の撮影初日に
四十の若さで夭逝してしまったのである。

だからこそ、ラストシーンのあのドワネルの佇まい、
決して幸福感に包まれぬ、ただ虚空を見つめる眼差しのストップモーションは
そうした真の理解者を失った悲しみ、喪失感を
一身に宿したトリュフォーの思いをドワネルが代弁してみせているのだ。

ムーンライダーズ:大人は判ってくれない

映画の原題は「Les Quatre Cents Coups」(直訳すれば「400回の殴打」というべきか)の本当の意味は、「faire les quatre cents coups」つまりは、「だらけた生活をおくる」という意味のフランス語の慣用句である。そんな蘊蓄はさておき、確かに「大人は判ってくれない 」の方が刺さるのは間違いない。ムーンライダーズにそんなタイトルの曲がある。ムーンライダーズの6枚目のオリジナル・アルバム『CAMERA EGAL STYLO/カメラ=万年筆』はコンセプトが『架空の映画サウンド・トラック』からの一曲。

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