ベースの異邦人はジャパンに帰す
元ジャパンのベーシスト、ミック・カーン。
キプロス生まれのイギリス育ち。
一度聴いたら忘れられないベースラインゆえに、
いまだ神のように崇められている伝説のミュージシャンだ。
そのミックが他界して早十年の月日が流れた。
キプロス、イギリスと続く、
彼の第三の故郷とよんでさしつかえのない、
この“ジャパン”においては、
ひょっとすると、晩年はNINAやDEPといった
プロジェクトバンドで活動していた、
ちょっと見慣れないが、なんとなく収まりのいい、
異国人ベーシスト客人として、認識されていたのかもしれない。
もともとジャパンそのものが、
日本との関係性を抜きには語れないバンドだったとはいえ、
解散後すでに40年弱もの歳月を経た今も、
ミック・カーンほど、日本人ミュージシャンたちに、
あるいはリスナー達に愛されてやまぬベーシストも
めずらしいのではないだろうか。
そんな思いから、ミック・カーンの命日にちなんで偲んでみたい。
元”同僚”である土屋昌巳を皮切りに、矢野顕子、布袋トモヤスから
SUGIZO、詩人の血、Holiこと小林明子、
篠原ともえ、エミコ・シミズことApache61、
そして半野芳弘など、日本人アーティストとの共演は数知れない。
あの奇抜な出で立ちとその独特のベースラインと、
その人懐っこさを慕っての交流が、
国境を越え、ここ日本で活発に行われていたのが、
つい昨日のことのように思えるのだ。
そもそも、独自の方法論を押し広げ
みるみるうちに変貌をとげていくことになる
ジャパン個々のメンバーのなかで、
誰よりもはやく精力的に対外的なセッション活動を展開したのが
このミックだった。
概して、この超個性を共有するということは、
決して生易しいことではないのは、
そのサウンドを聴けば如実にわかる事だ。
少なくとも、スタジオセッション的安易な招聘は、
命とりにさえなりかねない毒性を発揮したことは否定できない。
まさに食うか食われるか、である。
なんといっても、あのベースラインになまじ対抗する音は
ことごとく葬られてしまうのだから恐ろしい。
もっとも、その固有のサウンドの価値を
ex-japanブランドとしてクレジットしたがる、という理由や、
テクニカル的な要求にうまく応じられないからとして、
自ら一時その音楽活動さえもあやぶまれたというのだから
このセンシティブな精神性をもつ音の宿命はかくも繊細だ。
しかし、その反面、ミックが誇示した強度とは、
ポップミュージックの分野においては、
少なくとも、未だ他に比肩しうるものがない。
かつて、ピーター・マーフィーとのコラボレーション、
ダリズ・カーでは、バウハウスのフロントマンですらも
ミックのベースに食われてしまっていたほどであった。
(それが継続的活動を寸断してしまったのはいうまでもない)
その意味では、ジャパンとしての均衡、
以後ex-Japanのメンバー間で保たれる音楽的な共存こそが、
すこぶる安定したホームポジションだったのだろう。
当時、自ら最強のリズム隊と胸をはったのは
ジャパンのフロントマン、デヴィッド・シルヴィアンだった。
彼のみがあくまで対等に共存しうることのできる、
等身大ミック・カーンとしてのホームポジションにおける
真のパートナーだったことが
ジャパンのアルバムを聴けば容易に理解できる。
それ故に、ロック界にありがちなバンド内での対立から
亀裂を生むという流れに抗えなかったのは返す返すも残念であった。
そんな個性派集団の調和的な帰結として、
Rain Tree Crowからシルヴィアン抜きのJBKとしての活動が、
哀しき実体を物語っており、
解散後の80年代は、まさに、シルヴィアン抜きの同胞共同体が
彼らの活動を支えていたのである。
個性的ではあったが、あくまでもパターンに忠実だった
ジャパン時代の演奏からの一番の変化といえば、
マーク・アイシャムやデヴィッド・トーンとのコラボレーションによって
音楽的な意味で開眼して以来、
インプロビゼーションを含む、ライブ感性のタフネスさ、
柔軟さを加味したことだろうか。
その成果として発表された90年代のソロアルバム
『BESTIAL CLUSTER』や『Tooth Mother』を聴けば、
それまでにないダイナミズムが如実に反映されていることがわかる。
より一層、音の自由度に拍車がかかったミックのベースプレイは、
ジャズや既存のフュージョンなどに収斂されることもなく、
あの執拗なまでの土着的ラインのうねりを終始全うした。
ゆえに、このベースプレーヤーの存在は、
なにかと商標のように独り歩きしてしまいがちであった。
今一度、そんなミックのプレイを再評価する声は常にあるが
その不在による喪失感がそう簡単に埋まるとは思えない。
実際ミック・カーンが評価されていいのは、
スタイルの独創性より、むしろ音に対する、
その驚くべきフレキシビリティなのだ。
2000年にリリースされた半野喜弘とのコラボレーション『Liquid Grass』では、
その方法論において、コラボレーションの
新しい形を提示したものとして記憶されている。
A-DATによるやりとりで、音が再構築されるという形式をとり、
ミックのベースラインが、ドラムンベースやサンプリングによる
音の構築の、さらなる解体、再構築をくり返したうえ、
幾重にも重ねられながら、
実にスリリングな生演奏とトラックサウンドの融合が、
半野のアレンジの上に展開されている。
肉体とテクノロジーの対峙、という意味で、
クラブミュージックやフリーミュージックの新しい形という意味合いでは、
これは当時として、実に革新的なアルバムだったと言える。
また、ミック自身は多彩な楽器奏者として、
あるいは独立したコンポーザ-としても認識されるべきである。
学生時代はオーケストラでバスーン(ファゴット)を吹いていた経歴から
ジャパン時代からベース以外にも早くからSAXを吹き、
『each to path』では、以前にもましてミニマリスト、
アンビエントなアプローチで、
摩訶不思議なミックワールドを形成している。
ジャパン時代、ほとんどの楽曲クレジットが
シルヴィアン名義だったのは、単にイニシアティブの問題にすぎない。
最初のソロアルバム『Titles』では、その不満から一転自由を謳歌している。
以後のメンバーの活躍をみれば何をかいわんや、である。
なかでも、はやばや独自に歩みを進めたこのミックは、
管弦楽からパーカッション、キーボード、
そして下手ウマ御愛嬌のボーカルにいたるまで、
彼はトータルなサウンドクリエーターとして、
唯一無二な世界観を、ジャパン在籍時よりすでに発揮していたのだ。
結局のところ、あくなき好奇心、探究心の行く末が、
ミックの無国籍な音の源泉として記録されていくのである。
とはいえ、唯一無二のベースプレヤーとして、
ミック・カーンのその最高の形は、ポップミュージックの中で展開される
といっても過言ではない。
ただ、上記の日本のポップミュージシャンとのコラボレーションが、
必ずしも成功しているようにも思えないのは、
やはり真のボーカリスト不在のアルバムでの孤軍奮闘、
いちげんさんプレーヤー、といった観がいなめないところにある。
それにはジョン・ア-マトレイディングや、No-man、
ケイト・ブッシュとのセッションや
一度切りの再結成「Rain Tree Crow」でみせた、
おのおの生の肉声と共存しうる
ミックのベースプレイを聴けば納得できるだろう。
この融合によって、プレイヤーとしてのスタイルが、
機械やテクニックだけでは絶対にこえられない領域で、
惨然と輝くことになるのだから。
唄うベース、この生き物のような低音の蠢きこそは、
ミックの中にこんこんと湧き出るギリシャ的風土のパッション、
すなわち情感のなせる技だ。
たえず安易なBGM的な音響化を、安易に許さない所以はそこにあると言える。
それゆえにやはり、ミックのベースは、
たえず”対話”を欲しっているように聞こえるのだ。
同時に、あのシルヴィアンの声との相性以上に、
この強烈な個性の音が、真に対等、もしくは
いきいきと受け止められることがなかったのだろう、ともいえる。
ここに、ミック・カーン最大のジレンマがあった気がするのである。
ファッションリーダーは若気のいたり?
跳んだり跳ねたり踊ったり、
というのは一昔前のミュージシャンのステージアクションとしては、
概ねおどろくべきことではないが、
ジャパンのラスト・ライブで見せた、バレリーナよろしく、
ポワントであの高速移動しながらベースを弾いてしまうという秘儀は、
この人をおいて他にだれが真似できよう!
その斬新かつ驚くべき、通称”カニウォークプレイ”は、
ラストライブアルバムの、『oil on canvas』ライブビデオクリップに、
しっかりと刻印されている。
この不可思議なる動きは、ほぼ四十年の歳月を経ても、
いまだ鮮明に脳裏に焼き付いて離れない光景のひとつだ。
おそるべし、ミック・カーン。
その外観にせよ、デヴュ-当事のジャパンが、
音よりもルックスに注目されていたのが、今では嘘のようである。
とりわけミックは奇抜で、サービス精神も旺盛だった。
その音以上に、その外観の異様さはジャパン内部においてさえも、
やはり突出していたのだと思う。
いまでこそ、巷には珍しくもなんともないことだが、
派手なメイクアップはもとより、レディースもののジャケットに、
赤い髪に赤いプラットホームシューズと連綿と続き、
唐突に眉をそり落としたかと思うと、
能面のようなメイクキャップ、そしてピアスやノーズピアス、
スカーフを巻き、しっぽ付きヘアーと、
枚挙にいとまがない“ファッションショー”を展開し、
個性という点では、あのシルヴィアン以上に際立っていた。
当事「ニューロマンティック」なる現象の一部に
組み込まれんとするジャパンのなかにいて、
ファッションリーダー的なスタンスで、
そのスタイルを四季折々に変遷しながら、
ミック自身は、グループの魅力を、別の面で支えていたし、
実際に楽しんでいたように思えるのだ。
今日、日本のいわゆるヴィジュアル系と称するジャンルでは、
多かれ少なかれ、音楽性よりも、このジャパンというバンドの
”若気のいたり”における美意識のほうにこそ、
かえって多大なる影響が伺えるところが面白い。
「若いときにはだれでもそういうときがあるものだよ」・・・・
ある時から、「もうオケショウはしないよ」と一笑してしまった彼ら。
かつての”ファッションリーダー的”ミュージシャンをして、
今や過度な装飾性には距離があるのは
時というものの為す効能ではあると思うが、
ベースプレイ同様、この感性の奇抜さは、
やはり、キプロスで生まれ育ち、
移民としてイギリスという異国に流れてきたなかで培った、
異質な環境に融合しなけばならないとする、
本能的な対応力(=抵抗力)にあるのかもしれない。
音への影響はこうした環境が多分に反映されているのかもしれない。
また、彼は彫刻家としてもその名を轟かせており、
一時はミュージシャンを本気でやめようと考えていたという。
ベースライン同様、その作風も独特な世界観を確立している。
一筋縄ではいかぬ、その超個性をくり出す表現のアウトプットを
音楽活動の合間に発散しつづけて、
ますますその活動から眼をはなせない個性のひとりとして、
裏通りの音楽シーンに、絶えず特異に君臨しつづけていたのが
ミック・カーンという稀有なアーティストだったのである。
その意味で、八十年代ポップミュージックという分野において、
かつては、ベースという陽のあたらない楽器が奏でる低音という
支えるだけの「うらかた」である概念に、
真の終焉を突きつけ、つまるところベースが曲の核をも担い、
リード楽器にさえなり得るいう流れを堂々宣告したのが
このミック・カーンという個性ではなかったか、という気がするのである。
そんなミックも、2011年に癌によって、
すでに52歳の若さで、その生涯に幕を降ろしてしまった。
そのミックの影響力は、
生の彼を知らない世代へも間違いなく伝播しており、
ますますその伝説が独り歩きして行くタイプのアーティストとして
その名が刻み続けられてゆくにちがいない。
これまでに、残してきた楽曲や演奏を含めたあらゆる活動は、
いまでは動画やインターネットなどでも、
あたかもリアルタイムであるかのように容易に再生されているが、
やはり、ミックの最大の魅力が、なんといっても、
気心知れた旧友たちとスタートした
ジャパンというバンドにこそあったということを、
改めて感慨深く思い返すのだ。
再結成の可能性が完全に閉ざされてしまった今、
このベースの異邦人の不在を、誰よりも嘆いているのは、
解散以降はほとんど重なることのない活動を、
半ば意識的に取ってきた感のある、
古き盟友デヴィッド・シルヴィアンなのもしれない。
両雄並び立たず、とはよく言われるところだが
ちなみに、ジャパンというバンドの名声が頂点に立とうとしたとき、
わずがデビュー五年ほどで解散の運びになった理由も
そこに原因があると言われている。
結果的に進む道は大きく分かれてしまったのは
音楽性の相違、というよりは、むしろ個性の相違だったのである。
そのあたりの真実はミック自身による
「ミック・カーン自伝」のなかで赤裸々に告白されている。
要するに、感性は共有できても、
個の尊重なき集団の悲しい運命を辿ってしまったのというのである。
その意味では、ロック史にはよくあるメンバー間の対立の構図によって
亀裂が埋まらずに閉じてしまった彼らの輝かしい歴史に
一抹の寂しさが込み上げるてくるのである。
ミック・カーンをこよなく理解するためのアルバム10選
Gary Numan:Dance 1980
いち早く対外セッションを始めたその第一弾がこれだった。
当時のゲーリーは、ジャパンの追っかけをしていたぐらいだから、相当影響を受けていたのだろう。
サウンド面では明らかで『GENTLEMAN TAKE POLAROID』あたりの姉妹盤と言っていい雰囲気がある。
Japan:Tin Drum 1981
ジャパンの最後にして、最高傑作。
サウンド的にはYMOからの影響が色濃く反映されてはいるが、
他の追随を許さぬリズムセクションにおいて、
彼らのオリジナリティが際立ち、ミックのベースプレイもいよいよ完成の域に到達している。まさに、エレクトロニクポップの金字塔である。
Mick Karn:Titles 1982
ジャパン解散後、いち早くソロ活動にうってでたミックの記念すべきファーストソロアルバム。ジャケデザインはちょっと??だけど、このアルバムを聞く限り、ジャパン時代のフラストレーションが実にわかりやすく消化され、その指向性を示すことに成功し、コンポーザーとしての真骨頂が大いに発揮されている。
Dalis Car:The Waking Hour 1984
バウハウスとジャパンという夢の結合がどう出るか、というところで、当時は注目が集まったが、結果的にはミック・カーンのソロアルバムにピーター・マーフィーがゲスト参加した格好のアルバムになってしまった。バウハウスファンにとっては肩透かしを食ったことだろう。
単発で終わったのも当然か。ミックのベースプレイの円熟度だけが際立っている。
土屋昌巳:Rice Music 1982
ジャパン以外のメンツで、もっとも相性がよかったのが。この土屋昌己とのコラボであった。一緒にツアーに出たり、公私ともに付き合いが続いた。盟友スティーブ・ジャンセンとともに参加した本アルバムは
アフタージャパンとしての活動の勢いがイキイキと刻印されている。ここにシルヴィアンのボーカルがあれば、
ジャパンのニュープロジェクトになっていてもおかしくなく、
その嗜好が如実に継承されているのがわかる。
Joan armatrading:Hearts & Flowers 1992
ミックのベースの最大の魅力は歌ものを伴ってこそ、最大限に発揮される、というのが、私見なのだが、
その証明とも言えるのが、このアーマトレーディングのアルバムだと思う。
友好的関係から生まれた音の調和がここにある。
個性を過度に主張しなくとも、発揮される楽曲の魅力。
ミックのプレイヤーとしての成長ぶりをみる思いがする。
David Torn MIck karn Terry Bozzio:Polytown 1993
ミックが残した作品の中では、
もっともジャパン時代のイメージからへだった音楽性が
ここに刻印されているように思う。
それはフュージョンでも、ジャズでも、プログレでもなく
新たな可能性を示す面白いアルバムである。
ドラムにはフランク・ザッパとの共演で知られるテリー・ボジオが、生涯ミックの活動を公私ともに支え続けたデヴィッド・トーンのギターとの組み合わせが、ミックの音楽活動に新たな一面をもたらしたという意味では貴重なコラボアルバムだと言えるだろう。
MICK KARN:Tooth Mother 1995
ミックのソロアルバムの最高傑作はこれだと思っている。
相変わらずのミックワールドは健在、
強烈な無国籍ファンクが展開されている。
一曲目から、大胆なまでにディストーションやエフェクトを多用したラインに、進化したミックのプレイを堪能できる。
ドラムにはスティーブの姿はなく、ポーキュパインツリーやキング・クリムゾンで活躍する凄腕ドラマー、ギャビン・ハリソンとの新たなリズムコンビ隊が新鮮な風を吹き込んでいる。
SUGIZO:Truth? 1997
ジャパンフリークで知られるSUGIZOの思い叶っての共演は、
そのリスペクトから、なんの制約もなく
当時の流行ドラムンベースとの相性も抜群のグルーブ感で
自在なミックのプレイを尊重する形が見事にブレなく刻印されている。
SUGIZO名義のソロではあるが、
晩年、公私ともにミックの活動を支えた一人として
最後まで続いた友好関係の絆が産んだコラボといっていいだろう。
HANNO YOSHIHIRO and Mick KARN : Liquid Glass 2000
ミックが残したコラボーレーションの中で、
もっともコンセプチュアルで実験的なアルバムがこれだ。
スタジオでセッションし音を重ねるといったアプローチではなく、お互いのテープを送りあう中で、半野がその化学反応を楽しみながら積み上げ構築したアルバムである。ミックのフレキシビリティが産んだサウンドマジックだと言えよう。
JAPANファンです。聴いていた当時、解散前後ですが、ミックのベースについてよくわかってませんでしたから、最近になって私の中でJAPANがリバイバルして聴いた時にその重要性を認識しました。時すでに遅しですけど、これを読んで失われた部分を埋める助けになりました。
Kaori さん、コメントありがとうございます。
今日はミックの命日でしたね。
自分も、思い出したように聴いています。
ジャパンファンにとっては、
おそらく、そのビジュアル面と音楽性
あるいは、前期のロック色と後期のエレクトロニクス色、
といったそれぞれに支持は別れる場合もありますが、
すべてをひっくるめて、
とても才能ある、稀有で特別な存在であることは
異論のないところしょうね。
しかも、メンバーそれぞれが凄い人たちで
言葉を尽くしても、表現しきれない魅力がありますね。