溝口健二

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.47 新春シネマチャンプルーサイドB映画・俳優

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.47 新春シネマチャンプルーサイドB

昨年末、新春12日をもって ミニシアターの「シネマカリテ」が閉館とのニュースが飛び込んできて、 なんだか寂しい気持ちがしていたところである。 街の名画座がどんどん消えて、 ますます、自宅でストリーミング鑑賞が増えてしまうんだろうな。 それはそれでいいんだが、やはり、名画座が消滅するというニュースは 一映画ファンとして心穏やかではない。 もはや、だれも驚かないレベルで、寂しい気分であることはいっておく。

溝口健二『残菊物語』をめぐって映画・俳優

溝口健二『残菊物語』をめぐって

だが、もしあなたが『国宝』でその血脈の物語に胸震わせた人なら、 どうか一歩だけ時代を遡ってほしいと思う。 1939年、まだ日本映画がモノクロの光と影の中を歩いていた時代。 溝口健二という巨匠が、同じ“芸の宿命”をテーマに、 しかしより剥き出しの形式で映画に封じ込めた作品がある。 それが『残菊物語』である。 これこそは、まさに国宝級の名作であるだけでなく、 今『国宝』を観たあなただからこそ響く、 芸と愛と犠牲の“原型”のような物語がここにあるのだと思う。

赤線地帯 1958 溝口健二映画・俳優

溝口健二『赤線地帯』をめぐって

日本が誇る大監督溝口健二の遺作『赤線地帯』を久しぶりに鑑賞。 この作品は、溝口の代表作としての位置づけは低いものであるが 今見ると、これはこれで溝口らしい作品だといえるし、 あたしゃ嫌いじゃないな。 要はこの映画、売春禁止法をめぐる娼婦(女)たちをめぐる人間模様であり、 決して、エロティシズムがどうの、そんな映画ではないし、 むしろ、リアルな人間ドラマと、 風俗史としての側面において秀逸な映画とさえ思うのだ。 ちなみに日本で「売春防止法」が公布されたのが昭和31年(56年)で 実際に施行されたのが二年後の昭和33年(58年)、 で、この映画の上映が1956年というわけで、 当時の赤線業者および世論の空気感は感じ取れる。 その道を生業とする者にとってはまさに死活問題だったのだ。

『近松物語』1954 溝口健二映画・俳優

溝口健二『近松物語』をめぐって

それほどのことまでをしでかしての危険な恋愛沙汰ゆえに この話は、当時の大衆の胸を打ったに相違なく、 当然、都の民衆たちの耳に入らぬ訳も無く それを西鶴の方は、この姦通譚を 男女の情愛のもつれに重きを置いたが、 近松は、むしろ悲哀としてとらえ 浄瑠璃にして、世評を博したのを下敷きにしたものを、 依田義賢がその両者の間をとって脚本を書いたのが この映画版『近松物語』である。

山椒大夫 1951 大映 溝口健二映画・俳優

進藤英太郎スタイル『山椒大夫』の場合

画面における迫力、人間味。 悪というか、邪念というか 人間としての業の奥行きをこれほどまでに 凄みを持って滲ませる俳優進藤英太郎は素晴らしい。 山椒大夫はちょっと誇張の域を出ないが 守銭奴、あるいは吝嗇な人間、 はたまた助平爺や物分かりの悪い頑固おやじなど 完全なる悪、ではない小市≈民的な悪の権現として この人ほど似つかわしい役者を知らない。 それは名匠溝口作品で証明されている。

雨月物語映画・俳優

溝口健二『雨月物語』をめぐって

その役は朽木屋敷に棲まう死霊であり、 話のなかで、そこだけしか登場しないにもかかわらず その存在感たるや、かなりインパクトの強い役柄である。 能面のようなメイクと艶やかなで陰影ある魔性の女。 相手が森雅之演じる陶工源十郎で 命からがら屋敷から逃げ帰るシーンが圧巻だ。 藤十郎が過ちを悔い、家に帰らせて欲しいと懇願するところへ、 老女と姫が狼狽し、クライマックスを迎える。 織田信長に滅ぼされた朽木屋敷の若い姫君の 哀しい思いを背負いながら、無念とともに消え去っていく情念。 老女毛利菊枝とのコンビにおける怨讐の恐ろしさは 昨今のホラーにはない、独自のムード、美意識を漂わせている。 まさに魔に憑かれた男の無常感がそこはかとなく漂う中 奇気たるまぐわいの宴の余韻が残る