成瀬巳喜男『女が階段を上る時』をめぐって
その上で、この映画における森雅之のグズグズ感、 仲代達矢の小生意気なニヒルっぷり 頑張って生きる女たちの周辺を巡って 男たちは絶えず甘い汁を吸おうと集まってくる。 女は人生に翻弄されながらもたくましく生きてゆく。 こうした一つ一つが積み重なって奇跡のように 上質で無駄のない日本映画の黄金時代を証明する作品に仕上がっている。
その上で、この映画における森雅之のグズグズ感、 仲代達矢の小生意気なニヒルっぷり 頑張って生きる女たちの周辺を巡って 男たちは絶えず甘い汁を吸おうと集まってくる。 女は人生に翻弄されながらもたくましく生きてゆく。 こうした一つ一つが積み重なって奇跡のように 上質で無駄のない日本映画の黄金時代を証明する作品に仕上がっている。
他人の不幸は蜜の味 私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。 『放浪記』林芙美子 それまで幻想文学や、不条理文学ばかりに傾倒していた自分がリアリズムに根差した林芙美子の小説を読むようになったのは映画『放浪記』をみて...
不倫関係にかぎらず、多かれ少なかれ、 男女関係というものの行く末は こうした一瞬の輝き、一瞬のときめきを求めて たとえ、結果がわかっていても、その甘美さの前には抗えず、 逃れられない人間の業そのものなのかもしれない、と思う。 ただ『浮雲』では、その深い業へのカタルシスが、 刹那にもとめる激しい肉欲でも、 官能を貪ることで満たすことはできないのだ、という、 そんなメッセージのような気配をも同時に読み取りうるのである。 こんな恋愛映画が日本にあったのだ。 そこは、日本人だからこそ、 理解しうるであろう男と女の駆け引きだからこそ、 よりいっそ愛おしいく思うのかもしれない。
かくいう自分も高峰秀子、通称デコちゃんの大ファンである。 好きな女優さんは他にたくさんいるけれど、 やはり、ちょっと格が違うのだ。 もの凄い美人でもないが、凛とした気品がある。 そのくせ、銀幕を離れると、意外にも家庭的、庶民的。 そのギャップもまた素敵だ。 いうなれば、飾らない、至ってナチュラルな女性像。 もちろん、会ったこともなければ、なんの繋がりもない。 数々の映画と残されたエッセイなどからの請負、 イメージだけの妄想にすぎない。 いや、妄想なんかじゃなくて、実際そういう人らしい。 それはエッセイなんかを読めばよくわかる。
東京の実家に舞い戻った原節子を訪ねてくる上原謙と ふとしたきっかけで仲直りをし、 再び大阪へ帰阪する車中のシーンだ。 三千代は初之輔に書いた手紙を結局窓から破り捨てる。 その横で、夫はまた以前のような姿で疲れ惚けて眠っているが、 妻はその時すでに、覚悟を決めて、生活そのものを受け入れるだけである。 不本意ではあるが、それはそれで、女の幸せとは 所詮そんなものだという諦めの境地が、 この大女優のくたびれ顔に 一筋の光を照らすなんとも感慨深いシーンなのである。