ヴィンセント・ギャロのこと
最近とんと噂のないヴィンセント・ギャロのことを 朴訥に考えていた。 処女作『バファロー66』は三度観た。 はじめて観たとき、そのオフビートな笑いのセンスに ぼくは思わずニタニタしてしまった。 ギャロという男のなんともいえない哀愁と茶目っ気に 心を掴まれたからだった。
最近とんと噂のないヴィンセント・ギャロのことを 朴訥に考えていた。 処女作『バファロー66』は三度観た。 はじめて観たとき、そのオフビートな笑いのセンスに ぼくは思わずニタニタしてしまった。 ギャロという男のなんともいえない哀愁と茶目っ気に 心を掴まれたからだった。
けれども、この映画のテーマは 実を言うと正義などと言う安っぽい、 と言うと語弊があるけれど、 そんな大義名分はさておき、 孤高に生きていてきた退役軍人としての心の傷、 人生の痛みや重みが 人種も年代も違う人間への真の友情として描かれ 奮い立って自身の天寿を全うしたこの老アメリカンの生き様に、 心打たれるのであった。
そこで、今回は、映画作りにおいて 監督兼俳優、ひとりでとりしきる孤高の映画作家を特集してみようと思う。 ひとよんで二刀流映画術。 むろん、映画など、とうていひとりでできるものではないし、 監督と俳優を兼ねるから、出来のいい映画が出来るわけでもない。 それがウリになるほど甘いものではないのだが、 うまくいけば、すべてその二刀流作家の勲章になり こければ、すべての責任が覆い被さってくる。 まさに自己責任である。
かくして、勝新の贅の極みが尽くされた『新座頭市物語 折れた杖』は 傑作、かどうかは別にして、 マニアにはたまらない作風となって語りつがれている。 こんな作り手も現れないだろうし、またそれを許す配給会社もないこの時勢、 実に、貴重で、実に勝新らしい一本として、 ファンならずとも、ひとりでも多くの映画ファンに知って欲しい作品である。
レメディオス・バロ、この蠱惑的な響き・・・ 通常の美術史では、なかなか聴こえてはこないだろう。 この興奮が少数派内でしか共有できないことが残念なのだが、 とりあえず、フィニ、キャリントンときて、 この才女レメディオス・バロをとばすわけにはまりますまい。
マン・レイのミューズ、20世紀を代表する女性写真家として知られる、 マダム・マン・レイこと、リー・ミラーについて書くにあたって、 まずは写真家として知られる彼女をめぐって いったいどの写真がリーというアーティストへ 手向けるにふさわしいかを考えてみることから始めよう。
単にダダのことを書きたいと考えていたのだが、 そのなかで、ベルリン・ダダのメンバーとして活動した ハンナ・ヘッヒというコラージュ作家 女ダダイストのことを年頭にあってのことだ。 コラージュ、それは夢とポエジーのアマルガム それをコラージュと呼ぶにやぶさかではない。
そんなルイーズですが、 もうすぐ100歳という大台に手が届くか、というところまで生きて 現役で創作活動を続けていたようですが 2010年にすでに他界しています。 驚くべきは、彫刻家として認められたのがなんと72歳のとき。 MOMA展で開催した自身の回顧展で 初めてその所業が認知され光が当たった人なのです。 実に長い長い物語を抱えながら ひたすら蜘蛛が糸を紡ぐように創作を続けてきた人。 それがルイーズ・ブルジョワという人なのです。
どっと押し寄せる水玉娘の感慨。ラブフォエバー 「ラブ・フォーエバー(愛はとこしえ)」と何度、私は心に叫んできたであろう。『時』が迫り来ることは人間のならいである。その集結に平和を望んで、一層「愛はとこしえ」と叫ばずにはい...
平沢淑子という画家の所業に触れるということは、 絵=網膜上の刺激などとは別の、 詩(ポエジー)をめぐるひとつの現象、 なにより唐突なまでに、詩的直感の啓示を受ける というようなひとつの事件なのだ。
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