小川紳介『1000年刻みの日時計 牧野村物語』をめぐって
しかし、この『1000年刻みの日時計』の特筆すべき素晴らしさは、 隠された真実(歴史)を丹念に、そして誠実に 時間をかけてあぶり出したその熱意にあるのだと思う。 方法論が、ドキュメンタリーであるか、フィクションであるかは この映画の本質ではないのだ。
しかし、この『1000年刻みの日時計』の特筆すべき素晴らしさは、 隠された真実(歴史)を丹念に、そして誠実に 時間をかけてあぶり出したその熱意にあるのだと思う。 方法論が、ドキュメンタリーであるか、フィクションであるかは この映画の本質ではないのだ。
ただ、かつて、我々日本人には、世界に誇れる映画作家がいた。 小津安二郎が描いた東京、ならびに美しい成果様式を持った 日本人の眼差しの意味を、この遠い異国の人間に教えられるのだ。 それはある意味、正しい自国への認識へのヒントであり、 貴重な眼差しなのである。
10年に一度しか撮れないのか、撮らないのか? 『みつばちのささやき』から10年後に『エル・スール』。 そのまた計ったように10年をかけ、 エリセが満をじして温めていた構想が テーマがかぶるということで、企画を断念せざるを得なかったのは 呪われた作家ゆえなのか? 幸い、そんな思慮深い作家が 気持あたらに手を伸ばしたもう一人の神秘があった。 スペイン美術を代表する画家アントニオ・ロペスである。
サンドリーヌが11人兄弟の7番目で、 しかも、精神を患う妹を抱えているという事実を、 この映画を機に、初めて知ることになるのだが、 やはり、この女優に、常々何か一本芯のある強さを感じてきたものとして その理由の一つに、なるほど、たどり着くことになる。 早熟にならざるを得なかった環境があり、 改めて思わずにいられないのだと。
この世のもっとも神聖で、記念すべきドキュメントが 出産劇であることに誰も文句のないところだろう。 最初にして最後のこの一度限りの出来事がなければ そもそも生そのものはなく、よって死もへったくれもない。 だが、そんな重大なセレモニーを記憶しづけることは 男がもっとも介入できない困難な領域にある。 なぜなら、出産において、男は絶えず傍観者であり、 究極の他者であるからだ。
この映画は、この無邪気な精霊のように歩き回った老婆 小見山久美子さんに捧げられている。 この映画が完成したあと、あたかも使命を果たし終わったかのように 2015年に魂の故郷へと帰っていったのだという。 この映画を実際にみて、彼女の目には、どう映ったのだろうか? きっと案内しきれなかった場所をあれやこれやと思い浮かべて 次なる案内を楽しみにしていたのだろうか・・・ 本意ではない形で、切り離されてしまった我が息子への愛情の代価を この映画の中で、充足できたであろうか? 静かに寄せて返す波の音が、そんな彼女への鎮魂歌のようにも聞こえてくるのだった。
映画館の闇に座ってワープする異空間。 まるで17世紀スペイン黄金時代の絵画を彷彿とさせる佇まい。 網膜、鼓膜それぞれを刺激してくるザラザラとした質感。 画質、画面から伝わってくる何か。 物理的、あるいは精神的なノイズを感じる。 さりとてそれは美しく、詩的だ。 にしてもだ、久しぶりだ、この感覚。 この感性は只者じゃないのは直ぐにわかった。 ペドロ・コスタの問題作『ヴァンダの部屋』である。
アレハンドロ・ホドロフスキー。 いやはや、こんな男、ちょっといない。 彼の映画を見るたびにそう思ってきたのだが、 今回はとある未完成映画を巡る裏側とホドロフスキーという 人間そのものの魅力を暴き出してゆくドキュメンタリー映画の話をしよう。 これが実に興味深くて面白いのだ。
それにしても、なんてステキな映画だろう。 人生の素晴らしさが、 宝石のように至るところにちりばめられている。 ものすごくホンワカもするけど、 要所要所ヒネリも効いているし、かと言って、 全然こ難しい映画というわでもない。 それでもって全然大作然としていなくて 完璧過ぎるわけでもないから自然に入ってゆける。
映画というものに潜む虚構性への挑戦。 演技のドキュメント、映画作りのドキュメントといったテーマに立ち向かい、 結局のところ、映画とは何なのか? リアルとは何を意味するのか? 真実とは? 嘘とは? という本質的テーマに立ち返ることになるだけである。