乱れず、流れない、“デコ”なし女優の演技術
主に男の映画を通して上り詰めた日本映画界の巨塔、世界のクロサワが
まだ十代だったころに、高峰秀子とのロマンスがあったという話は
巷ではあまり知られてはいない。
しかも、デコちゃん(高峰秀子の愛称)の方が前のめりだったという。
まだ十代だった彼女が三十路に達していた大人の映画人に
どこまで本気度が在ったかは別として、
仮に、このカップルが成立していたら、
後の黒澤の映画、および日本の映画史すら随分変わっていたかもしれない。
溝口にとっての田中絹代、小津にとっての原節子。
そして幻の黒澤にとっての高峰秀子。
考えただけでもちょっとざわざわするコンビだ。
けれど、その想像は幻に終わった。
黒澤にとっては、ミフネという日本男児のヒーローがおり、
それは世界にも轟いている。
まあそれでよかったのだ。
そんな裏話はさておき、日本映画史において、「大女優」という響きが
これほど曖昧で、同時に切実に感じられる存在が他にあるだろうか?
子役でデビューし、天才と謳われ
日本映画の隆盛期を支えてきた高峰秀子は華やかなスター街道を歩みながら
とくに、“強き女”として記憶される女優ではなかった。
名だたる監督たちの元で、着実に映画産業を支えてきた一面と、
仕事に対する厳しさ、プロフェショナルを生涯失わなかった女優として
その名を残した軌跡は、文字通り大女優とよんで差し支えない。
そんな高峰秀子という女優について、
ここでは、成瀬己喜男作品における高峰秀子をめぐって、
改めて書いてみたい。
成瀬巳喜男のミューズたりえたか?
ひとつに、彼女が体現してきたのは、抗わず、しかし屈しもしない、
いうなれば運命と並走する女というべき姿である。
その身体を最も深く、最も誠実に受け止めたのが誰よりも、
成瀬巳喜男という監督だった。
その数17作品、成瀬映画においては運命は
克服すべきものでも、ドラマチックに跳ね返すべき障害でもないところで、
常に、人間のすぐ隣を、同じ歩調で歩いてきた。
逃げ切ることも、追い越すこともできない。
その距離感を、演技ではなく、まさに女の生き様として
確実にスクリーンに定着させた女優、それが高峰秀子だったのだと思う。
それはなにも偶然ではない。
成瀬が求めたのは、運命自体をドラマにしない女優像であり、
高峰秀子のすごさはその条件を一度も裏切らず、役柄を演じてきたことにある。
二人の関係はいうなれば、名コンビというよりも、
映画的共犯関係を結んでいたかのように
女の不幸を売り物にせず、女の人生をそのまま置く。
そのための距離感を保ちながら、互いに熟知していた結果が
成瀬作品をいくつも傑作に押し上げてきたといっていい。
かつて、批評家佐藤忠男との対談では、
「そばに行くと酸欠になる。いやでいやでしょうがなかった」
そう成瀬像を語った高峰だったが、
病床を見舞った際、「最後にバックなしで撮りたい」といわれたときは嬉しかったと
監督への信頼は生涯揺るがず、「一番好きな(合った)監督だった」
そう讃えて終わっている。
仕事は仕事、感情は感情と割り切れる彼女の一面が覗く。
降りない、引かない女優
高峰秀子は、成瀬の主要な作品のなかで、
しばしば「耐える女」を演じた女優として受け止められている。
名作の誉高い『浮雲』のゆき子であり、『乱れる』の礼子であり
『女が階段を上る時』のバーの雇われマダム圭子にも
女の哀しさを十二分に漂わせていた。
しかし「耐える」という言葉は、どこか受動的で、犠牲的な響きを伴う。
成瀬映画における彼女の女たちは、単に我慢しているのではない。
その証拠に彼女たちは引かない。
人生のレールから外れない代わりに、そこから後ずさりすることもしない。
勝利の身振りも、敗北のポーズも取らない。
ただ、与えられた速度で歩き続けるのだ。
その姿は、強さとも弱さとも異なる、第三の在り方を示している。
『浮雲』のゆき子、そして『女が階段を上る時』の圭子は
ともに、運命を受け入れざるをえない女として描かれる。
しかし重要なのは、彼女たち自身の生き様が、
「運命に沿うしかない状況」を自ら作り出している点である。
女の弱さ、といって良いのならその通りである。
腐れ縁の男富岡に、途中なんどもぐずぐず、悶々を繰り返しながら、
最後は屋久島までついていって、病死するゆき子は
呪わず、壊れず、自暴自棄にもならないが
その代わり、なんとか踏みとどまる女の意地を崩さなかった。
ここに高峰秀子の倫理がある。
乱れない女
成瀬晩年の到達点である『乱れる』において、
高峰秀子演じる礼子は、義弟加山雄三との禁断の愛を選び取ることができない。
だが彼女が拒否しているのは、恋愛そのものではなく、
「選択できる」という幻想である。
事故死する義弟を前に、彼女は何も決断しないし、できない。
ただ、状況を見送ることしかできないのだ。
受け入れるでもなく、拒絶するでもない。
ここで高峰秀子は、悲劇のヒロインになることを拒み、
出来事の通路に、けして乱れることなき身体で立っていた。
境遇の重力にはひらきなおるしかない
一方『稲妻』の清子は、母子家庭に生き、異母兄弟たちと折り合いをつけながら、
やがて家を出るそんな末娘を演じた。
これも林芙美子ものの短編だが、ここにもまた、反抗でも革命でもない。
彼女は、自分の身にかかる境遇の重力を正確に理解したうえで、
そのやるせなき場を離れたくなるだけだ。
ここでのしょうがない「ひらきなおり」もまた、決して強さではなく、
重力を認めた者だけが取れるかろうじてポジティブといえる姿勢である。
抗わず、しかし潰されない。
この微妙な均衡を、高峰秀子は感情ではなく、身体の速度で示す。
彼女が移った一人住まいの間借りの部屋の窓から、
そうした心情に呼応するかのように、一瞬の稲妻の閃きが臨く。
そんな抒情の美しさをさりげなく描いた作品に、
高峰秀子の佇まいが映えないわけがない。
たくましさしか残らない地点
たくましさでいうなら、徳田秋声原作の『あらくれ』のお島もまた、
男運のなさを気性で突き抜けていく役柄だ。
だが成瀬は、彼女をここで「自立した強い女」として、祝福したりはしない。
たくましさとは、選び取った美徳ではなく、
それ以外に道が残されていなかった結果にすぎず、
高峰秀子は、その事実を誇らしげにも卑屈にも演じはしないのだ
ただ、そう生きるしかなかった女として、画面に立つ。
それは人生を切り開いてゆく強さ、ではなく
持って生まれた気の強さ、むしろ祝福を受けない運命を導く女の業なのだ。
林芙美子と高峰秀子のしあがり方への共感
そんな共犯女優が見せた一番の成果は
『放浪記』における高峰秀子ではなかろうか?
実在の作家林芙美子を演じることで、
「成功」の神話を徹底的に解体した成瀬らしい作品であり、
高峰自身のもっともお気に入りの作品である。
林芙美子ののしあがり方は、いうなれば、人生の勝利ではなく、
これもまた、沈まないための格闘ゆえの結果にすぎない。
書いても救われないが、それでもやめるわけにはいかなかった作家。
その身体感覚は、子役から消耗を知り尽くした高峰秀子自身の人生と、
どこか深く共振しているのだと思う。
人生にかすめとられない強靭さが物語と並走し、
高峰演じる林芙美子に乗り移っているともいえる作品である。
この作品に残されたエピソードがいろいろと面白い。
あまり器量のいい女流作家ではなかった林芙美子を演じるために、
綺麗にみえないようなメイクを要求し、
わざと眉を“ハ”の字に書き、のっぺり顔をつくるであるとか、
相手役の宝田明が、何度も監督からNGを出され、
困惑し先輩である高峰にアドバイスを求めた際も
わざと意地悪をして「自分で考えなさいよ」と突き放したというエピソードは
宝田自身が当時を回想して、以後の俳優人生の道を作ったのだと
感謝の意を述べているぐらいだ。
かくも、彼女の女優魂の覚悟が滲む渾身の一本である。
大女優とは呼ばせない
高峰秀子は、強い女優ではなかったと書いた。
自身は「仕事場では仮面をつけていた」のだと。
学校にもいけず、身内を養わんがための職業女優として
彼女はそのキャリアを重ね、こなしてゆく。
それでも自分の歩幅を失わないで、運命に並走した女優だった。
黒澤と結ばれなかった彼女は、木下監督の『二十四の瞳』の撮影で
助監督を務めていた松山善三と結ばれる。
松山善三は、けして映画史を華やかに彩るほどの映画人ではなかったが
そんな高峰秀子の気質にみごとにあっていたのだろう。
大女優でありながら、地に足のついた暮し、身の丈にあった暮しぶりは
そうした一貫した彼女の姿勢から生まれたものだった。
彼女のエッセイ『高峰秀子暮しの流儀』にもさりげなく書かれており、
「高峰の生き方は、暮らし方と寸分の違いもなかった」
そう養女に言わしめるのが高峰秀子の本質だからである。
ちなみに、彼女は日本エッセイストクラブ賞を受賞するほどに
多産で、洒脱なエッセイイストでもあった。
飾らないことばには、その生き方を伴って
どこか、ソーダ水のようにさっぱりした清涼感がある。
そんな彼女の映画は、人生に勝つ方法を教えてはくれないが
勝ち負け、白黒を見せない成瀬映画において輝けるのもうなずける。
だが、そこにも、降りず前を向いて進んでゆく方法が静かに差し出されている。
だからこそ、成瀬映画のなかの高峰秀子は、
時代を超えて、人生のある局面にふと寄り添ってくるのだろう。
それは希望ではなく、倫理としての映画であり、
デコレーションなし、常にその立場をわきまえる美学と
超然とした、たぐいまれな精神力にささえられていたのである。
その中心に立ち続けたのが、まぎれもなく高峰秀子という女優だった。
それを深く理解していたからこそ、
17本の作品に彼女を招いた成瀬自身の確かさがある。
ただし、高峰秀子は成瀬映画のミューズではない。
そしてあえて、大女優、その言葉はつかわないでおく。
彼女こそ、プロフェッショナルに、監督の要望に応えることのできた、
賢明な女であったのだ。
ハナレグミ – サヨナラCOLOR feat. 忌野清志郎
高峰秀子の生きざまや女優魂にはいつも一本の芯が通っていた。けして感傷的なものでもなく、常に超然と人生に臨むスタイルがあった。そんな彼女に贈る曲は、あえて、大好きなハナレグミの「サヨナラCOLOR」 が相応しい、そう思った。この曲が流れる竹中直人の映画はみてはいない。映画は映画としておいておいて、人生を見つめる人たちが、心に素直に生きるしかないのだと説いている曲。いみじくも、清志郎がこの曲によりそって聴かせるナンバーに、改めて身体に芯が入る思いがした。












コメントを残す