テオ・アンゲロプロス『霧の中の風景』をめぐって

霧の中の風景 1988 テオ・アンゲロプロス
霧の中の風景 1988 テオ・アンゲロプロス

霧の中のハレルヤ

霧が降りた朝、何も見えない世界から、
その小さな足で踏み出す異母姉弟ヴーラとアレクサンドロス。
父を探すと言って祖国ギリシャから
ドイツへと向かう列車へ無賃で乗り込み、最初の一歩に抱き合う。
だがおそらく、観客は最初から気づいているにちがいない。
彼らが探しているものは、実在しないかもしれないのだと。
あるいは、最初からそれは存在しなかったのかもしれないのだと。
まるで霧の中に見えない“神話の国”を求めるようにして
ひたすら歩き続けるしかない姉弟の過酷なロードムービーの始まりである。

テオ・アンゲロプロスの『霧の中の風景』は、
残された姉弟は父親を探し出すことで、
失われた父性=国家を探す寓話であり、
政治の影で沈黙する魂に出会う旅でもあり、
映像詩としての映画は
無垢と幻滅の旅路を刻むことになる残酷で美しい物語だ。

この映画において、「旅」は物語の舞台装置ではなく、
それ自体が人生の象徴であり、必然として描き出されている。
子供たちは“父”を探して彷徨うが、その過程で出会うのは、
やさしさと暴力、幻想と現実の断層である。
そのなかで、旅芸人の青年オレステスとの出会いは、
少女アレクサンドラにとって、淡い希望と初めてのときめきをもたらす。
一方、トラック運転手による“大人のエゴイズム”によって
彼女の無垢は残酷にも奪われてしまうが、弟はまだそれを知らない。
こうして彼らの旅は、世界の優しさと冷酷さを通過儀式として、
それこそが“成長”と呼ばれる痛ましい変化のなかに晒されてゆく。

アンゲロプロスは、これらの出来事をけして声高に描かない。
沈黙とその間によってのみ語るだけだ。
トラックのドアが閉まる音、
アレクサンドロの視線、静寂の後の風景、
すべてが観客の胸に深く刺さってくる。
映画は説明せず、見る者に“感受せよ”と語りかけ、
視覚としての詩、風景としての記憶を呼び覚まそうとする。
ワンシーン・ワンカットでの長回し、
絵画のように風景と共に人物像をとらえるロングショット。
ゆえにアンゲロプロスの手法はその豊かな時間に呼応できるのだ。

『霧の中の風景』では、時間が流れるというよりも、
風景の前に、記憶そのものを素描していくといってもいい。
駅の霧、雪の積もった路面、雨の国道。
そしてなによりも、無人の国境の寂寥感。
これらの光景は、ギリシャという国の“沈黙の風景”を映す鏡である。

その最たる象徴が、宙を浮かびクレーンで運ばれる巨大な手の石膏像だろう。
これは神の手か? 歴史の断片か?
あるいは、信じることができた時代の象徴か?
手は救いのように見え、同時に
“助けを届かせることのできない”無力の象徴にも見える。
子供たちはその像を見つめる。
触れることはできないが、
それは確かに“存在していた”ものの記憶を呼び覚ますだろう。
ここに、アンゲロプロスの映像詩としての本質がある。
物語は語られず、風景のなかで呼吸する。
観客は風景と時間の隙間に入りこみ、自らの記憶と重ね合わせながら、
物語を共に再構成していくのだ。
あばきだれるのは不在の父、つまり不在の国家そのものを。

アレクサンドロとヴーラが探している“父”とは、
もはや個人としての父ではない。
彼は「語られなかった歴史」、「断絶されたアイデンティティ」、
そして「喪失した父性の記号」というべきものである。
ギリシャという国家は軍事政権と混乱を経て、
アイデンティティの喪失状態にあった。
その「断絶」が、子供たちのあてなき旅という形で寓話化されているのだ。

青年芸人は、束の間の“他者とのつながり”を与える者であり、
トラック運転手は“無垢に対する現実の暴力”であり、
石膏の手は“過去の神話”の残骸として、その前に現れる。
すべてが「かつてあった何か」の影によって、
終わりのない問いをつきつけてくる。
だが、そこには見えないものを、
ただ見つめるまなざしだけが注がれるに過ぎない。
それゆえに、あまりにも壮大で、直視できない悠久の時が
霧によって映し出されるのだ。

このように、『霧の中の風景』には決着という瞬間がない。
父に会ったかどうかも曖昧なまま、子供たちはただ“見つめる”。
それは、アンゲロプロスが一貫して投げかけてきた問い、
「私たちは、歴史の霧の中で何を見るべきか?」である。
カメラは彼らの背中を静かに捉え、風が吹き、霧の向こうを睨む。
列車を乗り継ぎ、雪のなかを駆け抜ける姉弟、
あるいは青年と姉弟のふれあい。
その瞬間瞬間は、観客の心のなかで何かが確かに震える。
それは、かつて失われたものの面影なのか。
それともまだ出会っていない未来の兆しか。
アンゲロプロスは答えない。
ただ、映像でのみ、“問い”を浮かび上がらせるだけだ。

言語がかかる矛盾を追い払うかのように、映像はかくも雄弁である。
この『霧の中の風景』は、映画であると同時に詩であり、
叙事詩であると同時にある種信仰でもあるのだ。
喪失を描きながらも、そこには確かに“希望”が差し込んでいる。
幼き少年の手を引く先に大人にふれた少女の姿に、
はたして我々は未来という名の“再生”を託すことができるだろうか?

この作品は、アンゲロプロスにとって“過去”の弔いであり、
“未来”へのまなざしである。
よって、この映画がアンゲロプロス自身の娘へと
捧げられた寓話なのも納得できる。
だからこそ、この霧の中に差す一筋の光は、
どんな悲しみにも負けない、力強く静かな力を持って
静かに胸を締め付けてくるのだ。

そして、ラストの霧の中の風景。
銃声が響き、霧の中にぼんやりと現れる樹木。
姉弟の前にはそれしか見えない。
ここで映画は幕を閉じる。
あなたは、この映画のラストシーンをどうとらえただろうか?
何かが解決されたわけでもなく、
ハッピーエンドとしての結末が意味するものでもない。
あまりにも不穏で不憫であると同時に、
ぼくがこのショットに見たのは、ひとつの小さな希望だ。
この風景のなかでは、なんびとも彼らの行く末を阻むものはなく、
抱擁し、そして未来の扉の入口が隠されているかのようにも受け止められる。
もちろん、アンゲロプロスはなにも提示したりはしなかった。
また、安易な、甘く明朗なファンタジーでもない。
見るものの視線がそこで終わってしまえばそれまでである。
けれども、旅を通じて確実に芽生えたであろう、
現実と希望の灯を繋ぎ止めるだけの空間を長々と捉え、
そこにわずかな希望を読み取ることで、この映画は救われるのだ。
そんなアンゲロプロスの言葉を信じたい。

私にとって、映画とは世界であり、私の旅です。私は自分を感嘆させうるいくつかの小さなユートピアを探そうとしています。映画を通じたこの旅を信じようとしているのです。

Lost and Found – Fred Frith

姉と弟が越えようとした国境。
過去と未来のあいだに漂う曖昧な霧による不透明な一線を越える二人。
そんな二人に相応しい音楽は、フレッド・フリスの『Step Across The Border』より。ここでは「境界を踏み越える一歩」という歌詞は、「ここではない何処かへの小さな一歩」として読み換えられる。それはまさに、境界を越える音、言語を持たない音楽による“ジャンル越境の旅”でもあり、そのままアンゲロプロスの『霧の中の風景』へぴたりと寄り添う共鳴力をもっている。

即興が編む音の断片は、まるで映画の中で揺らぐ風景そのものであり、また記憶と同じように、形を持たず、通り過ぎたあとに“存在していた”ことを知らせるだろう。この音楽は、父を探す兄妹の物語に、“沈黙に耐える耳”を捧げてくれる。大人の世界へとふみだした彼らが見上げる空に、手が差し伸べられる瞬間の音そのものだ。