文学と音楽をめぐる調べ(前半)

Elle est retrouvée ! Quoi ? l’éternité. C’est la mer mêlée    Au soleil.
また見つかった! 何が? 永遠が。 それは、海と番った、太陽。

読み語るムジカと聴き視るポエジア(小説編)

文学と映画をめぐる考察として、グダグダ、ダラダラと
思うところを綴ってきたのだが、この特集の最後を、
文学と音楽をめぐるコラムを挟んで〆たいと思う。
ミュージシャンの中にも本好き、読書好きは多いと思う。
とりわけ、シンガーソングライターにとって、曲を書くことは、
ある種の文学的センス、文学趣味が大いに関与するところだろう。
昔から、僕は好きなミュージシャンがどんな本を読み、
どうインスピレーションを得ているのかに関心を持っていた。
それぞれ、触発された本や文学から直接、楽曲へと向かう場合もあれば、
ミュージシャンの生き方そのものが、リスペクトする文学者に重ね合わさることもあるかもしれない。

本はいつだって、我々にもミュージシャンにも、
インスピレーションの源であり続ける。
中には、自分で文学作品を書くミュージシャンだっているし、
その詞の世界は文学以上に難解である場合もある。
音と言葉の共鳴と共存。それが文学という名の洗礼を浴びて、
よりいっそう豊かに響くのだ。
そうした側面を吟味しながら音楽を聞けば、
また違った音楽の魅力にたどり着けるかもしれない。

文学と音楽を嗅ぐ旅、夢見るプレイリスト

The Beatles:Norwegian Wood (This Bird Has Flown)

この曲だけはちょっと、異質である。というのも、曲が先にあっての文学だからである。が、特別枠として、まずは冒頭、ここから始めさせてもらうことにする。

村上春樹の小説『ノルウェイの森』は、ビートルズの同名曲から始まる。ハンブルク空港、流れる機内音楽。突然耳に入った「Norwegian Wood」の旋律が、主人公ワタナベの過去の記憶を静かに呼び起こす、それが物語の発火点になっている。

僕自身、ビートルズの「Norwegian Wood」を初めて聴いたとき、まだ村上春樹の『ノルウェイの森』とは結びついていなかった。熱心な村上春樹読者じゃなかったこともある。そこから時間を経て、アコースティック・ギターの旋律に乗って語られるこの男と女の出会いの物語を味わいながら、煙草と静寂と虚無が交差する時間を共有することになる。

この曲は、ビートルズ中期の異色作だが、アコースティックな響きと、シタールの導入によるエキゾチズムが、心地よくもどこか切ない香りが漂う。曖昧な関係とすれ違う心が、わずか2分余りの楽曲に込められているその空気感こそが、小説全体に漂う“親密さと孤独”の予兆として繋がっているのだろう。

村上はインタビューで「この曲を聴いて物語が一気に立ち上がった」と語っている。つまり『ノルウェイの森』という小説は、曲から生まれ、曲へと回帰する“音楽的記憶小説”なのだ。語られるのは、青春の傷と、癒えぬ喪失の物語。その森はどこか美しく、優しい旋律に包まれているが、その萌芽がこのビートルズの曲のなかにすでにあったようにも思えてくる。〈She showed me her room, isn’t it good, Norwegian wood?〉という無垢な問いから、“別れ”を予感させる調子に変わってゆく。だからこそ読者は、ページをめくりながら、そっと音に耳をそばだてているだけなのかもしれない――あの、消えそうな木の香りとともに。

言葉と音のあいだに揺れる、誰にも言えない感情。それが、60年代のポップソングと80年代の日本文学をつなげたのだ。心に残るのは、暖炉の前で語られなかったひとこと。そして、永遠に鳴りやまない、ギターの響きだろうか?

ちなみに「Norwegian wood」というのは、意訳をすれば「ノルウェイ製の家具」っていうのが定説であって、「森」ではないということである。当の村上春樹は『ノルウェイの木をみて森を見ず』というエッセイで、Norwegian Wood=ノルウェイ製の家具、ではないことについて触れているが、この辺りの文学的解釈というか、流れに関しては、また別の機会に取り上げてみたい。

サニーデイ・サービス:苺畑でつかまえて

サニーデイ・サービスの「苺畑でつかまえて」は、タイトルからして明らかにサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を意識している。ジョン・レノンの射殺犯マーク・チャップマンが犯行時に持っていたとされるぐらい、アメリカ文化における青春小説の傑作だ。ここでは、翻案ではなく、青春の不在をなぞるような、詩的なレコードの溝のようなものとして刻まれているのだ。

主人公ホールデン・コールフィールドが「子どもたちを崖から救い上げる」幻想を語ったように、曽我部恵一の声もまた、すれ違い、零れ落ちていく日々の断片を、どうにか掌で受け止めようとする。音をきけば、この苺畑、それはきっとビートルズの「Strawberry Fields Forever」の幻影でもあり、“どこにもない場所”の比喩としてつながっているはずだ。

その甘酸っぱさとほろ苦さ、過去と現在がまじりあうようなロマンチックな歌詞の中で、青春はけっして捕まえられないまま、風に溶けていく。けれど、その「つかまえようとする意志」こそが、ホールデンとサニーデイの共通言語なのだと。

そういえば、 Blankey Jet Cityにも「Salinger」という曲があったな。ベンジーはきっとサリンジャーが好きだったんだろう。ちなみに中学か高校のときに読んだという曽我部圭一自身も、「若者のエバーグリーンな感性を捉えた青春小説の傑作であるとか。でも、そういうものとしては、僕はまったくピンとこなかったんです。」と答えている。そこは僕自身も同じだ。なんか読んでおかなくちゃ、という意識で読んでいた気はするんだな。

マライア:うたかたの日々

1983年、清水靖晃を中心とするマライアが放ったアルバム『うたかたの日々』は、そのタイトルからして、ボリス・ヴィアンの耽美的恋愛小説『うたかたの日々』への直接的な眼差しを感じさせる。だがそれはないも翻案ということではない。むしろ、音楽として“儚さの気泡”を吹き上げた一編の音響詩である。

ヴィアンの原作では、恋と病とジャズとが、詩的でありながら破滅的に絡み合っていく。その幻想性と虚無感を、マライアは、エレクトロニクスとファンク、アヴァンギャルドなアンサンブルで表現した。ここにはエリントンの香りがすり潰され、ビートは跳ねながらも、どこか翳りを帯びており、幸福と死の予感がワルツのように交錯している。

特にサックスの旋律は、コランとクロエの恋の儚さを空中に描くかのようで、ジャズという言語を借りた、音楽による“記憶の泡”の再現に他ならない。それはまさに、“音に宿る文学”であり、聴く者の胸に、誰にも書き換えられない小説を描き出してゆく音を奏でるのだ。

ちなみに、このアルバムタイトル以外に、ボリス・ヴィアン色は特に見受けられないものの、「心臓の扉」という曲からは、ヴィアンの「心臓抜き」を連想させる。「心臓抜き」とは、『日々の泡』でジャン=ソール・パルトル(サルトルのもじり)を殺害する際に用いられた凶器の名称だが、ヴィアンの最後の小説タイトルでもある。心臓病を患っていたヴィアンにとって、心臓という臓器が死に最も密接に結びついているというコンセプトは、「泡沫の日々」でも描かれたモティーフの一つになっていることからも明らかだろう。

大滝詠一:乱れ髪

大滝詠一の「乱れ髪」には、単なるラブソングの枠を超えた、日本語の抒情詩としての風格が実にロマンチックに漂っている。その世界を支えるのは松本隆の詞だ。まるで与謝野晶子の歌集『みだれ髪』に通じるような、情熱と余情が共棲する世界。昭和の終わりに再び“乱れた髪”というイメージを蘇らせるが、こちらは、明治の激情とは異なり、失われた恋の残り香にそっと触れるような、レトロで耽美的な哀切を湛えている。

詞の背後には、こうした与謝野の哀愁だけでなく、室生犀星の孤愁、泉鏡花の幻視的装飾、あるいは川端康成の「雪国」のような移ろいの美さえ感じられる。いうなればロック〜ポップ史において、日本文学の情緒を持ち込んだ先駆けと言える。大滝の音はそこに、甘さを抑えたストリングスと抒情の湿度を添え、詩としての日本語と、旋律としての日本語を見事に溶け合わせている。

文学が言葉の芸術であるならば、「乱れ髪」は音楽で綴られた短編小説といった趣がある。感情を過剰に語るのではなく、語られなかった余白こそが胸を打つ。まさに、昭和ポップスにおける“詩と音の美学”の到達点といえるだろう。

与謝野晶子が1901年に世に問うた『みだれ髪』は、情熱の奔流を和歌に託し、近代女性の性愛表現に革命をもたらしたことで知られる。「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」――この一首に象徴される、官能と知性の交錯は、言葉を超えた愛の余波を感じさせる。晶子が火花のように恋を詠ったのに対し、大瀧の「乱れ髪」は、残照のように恋を見送る。100年の時を隔てたこの二つの「みだれ髪」は、女の愛の姿を描きながらも、それぞれの時代の抒情を映す鏡でもあるのだ。

Kate Bush:Wuthering Heights

ピンク・フロイドのデヴィッド・ギルモアに見出され、その後1977年、ケイト・ブッシュは19歳の若さで「Wuthering Heights」で音楽界に鮮烈なデビューを果たす。インスピレーションの源は、エミリー・ブロンテの同名小説『嵐が丘』と、それを映像化したテレビドラマだった。ドラマを観た夜、彼女は衝動的に曲を書き上げ、キャサリンの亡霊の視点から、ヒースクリフへの哀切な呼びかけを音にした。

♪“Let me in your window”──その一節は、小説における最も幽玄な場面、キャシーの魂が窓辺に現れる描写をなぞる。幻想的なファルセットは、まるで彼岸からの声のように揺らぎ、原作のゴシック的情念をサウンドで再現する。メロドラマと純文学の境界を超えたこの曲は、単なるオマージュに留まらず、小説の核心──「死してもなお続く愛」──を、三分間の音楽詩に昇華した。

ケイト・ブッシュはこの1曲で、音楽における文学的想像力の可能性を押し広げたと言える。そして彼女自身が、嵐が丘を彷徨うキャサリンの声となり、聴く者の窓辺に今なお囁き続けているのだ。

たしか、この曲ってTVバラエティ「恋のから騒ぎ」のOPに使われていたんだっけ? ちなみにケイト自身、TVドラマ視聴後、彼女はたった1晩でこの曲を書き上げたとされており、作曲はピアノで行い、録音用のカセットテープに吹き込んだと本人が証言している。歌詞は、ヒロインであるキャサリンの霊の視点から書かれており、原作小説の中盤に出てくる「ヒースクリフ、私よ、キャシーよ」という亡霊の呼びかけの場面を忠実にトレースしている。

DAVID BOWIE:1984

デヴィッド・ボウイの「1984」は、言うまでもなくジョージ・オーウェルの『1984年』をモティーフに書かれた曲だ。ディストピア的な未来像、ビッグ・ブラザーの支配、個人の思考と言葉への統制――そうした圧政の暗闇を、ボウイはファンクとソウルとロックのダークなグルーヴで描き出す。

歌詞では「Beware the savage lure(野蛮な誘惑に気をつけろ」と警告され、思想の自由は音のうねりに飲み込まれる。オーウェルの冷たい文体とは異なり、ボウイは身体的な不安と誘惑を楽曲のリズムに溶かし込むことで、“踊れる全体主義”を作り上げてみせた。

つまりこの曲は、文学とロックが交わる異形の未来叙事詩なのだ。オーウェルが警鐘を鳴らした“監視社会”は、ボウイのビートの中でもすでに始まっていたのかもしれない。

本作は本来、彼が構想していたミュージカル版『1984』のための曲だったらしい。結局この企画はオーウェルの未亡人の許可が下りず頓挫するのだが、遺された楽曲群はアルバム『Diamond Dogs』の核となり、文明崩壊後の猥雑な都市を舞台にした“ボウイ的1984年”を描き出すことになる。

IGGY POP ·Mass Production

イギー・ポップはどこか野獣の雰囲気がある。年齢を重ねて、よりいっそうワイルドな雰囲気が滲む。1977年、そのイギー・ポップは「野獣」の皮を脱ぎ、静かな仮面をかぶって現れた。アルバム『The Idiot』。そのタイトルが示すのは、ドストエフスキー『白痴』のムイシュキン公爵。善良すぎるがゆえに狂気と見なされる男の影を描いた「現代の都市小説」風なアルバムである。

イギーの「白痴」は叫ばない。むしろ、すべてを見てなお語らぬ者として、沈黙とともに歩く。その姿はまさに、ムイシュキンの“善良な異物性”と重なり合う。それはロックの激しさではなく、文学的内省のグルーヴの刻印でもって語ろうする『The Idiot』は、ロックが文学を仮面に変えた夜の記録ともいえるだろう。ドストエフスキーの霊は、静かにベルリンの地下室で憂鬱を抱えて踊っていたのだ。

当時、ベルリン三部作で、自己回帰を果たした盟友ボウイがプロデュースしているこのアルバムには、かつての暴発的エネルギーはないが、代わりにあるのは、抑制されたリズム、冷たい機械音、そして感情を殺した低い声がある。ボウイが回帰した音とは近似値的な匂いが漂っている。それは、ベルリンの壁の前にような空漠たる情景とともに、都市の片隅に取り残された魂の自画像を想起させる。とりわけこの「Mass Production」にはベケット的無意味性の音響的体現が再生される。

Steppenwolf:Desperation

Steppenwolfといえば、1960年代末のヒッピー文化、反戦運動、LSD体験、精神的探求といった空気で知られるアメリカのバンドだが、ハードロック黎明期の荒々しい音と、文学的な名を冠することの両義性を体現していることからも、小説『荒野の狼』の作者であるヘルマン・ヘッセがドイツ・ロマン主義の遺産と、近代合理主義のはざまで模索したものと通じ合う。「Desperation」からは、タイトルどおり、深い絶望の淵から発せられる呻きが聞こえてくる。自己嫌悪と内省の混ざる詞の世界は、“Why am I so afraid / I know that I can’t hide”という一節からも、自身の内面を直視することへの恐怖と、それでも隠しきれない自我の露呈が込められている。まさに、ヘルマン・ヘッセが『荒野の狼』で描いた主人公ハリー・ハラーの精神の迷宮と重なるだろう。

文明社会に馴染めぬ「一匹狼」として、その人間性と動物性のあいだで引き裂かれ、自己の“二重性”に苦しむハリー。そんな彼が最後にたどり着くのが、幻覚的な「魔法の劇場」であり、そこでは己の多層的な人格と対話することが求められるのだ。「Desperation」には、そうした精神の閉塞と分裂に呼応するロックとしての祈りが聞こえてくる。ジョン・ケイの声は、ヘッセ的内省に揺れる魂の代弁者のように響き、聴く者をもまた“自分の内なる狼”と向き合わせる事になる。文学とロックが交差する、その刹那に生まれた真摯な楽曲といえるのではないだろうか?

リーダーのジョン・ケイは1944年、ナチス・ドイツ末期の東プロイセン(現在のロシア・カリーニングラード州)出身。戦争末期の混乱の中、彼と母は命からがら西へ逃れ、ドイツ難民として少年期を送り、その後、移民としてカナダ、さらにアメリカへと渡り、自身の出自や言語的・文化的ギャップと向き合いながら、音楽にのめり込んでいく。この複雑なアイデンティティ──ドイツ生まれ、亡命者、難民、アメリカでの再出発──は、明らかにヘッセの『荒野の狼』の“二重人格的自己”や、“市民社会と個人の間に引き裂かれる孤独”という主題に響く。まさに「一匹狼」としてのアウトサイダー的な自己像を、ケイはロックの舞台に持ち込んだのだ。

戸川純 :眼球綺譚

バタイユをロックの領域で堂々歌えるのは、椎名林檎か戸川純ぐらい。で、この戸川純「眼球綺譚」といえば、ジョルジュ・バタイユの小説『眼球譚』を想起させるだろう。曲はその脱構築として読み取れる。バタイユが描いた官能と暴力、死と神性の混濁世界を、戸川は、もっと穏やかなニューウェイヴ・アレンジのポップソングによって、80年代の日本の地下音楽に蘇らせた。

バタイユの「眼球」「卵」「小便」「眼窩」といったエロチックなモチーフは、忘我の裂け目、衰弱の裂け目という歌詞によって緩和され、バタイユの象徴体系そのものを咀嚼しながらも、裂け目=「聖なるもの」という倒錯的な再解釈、エロスとタナトスの融合装置としての眼球——そうした象徴的思考を、戸川の声を通し、「少女」と「狂気」の境界線を揺らがせながら体現した曲だ。いかにも戸川純らしい“優しさ”が滲んでいる。

この曲における戸川純の演技性は、「読む」という行為を「聴く」「演じる」へと転化する行為でもある。バタイユのテキストがもつ呪術的な言語を、戸川は音楽という媒介を通して、ある種の儀式へとして、聖なる領域から大衆性へと押し広げる。まさに、彼女の「声」こそが、バタイユの“超越することなき聖”を震わせる、現代の眼球譚なのかもしれない。

ジョルジュ・バタイユの小説『眼球譚(Histoire de l’œil)』は、1928年に無名で発表されたフランス文学の中でも異色中の異色、極端なエロティシズムと象徴の奔流によって構成された前衛的・倒錯的な作品であると同時に、文学・哲学・美術・音楽への多大な影響を与えた作品としても再評価されている。ピエール・モリニエやフランシス・ベイコン、さらにはこの戸川純のようなポップカルチャーにもそのエッセンスは流れ込んでるといえる。
ゴダールは「WEEK -END」の中で『眼球譚』を引用したし、そういえば、もっと直接的な意味でのバタイユ、といえば、昔、マダム・エドワルダというポジティブ・パンクバンドがいたっけか。

南佳孝: 冒険王

南佳孝のアルバム『冒険王』は、夢想と孤独を抱えたまま大人になった男の、ささやかな自画像のように響く。軽やかなスウィングと都会的なコード進行に乗せて歌われるのは、華やかさよりも、冒険心が色褪せぬまま残っている内面の風景である。

歌詞に登場する“冒険”とは、子どもの空想ではない。都市の喧騒を背景に、誰にも見せない感情の奥深くへと分け入る、静かな旅のようなもの。それは、戦いや栄光ではなく、誰かを思い出し、ほんの少し胸が痛むような瞬間にこそ宿る“冒険”に違いあるまい。

この姿勢はどこか、「日本SFの始祖の一人」と呼ばれる、戦前の空想科学作家・海野十三による小説『冒険王』の少年ヒーロー像を、鏡の裏側から覗き込むような逆写しにも思えてくる。科学も戦争も過ぎ去った80年代初頭には、冒険王はもう銃を握らない。代わりに、記憶と夢のはざまを漂いながら、ひとり口笛を吹くのだ。

アルバム全体を夢想の旅とするならば、「冒険王」はその旅の夜明けに咲く祈りだ。最後に彼が見た雪原の静けさを、この音楽がなぞっているようにさえ思えるのだ。

南佳孝の「冒険王」は、心の内に眠る“名もなき冒険”の詩であるが、軽やかでいて、どこか切ない。そして、この曲が捧げられているのが、極地の孤独を歩き続け、レコーディング中に消息を絶った冒険家・植村直己だということは、忘れてはならない。曲全体を覆う静けさと敬意、そして“生きること”そのものへの賛歌によって彼の魂に寄り添うレクイエムのような趣が感じられるはずだ。ストリングスが静かに波打ち、南の声が優しく降りてくる。そこには、冒険という言葉が、本当は静かな決意と孤独の裏側に宿るものだという真実があると言えよう。

加藤和彦:アラウンド・ザ・ワールド

異国の街角、潮騒、彩るメロディと刻むレゲエのリズム。加藤和彦のアルバム『パパ・ヘミングウェイ』からは、ひとりの作家の人生をたどる音の旅が聞こえてくる。戦争を生き、愛を知り、酒に沈み、そして静かに銃口を自らに向けた作家への、色鮮やかなオマージュ。加藤と安井かずみは、文学的敬意をこめて、ヘミングウェイという名を単なるモチーフではなく、“人生を凝縮した象徴”としてこのアルバムに託したのだろうか。

「アラウンド・ザ・ワールド」でめぐる旅は、単なる観光ではない。背景に濃く漂うのは、アーネスト・ヘミングウェイの人生に通じる放浪と実存の影だ。ヘミングウェイは戦地を駆け、アフリカを歩き、キューバで老いた。地図の上の赤い線ではなく、魂を引き裂くような旅を生きた作家だった。彼にとって“世界”とは、傷と悦びの交錯する舞台。加藤のこの曲に流れる憂いと諦念、そしてその先にあるやわらかな希望もまた、そんなヘミングウェイ的な“ノマドの哀しみ”を湛えている。

「アラウンド・ザ・ワールド」の洒脱なメロディとサウダージのような旋律は、まるでヘミングウェイの短編をめくる指先のよう。旅の終わりに、ただ一つ残るのは、自らの中にある風景。加藤が辿ったのは、まさに“内なるヘミングウェイ”への巡礼だったに違いあるまい。