No.1になりたきゃ、炊飯器をだきな
オープニングに流れるテーマ
男前の殺し屋は香水の匂いがした
「でっかい指輪をはめてるな」
「やすかねえんだ。」
「安心しろ、そいつにはあてねえよ。」
曲がったネクタイを気にして死んだ
寝ぼけ顔の殺し屋は寒そうに震えていた。
「女を抱いてきたのか?」
「あたりきよ。」
「湯たんぽをだきな。」
熱い鉛を抱いて死んだ。『殺しの烙印』のテーマ 作曲」山本直純 歌:大和屋竺
時代より感性が先んじる。
まさにそんな映画が鈴木清順による『殺しの烙印』である。
単なるアクション映画でも、シュール映画の類でもない。
何を言いたいのか、よくわからない映画でもある。
そのことに異議を唱えるのは野暮である。
いや、単におふざけが過ぎた映画と呼べなくもないし、実際そうなのだ。
B九の極みであり、カルト的人気を誇る作品である。
わけのわからない映画を作るといって
日活を解雇されてしかも10年もの年月を干されてしまった問題作、であるが
今みると、清順の才能の勝利にだれもが嬉々として祝杯を掲げるだろう。
不思議なものだ。
何年かぶりに、じっくり見直してみた。
確かにわけがわからない。
そんなところもある。
が、それがなんだというのだ?
飯の炊ける匂いにエクスタシーを覚える殺し屋 No.3
花田五郎をエースのジョーこと宍戸錠が
殺し屋をはまり役で演じている。
そうはいっても、おそらく宍戸本人さえ
映画をきちんと理解して演じているとは思えない。
No.3だから殺しに失敗したのか、
はたまたNo.1になれないことで失敗が許されるのか?
そんな哲学的な映画でもなんでもない。
ただただ映像としてキレがあり、
視覚的にグイグイ引っ張られてしまう、
そう、クセになる映画であることは間違いない。
偶然かそれともパクったか、
いみじくも1967年に撮られた
ジョン・ブアマンによる『殺しの分け前/ポイント・ブランク』に類似しているという声もある。
はちゃめちゃなフィルムノワール、
シュールな展開という点ではそうかもしれないが、
よもや炊飯器で炊きたての飯に興奮する殺し屋は
鈴木清順をおいて誰が発想しえようか。
もっとも、この炊飯器こそはスポンサーパロマの商品ゆえに、
映画内でどう扱うか、という命題にさらされていたわけだから、
いかにも清順的天の邪鬼な発案だと言って過言ではない。
それにしても、モダンな音楽の喧騒との途中に挿入される清順美学の数々。
遊びなんだか、ふざけてるんだか、
画面に蝶や雨のグラフィックを走らせたり、
義眼の下からダイヤモンドを取り出すシーンは
『アンダルシアの犬』のパロディか?
広告看板の動くガスライターの間からの狙撃。
あるいはトイレの便器の渦巻く水に髪の毛の束がぐるぐる回る
「水道管逆流」マジック。
無数の蝶、昆虫の標本のような眞理アンヌの部屋。
それぞれに意味を見出したいかもしれないが
そんなこたあ知ったこっちゃない、ってな感覚がひたすら突っ走るのだ。
やおら耳をつんざく銃声が、
殺し屋たちの獣性となって暴れまわる。
殺しのランキングに漏れたからって、何を嘆くのか?
大正男のロマンティシズムとでも言いたいのか。
そこに男のロマンを感じたいなら感じるがいい。
脚本クレジット八人集、具流八郎の中の一人、
冒頭で引用した大和屋竺の歌う主題歌の切なくも渋いブルースが身にしみる。
それだけでも十分な映画なのだ。
そもそも殺し屋のランキングというものが
何によって定義されるのか?
そんなことを聴くのは野暮ってことだ。
やっぱり、鈴木清順って人は面白い。
それ以上のことは何もない。
それでいいのだ。
ラストシーンに流れるテーマ
青い顔の殺し屋は見覚えがあった。
「誰だ? どっかで見た顔だ」
「やるか?」
鏡の向こうに砕けて消えた。『殺しの烙印』のテーマ 作曲」山本直純 歌:大和屋竺
巻上公一 :女を忘れろ
元ヒカシュー、巻上公一の92年リリースの『殺しのブルース』からの「女を忘れろ」。原曲は、小林旭による1959年の日活映画『女を忘れろ』の主題歌である。アルバムの中には『殺しの烙印』のテーマカバー「殺しのブルース」も収録されている。映画もただならぬ雰囲気を放っているが、このアルバムも負けてはいない。プロデュースは歌謡曲コレクターで知られるジョン・ゾーンで、参加ミュージシャンも、ニューヨーク界隈で活躍するなかなかのメンツ。この曲でのオルガンプレイはジョン・パットン、ギターにマーク・リボー。なんとも豪華なメンバーが集っている。サントラにはない魅力がふんだんに詰まった面白いアルバムだ。
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