なりふりかまわず、行きすぎた実録雪景色
両親共々、富山県人で、
僕自身、小さい頃から北陸には何かと縁があり
新幹線よりもなにより“雷鳥(現サンダーバード)”によく乗った記憶が先立ち、
あの北陸なまり、独特の富山弁にも随分愛着があって
それらの印象が今なお皮膚感覚でしみこんでいる。
いうなれば、ルーツともいえる地、それが北陸だ。
だが、越中強盗、加賀乞食、越前詐欺師。
これが俗に言う北陸人の気質らしい。
そんな物騒なことは、これまで微塵も感じたことはなかったが、
深作欣二の『北陸代理戦争』での幕切れとともに流れる
「共通しているのは生きるためにはなりふり構わず、手段を選ばぬ特有のしぶとさである」というナレーションに聞こえてくるように、
確かに、そういう側面もあるのかもしれない。
そのあたりの考察をふまえて、映画を語ってみよう。
場所柄、ただでさえ、雪による撮影が難航するなか
当時、全国14県に支部を置くほどに、
日本有数のやくざ組織「川内組」がモデルということもあり
福井県警からも、執拗な撮影中止要請を受けていたという。
モデルになった組長川内弘は“北陸の帝王”とも呼ばれた武闘派ヤクザで、
映画公開一ヵ月半後には、実際に射殺されたほどで、
(劇中でロケに使われた喫茶店が事件現場になった)
進行中のやくざの抗争にまで影響を与えた作品としても
東映の実録シリーズの中でも、何かと曰くつきの一本が本作である。
その他諸々、なにかとエピソードには事欠かない映画で、
なかでも有名なのが、伊吹吾郎が演じた竹井役は元々が渡瀬恒彦で、
撮影中雪中での自動車事故に遭い脚に重傷を負った事件は
中島貞夫の『狂った野獣』において
スタントマンなしでアクロバティックなアクションで湧かせた渡瀬の野獣っぷりが
ここでは仇になってしまった格好で、遺恨を残している。
実際、『北陸代理戦争』でも、雪の中に生き埋めにするシーンでは、
当然、スタントマンではなく、
西村晃を筆頭に、実際にその俳優自らが身体を張っているのだ。
渡瀬の件もあり、一歩間違えばそれこそ大怪我につながったのはいうまでもない。
まさに命懸けの演技で、実録シリーズのその看板には偽りはない。
改めて東映の実録シリーズといえば、『仁義なき戦いシリーズ』である。
順調なら四作目『仁義なき戦い 頂上作戦』で終わるところを
シリーズものの宿命たる興行の欲というやつで、
第五部『仁義なき戦い 完結篇』まで続くことになる。
だが、すでにネタを出し切った感のあった脚本の笠原和夫は手を引き
最後の一本は高田宏治へと代わっている。
その高田が、その流れで『北陸代理戦争』で改めて脚本を書いている。
ちなみに、興行的には、先の『仁義』には遠く及ばず、
記録的な不入りとなった作品であるのだが、
少々出がらし感はあるものの、その熱は負けてはいない。
『仁義なき戦い』が、敗戦後歴史的“都市”と化した焦土の中から立ち上がり、
闇市と愚連隊が力を持った世界を描き出したのに対し
この『北陸代理戦争』は、すでに熱が冷えきった後の昭和の雪景色に
地域固有の恩讐が絡む群像劇としてドラマチックに展開されてゆく。
戦後を「生き延びるための暴力」は、ここでしっかりと制度へと組み込まれ、
「高度成長」という名の下に、経済の装置として滑らかに回転している。
福井のヤクザたちは、自らの意思で抗うのではなく、
大阪や名古屋の“本家”の指令によって動く、まさに代理人戦争を繰り返す。
すなわち、「中央の手足」として存在しているというところに、
深作が見抜いた戦後日本の構造そのものが顔をのぞかせているのだ。
だが深作欣二という映画作家は、単に構造の冷酷さだけを描いたわけではない。
この映画には、地方特有の湿度とねばり気があり、
広島とはまた違う風景の抒情をうまく引き出している。
それはまさに北陸という土地の風土そのものであり、
人間の「情」が織りなす独特の温度だ。
だからこそ、雪国の人間関係が、閉鎖的かつ濃密で、
裏切りも復讐も、義理や恩の延長にあることが際立つのだ。
ここでは、『仁義なき戦い』の集団群像劇の濃いキャラクター設定が
幾分縮小化され、この一話のなかに話を詰め込まれている。
まずは、なんといっても最初から最後までが松方弘樹のワンマンショーだ。
岡田茂の息のかかった東映のスターが
主人公川田を、持ち前の暴れん坊ぶりをいかんなく発揮し演じている。
一方、そこに小物感あふれる親分・安浦を演じる西村晃が、
みせかけの権力の奥で震えながら右往左往すれば、
ハナ肇演じる叔父・万谷もまた、同族の情に溺れつつも
ひたすら滑稽さを滲ませて主役の引き立て役となる。
それらに混じっての情婦や妻を演じるのが
野川由美子や高橋洋子といった女優陣であり、
男の社会に彩りと艶を添えているのだが、
なかでも、高橋洋子演じる川田の妻信子は
最初すこしぶっきらぼうで粗野ながらも
野川由美子の姉キクから男を奪うという設定で、
その体当たりの演技が、映画のなかのアクセントとして
北陸気質のねばりと哀しさを体現してみせている。
つまり、これらの人物像は、どこか“暴力映画”の外にあるなにかを
しきりに体現しようとする気配を全面に押し出しながら、
心のどこかで「人間らしさ」を捨てきれないという
アウトローたちの哀しき群像劇を描いている。
これは日本的組織の倫理の源泉であり、同時に腐敗の温床を暴いてみせる。
こうしてみると、ヤクザ映画の形を借りて、
日本の組織社会そのものを描いていた作家が深作欣二だった。
戦後の“熱さ”を描いた広島から、体制の“冷気”を映した北陸へ。
東映映画として、数々の金字塔を打ち立てながら
深作欣二の実録シリーズには、ヤクザ映画の枠を越えて、
日本社会そのものの年代記となる側面をも兼ね備えている。
『仁義なき戦い』で試されたのは、国家がまだ未熟な時代をどう生きたかであり、
『北陸代理戦争』では、その国家が成熟し、暴力までもが官僚化した時代を
そうした裏社会の縮図を通し描きだすことが観客に受けるか否かを試した。
その賭けは前者はまんまヒットしたが、後者はそうでもなかった。
とはいえ、もはや義理や仁義のためではなく、
利権配分のための行政行為に近い現場を実録ものとして
描いてきた世界は、エンターテイメントと文化史の両方を
きっちり踏まえれば、観客の心を掴めることを証明した。
暴力は、所詮政治の代用品であり、
ヤクザたちは“地方自治の影の公務員”のように働くコマでしかない。
その構造の中で、松方の川田はひとり抵抗する。
だがそれは組織にではなく、人間の情の腐敗への抵抗でもある。
彼が立ち上がる理由は、もはや金でも名誉でもない。
暴力の時代を超えて、
「人間とは何か」という問いのなかで
ただ、自分の中の義理を裏切らないために男を立たせる、それだけだ。
まさに北陸人の意地をまざまざと見せつけられることになる。
こうしてみると、確かに“なりふり構わず手段を選ばぬ特有のしぶとさ”を感じる。
あながち、嘘でもないのだと。
そういえば、僕が知る、北陸人の印象のひとつとして、
セレモニー好きというのがあるのだが、
いわゆる冠婚葬祭に力を入れるという気質は
地域性が強いからか、そのつながりは、都会にはない強い絆でありつつも
見方を変えれば、村社会としての排他主義が強いということの証であり、
ある意味、陰湿な部分がよりクローズアップされるといえるのかもしれない。
その絆の濃さ、強さが、文化土壌にしっかりとあることは
人間味、人間らしさの根底を支えることであり、
それがたとえ下層社会であれ、反社組織であれ、
同じベクトルで揺れ動く人間ドラマが
どこか滑稽で、愚かで、しかし限りなく人間的な光として
みごとににじみ出しているのだ。
Red Hot Chili Peppers – Snow (Hey Oh)
レッチリの「Snow (Hey Oh)」は、アンソニー・キーディスによれば、これは“生き延びること”と、“もう一度やり直すこと”についての歌であり、歌詞において、「“生存(survival)”と“やり直し(starting over)」は、過去の薬物中毒を経た自身の経験から、「雪のように真っ白な状態からの再スタート」を願って歌われているためか、どこか神妙に聞こえてくる。映画『デスノート the Last Name』のエンドロールで使用されたこともあって、それを意識した歌詞にも思えるが、元々 『Stadium Arcadium』の収録曲として先に制作・リリースされた曲で、映画のために書き下ろされたわけではない。
一方、深作欣二『北陸代理戦争』は、真っ白な雪の上に真っ赤な鮮血が飛び交うような映画であり、そんな神妙な話でも、哲学的なテーマを扱っているわけではないから、少しこじつけぽく思うかもしれない。とはいえ、ヤクザとて、ひとりの人間、生存とやり直しは、常に彼らアウトローたちに付きまとうテーマであるのはいうまでもない。そこには正義の勝利はなく、世界の浄化もなく、ただ、取り返しのつかない結果の前に、生き残ってしまった人間が、それでももう一度歩き出すために、自分にそっと言い聞かせる歌としてなら、皮肉っぽく聞こえるかもしれない。












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