ニダ・マンズール『ポライト・ソサエティ』をめぐって

ポライト・ソサエティ 2024 ニダ・マンズール
ポライト・ソサエティ 2024 ニダ・マンズール

常識なんぞ糞食らえ、回し蹴りと笑いで挑む反抗の美学

ロンドン郊外。
静かな住宅街の一角、パキスタン系ムスリムの家庭に育った少女リアは、
今日もひたすら回し蹴りを練習しているカンフー女子校生である。
座右の銘は「怒りの権化」、目指すはスタントウーマン。
まさに彼女はサードカルチャーキッズ、
つまりは多様な文化、第三文化で育った子供なのだ。
そんな将来の夢を熱く語る彼女の傍らでは、
美しく聡明な姉レナが、それまでのアート志向を捨て
突如として“良縁”とやらに捕まり、ウェディングドレスの試着中。
しかし、相手の実家がなんだか怪しい。
金持ち、イケメン、遺伝学者、しかしマザコンとくる。

そんな設定から始まる『ポライト・ソサエティ』は、
まるで文化の境界線で育った少女が夢と家族と社会の期待とを
空手チョップと回し蹴りでぶった斬っていく、
いうなれば痛快すぎるアクション・コメディが繰り広げられる。
監督は、テレビシリーズ『絶叫パンクス レディパーツ!』で注目された
新鋭ニダ・マンズール、女性監督で、
現場はニダを中心に、助監督、撮影監督、女性スタッフがメインで支える。
彼女には、年頃の、ちょっとやんちゃな乙女心をうまく捌いてみせる手腕がある。
それは『絶叫パンクス レディパーツ!』で実証済み。
そんな彼女にとって、本作が長編デビューとなるが、
これがもう、デビュー作とは思えないほどの
新感覚なアクロバティックさとテンションで、
最後まで観客を振り回しながらも存分に引き込んでゆく。

まず特筆すべきは、ジャンルの融合っぷりだ。
家族ドラマかと思えば、次の瞬間にはスローモーションの格闘アクション。
突然ボリウッド風のミュージカルが差し込まれたかと思えば、
クライマックスではスパイ映画ばりの潜入ミッションが始まるといった具合。
普通なら「ごった煮」になってしまいそうなこの要素を、
リアのテンションと妄想で強引に押し通すあたりがなんとも清々しい。
監督の言葉を借りるなら、「陽気なカンフー・ボリウッド叙事詩」というわけだ。
まさに、現実と妄想の境界が曖昧な10代の脳内を、
映画そのものが模倣しているかのようなハイテンションで進んでゆく。

リアが闘う相手は、単なる悪役ではない。
むしろ彼女の敵は「礼儀(ポライト)」という名の、
目に見えにくい社会的抑圧なのだ。
だがこの映画には、ある種ステロタイプのチープさから救い出す形態がある。
女の子はこうあるべき、家族の期待には応えるべき、
良い結婚をすれば幸せになれる、そうした“丁寧な”暴力が、
彼女の夢をねじ伏せようとする。
だがリアはそのたびに、回し蹴りで反撃する。
最初は空振りだらけだった彼女の攻撃が、
やがてしっかりと相手を捉えるようになる展開には、
思わずこちらもガッツポーズで祝福だ。

それにしても、この映画、キャラクターが立っている。
リアの友達二人クララとアルバ、そして目の上のたんこぶというか、
リアの前に立ち塞がる女ジャイアンこと、コヴァックス。
その仲間がいざ結集して、結婚式をぶっつぶす。
まさに漫画、あるいは香港活劇のテンションで挑んでゆく。
なにしろ、親友にして、最愛の姉リーナが
シャー親子のクーロン計画の野望の前に
実験台として利用されようとして危機一髪なのだ。
このラヒーラという母親のキャラクターが半端ない。
まるで楳図かずおの『洗礼』の、若草いずみを彷彿とさせるモンスターだ。
敵はサリムというよりも、この母親がターゲットとなり、
姉思いの妹の「怒りの権化」っぷりが炸裂する。

ただし、この映画が描いているのは、
パキスタン系英国少女の“第三文化的”な生の実感である。
自分は何者なのか? 英国人として? ムスリムとして? 女の子として?
それともただのリアとして? ってことだけど、
映画の語り口が一貫性を持たず、あちこちに跳ねまくるのは、
彼女たちの複雑なアイデンティティを映しているからなのだろう。
むしろ、ジャンル的に整合性を持たないことこそが、
本作最大のリアリティといえるのかもしれない。

さらに注目すべきは、姉妹の関係性。
よくある「姉の結婚を止めようとする妹」の図式にも見えるが、
話はもっと捻れている。
リーナ自身にも夢があり、それが挫折してゆくなかで、
そこから“安定”という名の選択肢に惹かれていく背景がある。
姉妹の対立は単なる善悪ではなく、
「夢を見る権利」をめぐる世代間/価値観の衝突としても描かれているのだ。
だからこそ、最終的にふたりが選ぶ“共闘”の展開に、
こちらも思わず胸を撫で下ろすのだ。

そして何よりも、この映画が楽しいのは、「大真面目な問題」を
「ふざけたノリ」で解体していく熱量である。。
むかしよく観た活劇そのものの熱狂感がここにはあるのだ。
そのあたり、漫画っぽいと思わせる演出が上手く効いている。
人種の問題も、宗教的な制約も、家父長制も、それらすべてを背負いながら、
リアは殴るし、蹴るし、変顔も全開でキメてくれる。
まさにザッツエンターテイメント!
重たいテーマを背負っているにもかかわらず、
映画全体のテンションは驚くほど軽やかで、
それが逆に、切実さを浮かび上がらせるのに成功しているのだ。

ニダ・マンズール監督は、きっとこう言いたかったんじゃないだろうか。
「彼女らは悲劇のヒロインなんかじゃない。笑って戦う女の子たちなんだ」と。
そんな彼女たちの“ポライト”で“過激”なレジスタンスに、
世代を超え、人種を超え、思いきり拍手を送りたくなる。
ちょうど友達にもわかってもらえず仲違いをし、
シャー家にひとり乗り込むことになったリア。
そんなシーンのバックに流れるのが、浅川マキ「ちっちゃな時から」。
思わずハッとするこの選曲に、社会から取りこぼされた女性の憂い、
あるいは寂寥感の中に宿る静かな強さがあり
彼女の抱える孤立感、文化的周縁性と響き合うのを強く感じる瞬間だ。

最後にひとつ。
回し蹴りひとつで運命に抗うその姿は、あまりにも無防備だ。
だからこその青春であり、やりたいことがあることの素晴らしさ、
同時にもどかしさがあるのだ。
「むかうところ敵だらけ」というキャッチフレーズに思わずニンマリするのは、
そんなたくましい女の子の姿に、どこかで不意に心打たれ、
やりたいことがあってできずに悶々と過ごす、
自分自身の抑圧への代弁者だと感じるからかもしれない。
若者ならだれもが抱える青春のジレンマ。
とりわけ、この映画のテーマである、
イギリスにおけるサードカルチャーキッズの反抗心、
その生き方への共感があるのだと思う。
リーナももう一度、アートに目覚めてくれたらいいな。
リアとともに、自らの夢に向かってゆく勇気を応援したくなる。
いずれにせよ、笑いながらも、終わったあとに何かが胸に残る、
そんなボリウッド映画だ。

ちなみに、劇中でリアが憧れるスタントウーマン、ユーニス・ハサートは
この映画以外でも、スタントダブルで活躍するイギリス人で
非常に有名なスタントウーマンだという。
そんな彼女へのリスペクトを込め、
実際に主演のリア嬢演じたプリヤ・カンサラも、
この映画の撮影のために撮影前3か月間のトレーニングを積んだのだとか。
ワイヤーアクションや、あの高速回し蹴り
“540度ジャンプキック”といった動きは、
その甲斐あって、スタントの95%をもこなしているのだとか。
そうした熱量が積み重なって、この映画のアナーキーな面白さを引き出す原動力になっているといっていいだろう。
「いかなるルールにも従わない映画を作ることに深いカタルシスを感じる」
とは監督自身の言葉である。
まさに、自らが体験してきた“礼儀正しい社会”への反骨心が凝縮された、
真のパンクスピリットを擁する映画に、改めて乾杯だ。

浅川マキ : ちっちゃな時から

まさか、ボリウッド映画で日本の、しかも浅川マキの「ちっちゃな時から」が聞こえてくるとは。まさに、パキスタン系英国少女が放つ“第三文化的抵抗”を、日本の地下ブルースが静かに支える瞬間だ。ニダ・マンズールのセンスに脱帽するしかない。アクションや笑いで弾ける物語に、ほんの一滴の哀愁を垂らすことで、リアの夢と孤独がより痛切に胸を打つ。まさに「笑いの中の影」。その陰影が、この映画を単なる青春コメディに終わらせない奥行きを生んでいる選曲だと言えるだろう。