気を植えた男
芸術は人間にできる最良のこと、つまり、期待、信仰、愛、美、祈り……が実在しているということを確信させる
— アンドレイ・タルコフスキー
タルコフスキーという映画作家のスタイルは、
いうまでもなく、独特な世界感を持ち、それを提示する。
歴史であれ、SFであれ、
描く世界は、絶えず難解で詩的映像を駆使した現代の寓話だ。
ワンシーンワンカットの長回し、
あるいは生き物のように艶かしいカメラの移動をもって
カラーとモノクロによる映像美を交差させながら、
たくみに水や火、風という元素を、
美的に、あるいは音響として随所にはめ込みながら、
その廃墟や劇空間的な見せ方に彩りを添える……
どれもがタルコフスキー独自のスタイルに貫かれているといっていいだろう。
この唯一無二な映画観は、仮に誰かがその影響下に続こうが、
スタイルを表層的に模倣し踏襲しようが、そこに取って代われるものなどないのだ。
『サクリファイス』では、かのベルイマン作品の俳優、
『ノスタルジア』から引き続き、エルランド・ヨセフソンを主役に据え
主要カメラマンであるスヴェン・ニクヴィスト、美術のアンナ・アスペ
プロデューサーにカティンカ・フアラゴ女史というベルイマン組からのスッタフを迎え、
スウェーデンでのゴットランドという島で撮り上げた遺作である。
ちなみに、そのすぐ北にはベルイマンが愛し晩年を過ごしたフォーレ島があり、
どこまでベルイマンを意識して、この映画に挑んだのかわからないが
最後まで故郷ロシアの地を踏むことが許されず、
遺作を迎えたタルコフスキーの『サクリファイス』は、
文字通り、その最後の祈りの映画をこの地に託し
言葉以上に雄弁、かつ重い集大成のメッセージを刻印している。
ヨセフソンはタルコフスキーの後期2作に出演しただけだが
ここではタルコフスキー色に深く染め上げられた重要な人物像を演じており、
タルコフスキーの思いを代弁する。
アレクサンデルは、明らかに『ノスタルジア』のドメニコの延長上にいる男だが
ここでは哲学と芸術を愛し家族をかかえながらも、
言葉の無力さに絶望している“狂人”である。
核戦争の危機に直面し、静かに世界の終末に慄く彼は、
それまでの無神論者たる放蕩のはてに、ついにある夜、神に祈る。
「この世界を救ってくれるなら、すべてを捧げる」のだと。
そしてその祈りは、マリアという一人の“魔女”との交わりへと導かれ、
やがて自らの家を焼き払うという手段に至るのだ。
ドメニコは自らに火を放ったが、アレクサンデルは家をまるごと焼き払い、
最後に、思いを枯れ木に託すのだ。
この祈りは、理性から生まれたものではない。
むしろ、世界の理性が崩壊し、言葉が意味を失った果てに追い込まれ
「神にゆだねるしかない」絶望のなかで発せられた、沈黙の跳躍として描かれる。
この点において、アレクサンデルは『ノスタルジア』のドメニコと深く共鳴する。
いずれも、決して信仰を取り戻した姿ではない。
絶望のなかで、ただ祈らずにはいられなかったのだ。
それは最後まで故郷にもどれず、異国で伏した自身の無念さとも被るに違いない。
アレクサンデルが家に火を放つ6分30秒近く続く圧巻の場面では、
これまでのどのタルコフスキー映画の中でも最も過酷なものを映し出す。
彼の芸術、家族、知性の象徴である家が、
そのまま現代社会の構築物そのものを象徴しており、
同時に故郷ロシアそのものへの暗喩にも映るからだが、
燃えさかる家は、祈りの成就ではなく、祈りそのものの具現化であり、
それまで執拗に描いてきた水という物質同様、火による魂の浄化と読める。
とはいえ、火や炎は、不浄なるものを瞬く間に灰にし、
無に還元してしまうような、そんな恐ろしい力を漂わせている。
水が母的なものであるなら、
火は父権そのもの、といっていいかもしれない。
ここには、物語の展開上の犠牲ではなく、映像による祈りの儀式が展開され、
監督自身の内面が、ほとんど告白のように映し出されている瞬間が映り込む。
じっと長回しで据えられたカメラがとらえる一度きりの火事のシーンが、
撮影の不具合で台無しになったという話は有名だ。
そこからすべてを準備し直し、もう一度すべてを撮り直す、
なんという試練、なんという執念だろうか?
タルコフスキーはおそらく、この映画が最後の映画になることを
どこかで自覚して臨んでいたのだと思う。
そこには前作『ノスタルジア』で、蝋燭を灯し手で火を消さぬよう、
なんどもあの執拗に温泉を渡りきろうとした
タルコフスキーの分身アンドレイの姿をも思い出す。
そのなかに、タルコフスキーの時間感覚と「芸術への誓約」が見てとれるといっていいだろう。
この映画は、もはや物語の意味をなしてはいない。
それは、映像という形式に託された、映画詩人の魂の発露なのだ。
とはいえ、『サクリファイス』が、ひとつの寓話的側面を宿しているのは
祈りの成就に欠かせないマリアの存在である。
彼女は“魔女”と呼ばれながらも、実際には自然と人間、理性と神秘のあいだに立つ、
いうなれば霊的な媒介者である。
彼女との交わりのシーンでは、アレクサンデルとマリアは宙に浮く。
まさに、重力からの解放、つまり現実からの昇華だ。
これはかつて、『鏡』にも登場したタルコフスキー的モチーフのひとつだが、
そこに魂の高揚を象徴する“祝福の奇蹟”となって現れるのだ。
そして、この寓話を導く存在が、郵便夫オットーだ。
彼は風変わりでユーモラスな人物として登場するが、
実はこの物語の“道化的預言者”として存在し
アレクサンデルにマリアの存在を告げ、祈りのベクトルを導く者である。
オットーの語りは、どこかニーチェ的でもある。
神は死んだという20世紀的ニヒリズムの地平を通過した先に、
それでもなお、霊性への扉を開く者としての強さがある。
彼の存在に、タルコフスキーの芸術家としての“信じられないものを信じる”姿勢、
すなわち詩と祈りの媒介者としての祈りが読み取れるのかもしれない。
『サクリファイス』は、一本の木を通し、
祈りによって始まり、祈りによって終わる。
だがその祈りは、ついに誰にも理解されず、主人公は連れ去られる。
理解されない犠牲、それでも託したかった未来。
そこにこそ、タルコフスキーの思想の核心が横たわっている。
芸術家としてのこだわりが深く刻み込まれているといっていいだろう。
最後に、言葉を発さぬ子どもが、誰にも指図されずやってきて、
この木を植えた不在の父にかわり、水をやり、問いかかける。
劇中、一言も言葉を発しなかったこの幼き子供が
父の祈りを言葉によって再生するのだ。
はじめにことばありき
木のそばで寝そべる少年に、カメラは静かに寄って、
しずかにカメラがパンをしてあがってゆくと同時に
バッハのマタイ受難曲が、レクイエムのように響いて映画は終わりを告げる。
祈りとは、ことばであり、ことばとは、無から芽吹く希望である。
世界は救われるのだろうか? その答えはけして描かれはしない。
だが、木は植えられ、そして言葉が戻った。
それは終わりではなく、始まりなのだ。
言葉のない少年、沈黙を尽くした父。
その間にあるものこそは、ことばと祈りの思いでしかない。
アレクサンデルの祈りは、決してだれにも理解されなかったわけではない。
その場にあった祈りが、その枯れ木によって希望を繋ぎ止めているのだから。
タルコフスキーは、決して語ることで未来を語る映画作家なんかじゃなかった。
むしろ彼は、「未来とは語られることを拒む沈黙」を貫いた映画人だったといえる。
沈黙こそが、祈りを受けとるための容器となり得るのだと。
唯物論という不毛な論争に時間を託すのではなく、
アレクサンデルはひたすら行動し、一本の樹に想いを託した。
だが、戦争や紛争、物質的支配がこの世からなくなることはない。
彼自身が救われたわけでもない。
よって、『サクリファイス』は遺作であると同時に、
残された人類全体に向けられた“未完”の映画でもある。
彼が病床で次作の構想を残しながら、叶わなかったことは周知の事実だ。
だがこの未完の思いこそが、タルコフスキーの未来観と響き合っていくのだ。
彼は完結な意志を刻むことより、
映画を通し、観客のなかに発芽する問いを信じたかったのかもしれない。
最後に、ここにもうひとつの祈りの言葉を添えたいと思う。
谷川俊太郎という詩人の声。
人間の孤独を、宇宙の静寂とともに感じとりながら綴った一節を呼び起こしてみた。
「人々の祈りの部分がもっとつよくあるように
人々が地球のさびしさをもっとひしひし感じるように
ねむりのまえに僕は祈ろう」
—— 谷川俊太郎 『祈り』より
David Sylvian Maria (LIVE)
タルコフスキーを敬愛するミュージシャンのなかで、デヴィッド・シルヴィアンの楽曲は、その映画の空気感を伝えるに相応しい雰囲気に満ちている。この「Maria」が『サクリファイス』からインスパイアされているかどうかはよくわからないが、「Maria」繋がりということで、真っ先に浮かんだ。歌詞は実に詩的で、タルコフスキーの映画同様、内省的で感覚的なイメージが断片的に表現されている。『Secrets of the Beehive』に収録の、スタジオ録音版もいいが、ライブでの高木正勝によるビジュアルエフェクトも素晴らしい、こちらのライブバージョンのアレンジも悪くないので捧げておこう。
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