テロとエロ、その間に巣食う曖昧な欲望
物事が成就する事を、唐突に中断させるのはお手の物、
簡単にできるであろうことができなくなる可笑しさ。
蛇の生殺しのような寸止め状態、
そんなシチュエーションを意地悪く愉しみながら
観るものを不安にさせるような演出がお好きなようで、
『皆殺しの天使』では部屋から出られなくなったり
『昇天峠』ではバスがなかなか目的地につかなかったり
『ブルジョワジーの密やかな愉しみ』ではなぜか食事にありつけなかったり、
そしてこの遺作にて傑作たる『欲望の曖昧な対象』では、
目の前の女をついぞモノにできず
性に翻弄されてしまうという展開に、やきもきさせられる。
それにしてもブニュエルという人は真面目にふざけるひとである。
ピエール・ルイスの倒錯した愛憎を描いた心理小説『女と人形』を
下敷きにしてはいるが
内容はブニュエルと片腕ジャン=クロード・カリエールの創作である。
原作にある「悪魔のような女」というセリフを吐く主人公だが、
その悪魔を切れない男の哀しさを引きずりながら
最後は全てを煙に巻くような唐突な終わり方をする。
最後まで、ブニュエルという人は人を食ったような映画を作った。
フェルナンド・レイ演じる男ヤモメの富豪の紳士マチュが
邸宅にやってきた女中コンチータを見初め
なんとかものにしたいと必死になればなるほど
滑稽なまでに味わされる屈辱。
何でも望みのものは手に入るような立場の男が
小娘を前にいつになっても「ねんごろになれない」
というものほど虚しいものはない。
しかし、そんなことだけを単に映画にしようと思う映画監督ではない。
その欲望の対象が2人1役という
なんともふざけたことを堂々なしえてしまう作家なのである。
一人二役の映画なら、ざらにあるが、
これがブニュエルの手にかかればちょっと違う。
気をてらった小手先のトリックを閃いてしまう。
なんの整合性のないことをあっけらかんとやってくれるのだ。
遺作にして、ブニュエル神話にもさらに箔がつくというものだ。
最初に起用した女優(誰なんだろう?)との折り合いがつかず、
一時は頓挫しようかという中で、
この大胆な演出をとあるとき、バーで杯を酌み交わす際に思いついたそうだ。
そのなんとも肩の力が抜けた感じが晩年のブニュエルの憎いところだ。
最初に現れたのは確かキャロル・ブーケだったよな、
でも途中から別の女優スペイン人アンヘラ・モリーナになっているのはなぜ?
しばらくすると、またキャロル・ブーケに変わっている。
おもわず、目をこするが錯覚ではない。
別に似ているわけでもないし、タイプも全然違う。
クールビューティなキャロル・ブーケに対し
アンヘラ・モリーナと言う女優はコケティッシュで官能的だ。
案の定、セックスそのものをひけらかすのはアンヘラ・モリーナの方だ。
しかし、そんなことはさして問題ではないと言わんばかり
まさに対象を曖昧化するためのトリックなのか?
思わず観客は考え始めてしまうに違いない。
これを「曖昧な対象化」と捉えることもできるが
二面性としての二役、というわけでもなさそうである。
そんなおかしな取り違いによって、混乱だけが生じるのだけである。
こうしたトリックの効能はさておき、
フェルナンドが列車のなかでたまたま同席した人々に
自分が受けた屈辱を話すというシチュエーションの中では
その曖昧さは、常に一人の女という対象に収斂されてゆく。
こうしたトリッキーな演出や
貞操帯に始まり、鍵をかけられ目の前で抱擁をこれみよがしに見せられたり
性にまつわる妄想ばかりを考えるような、
そんな表面の見せかけに騙されてはいけないのである。
なんと言っても、シュルレアリスム映画の金字塔、
あのダリとの共作たる『アンダルシアの犬』で
無政府主義的な作風でデビューし、続く『黄金時代』では
50年間公開禁止になったり
パルム・ドールを受賞した『ビリディアナ』ではバチカンを激怒させ
反キリストの姿勢から50年間公開禁止の目になった曰く付きの映画人である。
事あるごとに、目をつけられながら、
嘲笑うかのように、人の目を欺くような映画を撮って来たブニュエル。
神を否定し、ブルジョワジーを嘲笑し、母国スペインを追われたこの映画監督が
単なるお遊びと心の残りで遺作を撮るわけもなく
そこかしこに、「テロ」の痕跡を挿入しながら
最後はあっけらかんと、二人まとめて爆弾でドカン。
テロ落ちで締めるあたり、ブニュエルのブニュエルたる所以があるのだ。
何を隠そう、目の前にいる自分よりも
遥かに下層である女一人をものにできないという怒り
それこそは権力そのもので、
全てを手中に収めようとする国家や宗教への反抗とも読み取れ、
その強い意思の反映した方法論としてのテロリズムそのもののである。
ブルジョワ男も、下層階級の女も
全ては神なき地上の藻屑として処理されるこのラストシーンに
ブニュエル集大成の真意が込められているような気がするのだ。
おそるべしブニュエル翁。
それにしてもそんなブニュエルのフィルモグラフィーは
いつ眺めても圧巻である。
いつまでも「アンダルシアの犬」のようなアバンギャルド性のみを引きずるでもなく、
メキシコ時代には娯楽大衆むけの映画を量産し
国境をこえ、最後の最後まで、自由と欲望と反抗を以って
その精神性を生涯失う事なくスクリーンで戯れ続けた偉大なるシネアスト
ルイス・ブニュエルここにあり。
その名前をリスペクトを込め、改めてここに刻んでおこう。
Yoko Kanno – bless (feat. Arnór Dan)
ブニュエルとは何の関係もなく、これは日本のテレビ「残響のテロル」のサントラからコチラが勝手に選んだ。「CMソングの女王」とまで呼ばれ、主にアニメ、ゲーム、CM、ドラマ、映画の音楽を手掛けている才人菅野よう子の音楽性を、語れるほど彼女のことを熟知していないが、そのタイトルの響きが、どこかブニュエル「欲望の曖昧な対象」に呼応しているような気がした。アニメもみていないが、このサントラはなかなか興味深かった。このアニメ、まさにブニュエルにたむけるに似つかわしいキャッチだと思った。「この世界に、引き金をひけ。」そのサントラのラストを飾る「BLESS」を贈ろう。歌っているのはアーノール・ダン・アーナルソン。アイスランドのミュージシャンで、プログレバンド、エージェント・フレスコのリード・シンガーであり、同アイスランドのオーラファー・アーナルズとのコラボレーション知られている。
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