森井勇佑『こちらあみ子』をめぐって

こちらあみ子 2022 森井勇佑
こちらあみ子 2022 森井勇佑

おばけなんてナイスさ

子供が主役の映画の場合、
ややもすればそれだけで感動や共感を呼び起こしやすく
内容そのものよりも、
子役の演技や存在に目を奪われがちになったりする。
可愛かったり、胸を締め付けられたり、
知らず知らずに感情移入していたりするのだ。
どの映画がそうなのかを指摘するつもりはないが
その点は、客観的視座をもたないと
まんまと作り手側のあざとい魂胆にハマってしまう、そんな気がするものだ。
たえずそんな目で映画を見ているわけではないものの、
よりクールな視線を投げかけてしまうのは事実なのだ。
つまりは、ただひたすらに映画としてみる、感情三割引で、と言うところか。

そこで森井勇佑による『こちらあみ子』の話になるのだが、
こちらは紛れもなく傑作だった。
あみ子役の大沢一菜は実に強烈な個性の持ち主だ。
監督や周囲の思い入れもよくわかる。
しかも、ただ子役がいい映画というわけでもなく、
一本の映画としても、心に刺さるものがあった。
その意味では、冒頭の子役映画の罠にもってかれない映画だといえる。

あみ子はいわゆる発達障害と呼ばれる児童に相当するようだが
自分が小さい頃にも教室にそういった学徒がいたし
告白すれば、自分にも多少、そういう気があったのを覚えている。
授業中、勝手に教室を抜け出したり、
ロッカーにひとり隠れて長い時間閉じこもっていたこともあった。
が、時代は今より寛容だったし、さして気にも止めてはいなかった。

とはいえ、学校を始め、家庭にそういう子供がいたらいたで
その場に居合わせる人間たちにとっては
そういつも寛容でいられるわけでもないのだろう。
あみ子はあみ子であり、他人からみれば、
あみ子という特別な異分子にすぎず、
決してすすんで交わるつもりはない、というのが
正直な彼女のような児童に向けられる眼差しの真意なのだろう。
残酷だが、それが現実なのである。

『こちらあみ子』は広島出身の作家今村夏⼦による原作であり、
そのロケや広島弁が持つ空気感が絶妙に支配している。
原作は未読だが、映画と文学ではおそらく温度差があるはずだが、
少なくとも、映画のあみ子の存在感は
言葉ではなかなか表現しきれないほどに豊かさをもっている。
発達障害の児童を演じるという困難さは
部外者にはわからない領域であり、
少なくとも、そうしたひとつのハードルをこのあみ子は超えている。
人と同じではない、自由すぎる感性を
フィクションとして見事に演じているのだ。
演技のオンオフこそ、きっちりなされているとはいえ、
本能的とさえ思えるそんな恐ろしいまでの自然さが刻印されている。

正直なところ、「発達障害」という言葉の響きを好まない。
それは、ある種常識に照らし合わせ人を判断(区別)する
差別意識を内包しているように思えるからだが、
その差別意識によって、あみ子の孤立感が際立つことになる。
尾野真千子扮する継母との関係も
同級生のり君との関係も、あみ子は決して対等な立ち位置にはいない。
井浦新扮する父親はたえず優柔不断であり、
間を取り持ちうるほどの技量を持ち合わせてはいないし、
唯一の味方だった兄考太もストレスに堪え兼ねグレてしまい、
文字通り孤立した少女だけが取り残される。

あみ子は他者の気持ちがわからないがゆえに
その代償として、肉体的、精神的に痛みを負うことになる。
誕生日にもらったプレゼントのインスタントカメラで
家族撮影をするとき、母親の準備が待てず、
シャッターを押しカメラを取り上げられてしまったり
母親の流産に、その亡き子供の墓をつくって
母親を号泣させ、その後メンタル破綻にまで追い込んでしまい、
あげくに家庭をも崩壊させ、自らは祖母の家に幽門させられてしまう。
好きな男の子の体調不良を鑑みず、自らの感情をぶつけ、
そして鼻の骨を折られる、といった風に、
彼女の純粋無垢な行動はすべて日常生活では裏目に出て、
明らかに居場所をうしなってゆく、そう、追い込まれていくのだ。
そんなあみ子に幽霊という存在にファンタジーをかぶせる。
「お化けなんてないさ」を我関せず焉、大声で歌うあみ子だが、
実は一人異境に立ち向かう勇気を人知れず振り絞っているのかもしれない。
とはいえ、救いなのは、見えない世界のものだけが、
あみ子にはフレンドリーであり
あみ子たりうる異界の住人として、受け入れられていることが示されるのだ。

この映画が素晴らしいのは、
社会や家庭とうまくやっていけないというもどかしさ
あるいは、その絶望感をただ深刻に突き詰めるのではなく、
あみ子視線の逃げ場に、映画的ファンタジーや
生き物たちの美しい瞬間、描写などを絶妙に挿入しながら、
あみ子という異端分子に、そっと寄り添う優しさが垣間見られるところにある。
ラストシーンはまさに、そうした瞬間の集大成であり
この先、彼女が生きてゆく人生の不穏さよりも
その不穏さをも乗り越えてゆくであろう、強さをも内包しているように思え
その思いがまた心に刺さってくる。
文学では表現しきれない、なんといえない映画的な幕切れだった。

この映画をみて、ビクトル・エリセの名作『ミツバチのささやき』を
想起した人もいるだろう。
『ミツバチのささやき』のアナ・トレントとあみ子では
キャラが異なっているし、必ずしも話が類似しているわけではないが、
まっすぐな子供のまなざし、そして大人には見えない世界の住人たる視線
そうしたものが交差する空間で、大人になる一歩を体験するという意味では
共通するところもある。
なによりそこはオマージュともいうべきか、
『フランケンシュタイン』の引用がそれを物語っている。
その他、あたかもジャック・リヴェットの
『セリーヌとジュリーは舟でゆく』のシーンを彷彿とさせるような、
幽霊たちが舟に乗ってあみ子の前に現れるシーンなど、
映画的ファンタジーに満ちた『こちらあみ子』は
何処までも愛おしく、包み込むような魔法に満ちた映画だ。

PHISH:GHOST

映画のサントラを担当したのは青葉市子。そちらの音も良かったが、それは映画と共に味わって欲しい。この映画を見終わって、頭に流れてきたのなぜかPHISHの「GHOST」だった。トレイ・アナスタシオのギターもさることながら、マイク・ゴードンのベースも最高にかっこいいクールナンバーだ。GHOST(幽霊)のことを歌った曲で、その意味ではお化けつながりというわけだ。

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