キノボリスにそびえ立つロシアの巨塔、その名もバルネット
海に行かなくなって随分久しい。
海水浴という意味合いで、である。
やむえない諸事情もあるが、ときどきふと恋しくなる。
海水のしょっぱさ。
砂の熱さ、灼熱の太陽。
小麦色の肌、パラソル。
ダイナミックな波、しぶき、音。
そしてなによりも青い青い海。
そんなわけで、その悶々たる思いを
ロシア映画『青い青い海』を観て憂さを晴らす。
監督はボリス・バルネット。
実をいうと『青い青い海』よりも
処女作『帽子箱を持った少女』について
なんがしかの記事を書きたいと思っていたのだが
記憶があまりに飛びすぎていて、思うように書けない。
なので手元にあった『青い青い海』の方を再見して書いている。
前回観たのは随分と前の「ボリス・バルネット」特集のときで
確かソビエト連邦崩壊後に組まれたレンフィルム祭を皮切りに
“バルネット”という聞きなれない名前が唐突に入ってきた。
そのプログラムは一通り見たのだが
二十本あるなかの、いかんせん数本にすぎない。
ただそのときの興奮だけは確かに記憶している。
とりわけ『帽子箱を持った少女』のアンナ・ステンの可愛らしさが
記憶に焼き付いており、それ以来
アンナ・ステンのことばかりが頭から離れなかったのである。
のちのハリウッドに渡って活躍することになるが、
残念ながら本作以外のアンナ・ステンに関しては全く知らない。
あれは確かゴダールの『新ドイツ零年』で
この『青い青い海』が一部引用されていた。
(クリスタルの首飾りの珠がスローモーションでポロポロとこぼれ落ちるシーン)
ジャック・リヴェットをはじめとするヌーヴェル・ヴァーグの監督たちが
こぞって絶賛していたのも手伝って
俄然バルネット熱が嵩じたわけだが
特集で観たバルネット映画はどれも軽やかで
コメディが基調になっていることもあって、
いい意味で驚かされた覚えがある。
あたかも初めて映画を観る楽しさ、
喜びや興奮を味わうことになったのである
何しろ、それまで自分が知っていた旧ソ連の、
いわばレンフィルムには
どちらかというと一癖も二癖もある難解なものが多く
そうしたものからは想像できない、
むしろサイレントからトーキへと移行するあたりの
躍動するエッセンスに満ち溢れ
これが抑圧を受けていた
あのスターリン時代に撮影されたものとは到底思えないほど
映画的な歓喜の瞬間に溢れているのだ。
「バルネットの映画を仏頂面で迎えるには、
本当に石のように無感覚な心の持ち主でなければならない」
と言ったのはゴダールだが、
バルネットは「映画話術』の天才などと称され
リヴェットには「エイゼンシュテインを別にすれば、
ソビエト映画最良の作家」と言わしめたのも理解できる。
そんな瑞々しい映画を撮った監督だったが
最後はアルコールに溺れ自ら命を絶っている。
独裁的ロシアという革命の国家で
映画を撮ることの困難さを垣間見る思いがするのだが、
そうした全てをひっくるめても、
いついかなる時にも再発見されてしかるべき、
真の映画作家である。
『青い青い海』では大嵐のカスピ海で難破した船に搭乗していた
大の仲良しである二人の若者ユフスとアリョーシャが主人公なのだが、
たどり着いた島で、綺麗な若い娘マーシャに恋をし
言うなれば恋敵になってしまう話を書いた。
そこからがまさにバルネットの本領発揮の喜劇が
カスピ海の大時化の海を舞台に、
実に爽やかに、溌剌かつダイナミックに展開されてゆく。
歌あり、踊りあり、
時にはチャップリンやキートンを彷彿とさせるギャグというか
笑いどころ満載の71分は
まさに映画話術の古典のような瑞々しい映画作りになっている。
ちなみに綺麗な若い娘を演じたエレーナ・クジミアは
のちにバルネットの伴侶となるのだが
わずか四年の歳月しか結婚生活は続かなかった。
エレーナの回想によれば
バルネットの現場では、バルネット自身
かなり厳密に振る舞い、自由の余地がなかったらしい。
要するに、バルネットの下では、私生活はさておき、
女優としては思うような満足は得られなかったということだ。
離婚後、彼女を迎え入れたのはミハイル・ロンムで、
ロンムの元でようやく女優として開花してゆく。
モスクワに生まれ、リガ(リトヴィア)にて没するバルネット自身は
モスクワで絵画を習い、スタジオの装置係を経験し
国内戦に従軍したのち、
労働者体育軍事学校では講師を務め、
その時分にはボクサーとしても名を挙げることなる。
のちの大監督プドフキンらがいた
ソビエト映画黎明期のレフ・クレショフの元で俳優デビューを経て
本格的に映画作家の道へと進んでゆく。
コメディ作家を標榜しながらも
幅広い映画ジャンルをその話術の才を持ってして
大衆ならびに、批評家からも支持を受ける作家となってゆくことは
先に書いたとおりである。
のちに不遇の晩節を過ごすことになるバルネットの末路に
西側のもう少し自由な国で映画作りに挑むチャンスがあれば
もっともっとその名声が轟き、
その才能を遺憾無く発揮できたかも知れないと思うと、
一抹の寂しさを禁じ得ないのだ。
コメントを残す