曲がりなりにも間借りする物件に“でも”はなし。
こちとら長年の賃貸生活の身。
引越しの際の面倒は、なんといっても引越し準備や手続きにあるが
まずが良い(自分が求める)物件を探し出すことから始まる。
いろいろ面倒はあるが、同時にそれは楽しいことでもあって、
個人的に引越し自体は嫌いではない。
なにしろ、今はネットなんて便利なツールがある世の中だから、
自分が求める条件で家を探すことはさして骨が折れることでもないし、
むしろ、あれやこれやと考えすぎて
かえって思わぬ迷いが生じてしまうことだってあるぐらいである。
世間では昔から物件に出物なし、とはよくいうけれど、
安い物件には、なにかとウラがあるもので、
近頃では「瑕疵物件(訳あり物件)」、平たく言えば事故物件というやつで
なんらかの事件が起きた部屋であるとか、場合によっては霊的なものが出る、
といった物件だったりする場合もあるから、なにごとも見極めが大事。
家探しは、やはりタイミングと総合的な判断が必要になってくる。
さて、そんな瑕疵物件を借りてしまう男の話をしよう。
ポランスキー『テナント』である。
放題が「恐怖を借りてきた男」。
カルトムービーとまでは言わないが、
長い間、我が国では未公開だった幻のホラー作品である。
ポランスキの傑作ホラーといえば、『反撥』『ローズマリーの赤ちゃん』、
このあたりは、怖い、怖くない、という枠を超えて、
映画としても実に興味深い充実した内容でもあるが、
この『テナント』では、いよいよ主人公トレルコフスキーを
ポランスキー自らが演じている点に注目したい。
名前からもわかるように、主人公もまた
ポーランド系ユダヤ人であり、そのことがポランスキーの映画、
並びに、この『テナント』にも色濃く影響を与えていることは
火を見るよりも明らかである。
ポランスキーの映画は、よく見るとホラー映画でも異常心理映画でもなく
ただただ脅迫概念に抗おうとするポランスキーの体験を
状況を変え、映画に置き換え綴ったというべき、
ある種の私小説といってもいいのかもしれない。
その気の小さい、絶えず何かに怯えているトレルコフスキーという男を
あたかも素のように演じているのもなるほど納得なのである。
しかし、映画そのものは実に恐ろしいサスペンスとして
一人の男を追い込んでゆく話だ。
ようやくパリの安いアパートに転がり込んだものの、
何かと注文の多い賃貸物件である。
何しろ、それまで住んでいたというシモーヌという女が
身投げしたといって、窓から軒下のその未補修の自殺跡を見せられる始末で、
そこからすでに恐怖は始まっている。
前の住人の悲劇を踏襲せよとばかり
これでもかと仕掛けてくる隣人たちの罠によって
トレルコフスキーは次第に追い詰められてゆく。
女装をして、窓から同じように身を投げて、
そしてぐるぐる巻きの包帯姿で
病院に横たわるまでのこの間借り人の痛みこそは
ポランスキー自身が経験したユダヤ人としての
負い目そのものなのだということなのだろうか。
それにしても、いくら実際の体験から生まれているとはいえ、
ポランスキーのこうした強迫観念めいた演出は
実に恐ろしく、見事に引き込まれてしまう。
それは『反撥』『ローズマリーの赤ちゃん』にも十二分に発揮されていたが
『テナント』ではそれを見事に当人が演じることで
よりリアルで逼迫した空気が張り詰めている。
最初はまさにおどおどとした小心者である間借り人が、
一つ一つの事象の積み重ねで追い込まれてゆく姿が
一つのジャンルとして完成されている。
何よりも感心するのは、ポランスキーは小道具や
主題に関わる複線、導線の描き方が巧みなのだ。
それはユダヤ人として受けた迫害の意識からくる
強い観察眼によるもの、とでもいうのだろうか?
例えば、壁に埋め込まれた前住人の歯。
いみじくも女装した本人もまた同じことを繰り返すことになるのだが、
その歯こそは個のアイデンティティとして
つまりは唯一の抵抗として挿入されている。
女を連れ込み、他の住人には迷惑をかけるな、
と散々釘を刺されていることを伏線とし、
その女装の靴音のみによって、
階下の住人には女の存在を知らしめるに至る。
あるいは、カフェで自分の希望するものではないものばかりを
最終的には受け入れなくてはならない。
ひいては、それがかつて自殺したシモーヌの嗜好であったという風に。
その延長上に、女装を纒わなければならなくなってしまった
強迫観念として、自らの運命が重ね合わされていたりする。
ポーランドに生まれながら、祖国を離れ、フランス、イギリス、アメリカと
定住することなく、あたかも間借り人として生きてきた
このユダヤ人としての血の中にある苦悩、
そして嘆き、因縁がこの映画には凝縮されているように思える。
だからこそトレルコフスキーの目には
あらゆる人間たちへ不信になってゆくのだ。
仮に、ポランスキーがユダヤ人でなければ
最初の妻シャーロン・テートは殺害されることもなかったかもしれないし、
のちの自らの幼女への淫行事件さえもなかったかもしれない。
同時に映画監督としての栄光もまたなかったかもしれないと思うと
実に複雑な思いにかられるものだ。
しかし、悲しい哉、ポランスキーの天才性は
そうした悲劇の上に成り立っている。
人間誰しも小さな脅迫概念の一つや二つは抱えているとはいえ、
そこへいきなり「ユダヤ人狩り」級の心理的悲劇を
赤の他人が理解することにはもともと無理があるし、
映画として描き出されるポランスキーの世界は
どこまでも興味深く、また真のサスペンス、
恐怖映画として一線級の輝きを持っていることは
間違い無いのである。
The Tenant : JAPAN
すでに音楽シーンから身を引いたと噂されるロック界の隠遁者デヴィッド・シルヴィアンが、
かつて無碍なく自虐的にゴミといって吐き捨てた
ジャパン時代のロック色の濃いセカンドアルバム『OBSCURE ALTENATIVE』の
ラストを飾るインストナンバー「The Tenant」は
当時、アルバムの中でもひときわ異彩を放っていた。
まだ完成形を模索するジャパンというバンドにとっては
以後の大きな方向性を指し示した楽曲として、
ロックやレゲエの影響下にあるサウンドのなかで
ひときわ静かな佇まいのアンビエントでミニマルな音を繰り返していた。
当時のジャパンの志向性の高さをうかがわせるナンバーとして、
のちのシルヴィアンの足取りを見てもそれを十分証明しているように思う。
その曲がいみじくもポランスキーの映画
『テナント(邦題:恐怖を借りた男)』から触発されたのだと
当時、シルヴィアンは何かのインタビューで答えていたのを覚えていたのだが
映画自体を見たことがなかったゆえに
曲と映画の関係性をうまく掌握できぬままいたが、
その『テナント』をようやく見ることができた今、
ジャパンの楽曲「The Tenant」との接点を見いだそうとしてみたが
果たしてインスパイアされたというほどの符号は
どこにも見当たらないように思われる。
曲の解釈は、人それぞれだが、
少なくともポランスキーの映画のもつ
倒錯的で、強度の脅迫概念は曲自体には表現されておらず、
どちらかというと、当時デヴィッドが影響を受けていた
ボウイやイーノの流れを組む、ミニマルでアンビエントな音感だけが
全面に反映されているような気がしている。
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