鈴木清順『肉体の門』をめぐって
原作田村泰次郎からの映画化『肉体の門』を何十年ぶりかで見た。 以前観たのは映画館ではなく、確かローカルなテレビだったような気がする。 テレビで清順を眺めいるというのは気楽だが少し物足りない。 映画館の闇に身を置けばより楽しめるのは言うまでもないだろう。 その活劇では、泣く子も黙る清順節にグイグイ引っ張られるが 後期に見せたキテレツかつ人を食ったような、視覚第一主義とは一味違う。 いわば清順鈴木流リアリズムの追求はストレートに目につき刺さる。
原作田村泰次郎からの映画化『肉体の門』を何十年ぶりかで見た。 以前観たのは映画館ではなく、確かローカルなテレビだったような気がする。 テレビで清順を眺めいるというのは気楽だが少し物足りない。 映画館の闇に身を置けばより楽しめるのは言うまでもないだろう。 その活劇では、泣く子も黙る清順節にグイグイ引っ張られるが 後期に見せたキテレツかつ人を食ったような、視覚第一主義とは一味違う。 いわば清順鈴木流リアリズムの追求はストレートに目につき刺さる。
大正ロマン三部作、最後を飾るこの『夢二』は 清順愛好家からも、全2作からすると、 少し物足りないという声も聞こえてくるが これはこれ、清順節は相変わらず色濃く反映されている。 その絢爛豪華な美術にはうっとりするばかりだ。 女性陣の着物姿はもとより、装飾へのこだわりは随所にみられる。 なかでも、柱から手を離すと夢二の絵が現れるモンタージュや 廃墟での傾きベットでのいびつな情事、 黄色いボートがいきなり立ったり、それこそ十八番の色とりどりの襖だったり、 夢二の分身に絵を描かせたりと、妖しさ満載のトリックは健在である。
オフビートってものを考えると、ついつい饒舌になり勝ちで それでいて、なんか小難しく考えて悦に入るようなところもあるが 総じて、曖昧かつ懐の深いものであるという魅力を感じている。 その辺りの考察を含めて、あくまで個人的な感想の域を出ないが、 ここでは、オフビートは言葉の遊びのようなものとして捉えて欲しい。 あたかも、音楽を聴くようにしてオフビートを楽しんでみよう、そういうことだ。 オフビート万歳。
多分にもれず、洗脳されているのには自覚がある。 頭の中で渡哲也が歌う「東京流れ者」がどうにも鳴りやまず、 口からもれなくフレーズが飛び出しては、ご機嫌に浸ってしまう自分がいる。 そりゃあ誰だってそうなりましょうよ? それが鈴木清順『東京流れ者』を見た後の 清順狂のザマよ、ってなもんである。 通常のヤクザ映画のように、肩で風を斬るなんざヤボ中のヤボ。 そんな単純なアホウドリは相手にしないぜ、などと息巻く。 ただただその快楽にひとりごちるわけなのさ、あはは