梶芽衣子

梶芽衣子 1947-映画・俳優

梶芽衣子小論法

最近、ストリーミングで梶芽衣子60周年コンサート『セッテ ロッソ』を観た。 彼女の映画を通じて、その数々の歌に親しみはしてきたが、 ここに立つ彼女は78歳。 そこには芸歴60周年のずしりとした重みもあり、 老いてなお、凛とした佇まいでステージに立つ彼女に 驚かされ、そしてしびれるのだ。 時に、姉のように、そして母のような面影を宿す彼女は、 やっぱり、唯一無二な存在だなと、つくづく思った。

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.48 酷薄的女優論映画・俳優

ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.48 酷薄的女優論

ぼくと、ここで取り上げる女優たちとの間には そんな酷薄的な距離がある。 高嶺の花として、それは手は届かぬが、いつも心内にあり、 スクリーンを通してのみ、存在するロマンティックな思いである。 妄想であり、盲信かもしれないし、単なる美化なのかもしれない。 でも、それでいいのだ。 それがいいのだ。 現実には夢はない。 それこそがスクリーンならではの夢であり、 ぼくが描く酷薄的女優論そのものなのである。

キル・ビル 2003 クエンティン・タランティーノサブカルチャー

クエンティン・タランティーノ『キル・ビル』をめぐって

タランティーノが梶芽衣子の大ファンというのはよく知られた話で、 当然のごとくエンディングに「恨み節」が流れる。 何ともニンマリするところだが、肝心の梶芽衣子の『修羅雪姫』の引用は あくまで様式美に過ぎず、『キル・ビル』そのものが背負う「復讐劇」としては 少し唐突な気配がしないでもない。 が、この異国の心の底からの熱狂マニアっぷりが高じて 撮り上げたエンターテイメントにいちゃもんをつける気は毛頭なく むしろ、面白く拝見したという意味では、 正真正銘のタランティーノ神話の、遅ればせながら ようやくその住人になれた気にはなっている。

梶芽衣子映画・俳優

梶芽衣子スタイル「さそりシリーズ」の場合

さて、これは実に壮絶な女の世界である。 しかも女囚とくる。 設定が多少前時代的なのはご愛嬌。 実に血なまぐさい女臭が半端なく漂うが、 可憐だの可愛いだのそんな甘っちょろい少女趣味は微塵もない。 あくまでも男顔負けのどす黒い情念と権力志向で爛々としている。 それにしても、まるで漫画のような世界である。 ありえないような世界の連続である。 B級にもほどがある。 だが、これが映画なのだ。

ろぐでなし VOL.5映画・俳優

ロピュマガジン【ろぐでなし】VOL5.

少なくとも、好きになった映画の、 そのたまらない空間の中に俳優に恋をする、まさにそんな感覚に過ぎない。 言うなれば、その映画が傑作であれ、駄作であれ、 俳優だけで観れてしまう映画というものもまままある。 その俳優が写っているだけで、何かを話したり、何か気になる仕草をしたりすることで 我々観客の心を奪ってしまうほどの存在。 ここでは、そうした比較に基づいて書き始めようなどという大それた考えは一切ない。 ただその映画が好きだという理由を あえて俳優目線に落とし込んで考えてみたい、それだけのことなのだ。