オーソン・ウェルズ『審判』を視る
カフカの『審判』は、ただの悲劇ではない。 それは元より、「自分の手には負えない運命」を前にして、 人がどれだけ可笑しく、そして惨めに振る舞えるか ウェルズは、その本質を見抜き、 一層鋭い「笑い」の棘を与えてみごとに映画化したのである。 勝負はついた。 ただし、可もなく不可もなく、というところだ。
カフカの『審判』は、ただの悲劇ではない。 それは元より、「自分の手には負えない運命」を前にして、 人がどれだけ可笑しく、そして惨めに振る舞えるか ウェルズは、その本質を見抜き、 一層鋭い「笑い」の棘を与えてみごとに映画化したのである。 勝負はついた。 ただし、可もなく不可もなく、というところだ。
冒頭、映画史を紐解いても、これ以上ないというほどの 実に蠱惑的なロングショットで幕を開ける、 オーソン・ウエルズの『黒い罠』は、掛け値無しで傑作だと思う。 だが、単なる傑作として終わらないのがオーソン・ウエルズの オーソン・ウエルズたる所以である。
そこで、今回は、映画作りにおいて 監督兼俳優、ひとりでとりしきる孤高の映画作家を特集してみようと思う。 ひとよんで二刀流映画術。 むろん、映画など、とうていひとりでできるものではないし、 監督と俳優を兼ねるから、出来のいい映画が出来るわけでもない。 それがウリになるほど甘いものではないのだが、 うまくいけば、すべてその二刀流作家の勲章になり こければ、すべての責任が覆い被さってくる。 まさに自己責任である。
酒に女に耽溺する太っちょの不世出の大ボラ吹き。 狡猾かつ豪快な男、 それまで散々放蕩の限りを尽くしてきた 老いたる騎士を自ら演じている。 まさに、シェイクスピア劇の名物脇役は この人しかいないという感じの、はまり役である。 しかも愛嬌たっぷり、実に可愛いのだ。
「好きな俳優のいる映画をみて、その好きさ加減について 想いを馳せながら他愛も無いことグダグダ書く」シリーズ、 前回の邦画編に引き続き、第二弾は洋画編を書いて見たいと思う。 普段、特に、邦画洋画を意識してみることなどないのだが、 やはり、体系化した方が、何かと整理しやすい、ということだ。