ロピュマガジン【ろぐでなし】vol.15
そんなわけで、春たけなわの今、 個人の趣味的範疇において、エロティシズム漂う映画について考察してみよう、 そんな欲望がにょきっと頭をもたげている。 それは必ずしも、直接的でない表現かもしれないし 言葉に依存したエロというものかもしれない。 単に個人的なエロスの観点がさらされるだけだが ひとついえることは、それらが滲ませるエロティシズムは とても興味深いのものだということだ。 人間の生の営みのなかに存在する官能性を喚起するものである
そんなわけで、春たけなわの今、 個人の趣味的範疇において、エロティシズム漂う映画について考察してみよう、 そんな欲望がにょきっと頭をもたげている。 それは必ずしも、直接的でない表現かもしれないし 言葉に依存したエロというものかもしれない。 単に個人的なエロスの観点がさらされるだけだが ひとついえることは、それらが滲ませるエロティシズムは とても興味深いのものだということだ。 人間の生の営みのなかに存在する官能性を喚起するものである
とまれ、この桃色素肌の風を纏い、 ボッティチェッリ、春のヴィーナスの庇護の下 森羅万象、息づく生命にかしづきながら、 一足先に、春をおとどけいたしやしょう。 まずは、春を共に楽しむ音楽編からスタート!
そんな小難しいことはさておき、日活ロマンポルノは わずか70分程度の尺の中に、一定のお色気を含むと言う規定以外は 実に自由で、奔放な映画作りの情熱に突き動かされた、 真の映画狂たちが集う実験の場でもあったのである。 その熱気は男と女の睦みごと以上に熱く、狂わしいものだ。
ドキュメンタリーとは、文字通り単なる事象の記録でもなければ 躍動的写真の連続体というわけでもない。 また、あるがままに晒された現実でもない。 それは多くのフィクショナルな劇映画となんら変わることはない、 映画としての、魔法や方法論を駆使した主張なのだ。
「写真」とは、「ほら」、「ね」、「これですよ」を交互に繰り返す、一種の歌に他ならない。 『明るい部屋』みすず書店 ロラン・バルト(花輪光訳)より 写真というものについて、日々撮るのに夢中な人は増えたと思うが、果たして、何...
「好きな俳優のいる映画をみて、その好きさ加減について 想いを馳せながら他愛も無いことグダグダ書く」シリーズ、 前回の邦画編に引き続き、第二弾は洋画編を書いて見たいと思う。 普段、特に、邦画洋画を意識してみることなどないのだが、 やはり、体系化した方が、何かと整理しやすい、ということだ。
その意味で、自分探し、 自分というものが何なのか? 何をしたいのか、すべきなのか、 という原理原点の問いを 決して他者を巻き込まず、まずは自分事の最優先事項として 必然的に考えることに意味があるのだ。
もはや混沌、カオスといっていい。 その状態こそがシュールなのである。 よって、独断ですべての折衷として、 ここに、アヴァンポピュールというジャンルを旗揚げしようと思う。 それはあらゆる不満、欺瞞に対する挑戦である。 一歩踏み出して、なにかを生み出すにもパワーがいる。 そのための活力源こそがズバリ、アヴァンポピュールというわけだ。 そうしたものをこの素晴らしき世の中にみいだし、 注目すべき指標たちに希望の眼差しを投げかけてみたい。
今日、1月11日はというとマイバースデイ。 1が三つ並ぶ日なので、昔から縁起がいいと言われ 気分は悪いはずもないんですが、 またひとつ歳を重ねたわけで、 どんどん死が近づいているのだな。 でも魂には年齢はないし、それこそ永遠なのだから そんなことには、まったく不安などないのです。 自分は年齢を重ねるたびに軽やかなになっている気がして それはそれで晴れ晴れしい気分、楽観的でさえいるのです。 そんなことをわざわざいったり、考えたりするのが 山羊座生まれの性分なのか、ってことになるのかな? まあいいか。
物質の幸福に、今更何を託せようか? それがひいては宇宙の摂理というもの。 今こそ、人々に求められるものはイマジネーション。 心の中に家を建てよう。 そして、整えよう。 もはやその中でしか、我が魂は生きられぬ。 そんな思いがしている。